※notバンビ 彼といるのは楽だ。変な気を回さなくてもいいし、顔色を窺うこともしなくていい。ときどき無神経なことを言われるけれど、でもきっとそれはお互い様だ。取り立てたドラマはないけれど私たちはこれでいいのだろう。平穏で、波風立たない、そういう友達。 「イルカのオスって、親友に恋人候補ができると、そのメスを他のオスに盗られないようにブロックしてあげるんだって」 「え?なんて?」 「あー…ごめん日本語下手で…えーっとね」 「いや、うん、ちょっとわかった、実は」 そう?と聞き返しはしたけれど、すぐ後ろの背中は返事をしなかった。からころとわざとらしく飴を転がす音が聞こえた。 イルカのオスは、親友の恋路の後押しをする。横槍が入らないように、彼らの仲の番をする。彼らのコミュニケーションを、誰かが邪魔しないように。 「水族館…は、行ったんだっけ?こないだ」 「そう」 「3人で?」 「…3人で」 彼は今、苦しい恋をしている。私と同じように。今苦しいからって将来なにか悪い影響があるわけでもないだろうにそのことばかり考えている。もっと他にやるべきことも考えるべきこともあるような気がするのに、一度にたくさん物を考えることができなくて。 「かわいいもんなー、桜井兄弟のバンビちゃんは」 「ていうかそのあだ名って意外と浸透してるの?バンビって」 彼は話題を変えたがっている。だって彼女の本名を知らないんだよ、と思うけれど言えなかった。ぴったりだと思う。森の女王様だ、彼女は。 「あのふたり、さっき一緒に帰ったよ」 「知ってる」 「追っかけなくてよかったの」 「別に。コウ、あからさまにがっかりするしさ。カワイソウじゃん、お兄ちゃんがさ」 かり、と飴玉を噛んで空振りするみたいな音。屋上は潮風がきつくて、髪はぼさぼさだし目が乾く。首だけ後ろに振り向いてみると、桜井琉夏の、細いけれどそれなりに広い背中が目に入った。金髪と一緒になびくピアスの音が、急に聞こえた。きりきりと高い、忙しないけれど澄んだ音だった。 「お前はさ、どうなの?」 「何が」 「あのふたり、もうくっつくよ」 「うん」 「あ、あっさり。いいんだ」 彼が振り返った。あまり表情のない彼の顔を見て、色素が薄いよなあ、と関係ないことを考える。 「ヤボしたら、桜井弟が怒るしね」 「俺が?ほんと?」 「だってイルカでしょ」 「あ、そうか。本当だ」 彼も彼女が好きだ。イルカも三角関係で苦しんだりするだろうか。 「コウのやつ、照れると顔、赤黒くなるんだ。面白くない?」 「まあ、色黒だもんね」 くく、とこもった彼の笑い声を聞いて、脱力してしまう。彼はいつもなんとなくあっけらかんとしていた。 そのあっけらかんとした態度の中身に悲しい気持ちが充満しきっている気がして、いたたまれないような、やるせないような気持ちになるにはなるけれど、だからと言って何ができるわけでもない。難しいことや苦しいことを深く考えないために、近くにいるだけだ。居心地の悪さを感じてここにいるだけだ。 「風冷たくなってきた。帰る」 「ん。バイバイ、名前ちゃん」 「うん」 桜井琉夏は、海を見ていた。今日は少し波が高い。 一度気付いてしまった彼のピアスの揺れてぶつかり合う音は、近くを離れてさえ耳のそばで聞こえるような気がした。 title by 深爪 ×
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