ノート | ナノ
  1130 / ロイド・アーヴィング
「ずっとあなたのことが好きだったから、どうやって人を好きになるのか忘れちゃったのかも」
「………え」
「そんな顔しないで。話半分に聞いてよ、こんなこと」

ロイド。彼との旅が終わってからいったい何回その名前を聞いて、口にしたことだろう。彼を思ったことだろう。
再生の旅から一年と半年、彼とふたりで旅をした。彼の目的の手伝いをするためで、彼と親しい人々の大半と別れての旅だった。どうして彼があの中から私と行くことを決めたのか、訊くことはしなかった。どんな理由であれ、必要だと言われたらついていかないわけにはいかなかった。私は嬉しかったのだ、単純に。
彼は、隣でみるみる少年から青年に成長していった。背が伸びて、声や態度に落ち着きが出てきた。いつまでも少年のままと思って接する私に、ムキになるどころか苦笑して、「俺ももうガキじゃないから」と言ってのけた彼を、私は確かに子供と言うことができなくなっていた。
彼は私が彼を愛していることをあのときまで知らなかった。私が彼に返答を求めなかったのは当然だった。私たちは寝食を共にする旅の仲間ではあったけれど、それ以外の関係にはきっとなれないに違いなかったから。


1125 / 新城直衛
この女は周到だった。だからこうしてのんきに細巻に口をつけて呆然としていられるのだ。強い酒の味で舌が焼けそうに熱い。その上を煙が慰撫し、口の中に血錆びに似た、けれど甘いものを広げていく。手落ちなく、ぬかりなく、計算高く、この女が近付いてきたということに、きっとかれは気付いている。
それこそ落ち度だ。…いいや、気付かれてもいいとさえ思っていた。その上で、無関心そうに一瞥をくれたそのひとが私を拒みさえしなければ、それで、私の思いは遂げられたことと同然だったのだ。
同然。けれど、本当にそれがほしいものなのだろうか?
血と肉、雪、泥、垢、糞尿、火薬、錆び。戦争にはいつも男も女もなかった。身体と武器、味方、敵。戦場はいつも逼迫して加速度的で遅々としていて、死んでいくものの中で自分の生きていることがいっそ謎めいて思えるほどだった。
それが帰ってきてみれば、自分のおんなを売りにして、ほしいものがほしいときた。この身体の肉を女であろうと振り絞って、必死になって、みっともなくともはしたなくとも、ほしくてたまらないのだ。そうして周到に蛇のように這い寄っていって、思いは遂げたはずなのに、この気持ちは何だろう。

互いに、既に衣服を乱れなく着用し、壁際にもたれて煙草を喫っている。何事もなかったかのようだ。ただ酒を飲んで、趣味の話題か何かで話し込んだだけのような。常夜灯の明かりがちらちらと部屋の端を舐めている。こんなにむなしい心地になると知っていたら。…否、分かっていた。こんなものだ。様を見ろ、この岡惚れ小町。朋輩どもの笑う声が聞こえるようではないか。
「私の心算、ご存じなのでしょう」
「ちょっと買い被りすぎていやしないか」
「そうですか?」
「君のような女に、男としての魅力を感じると言われて半信半疑、楽しんでしまうような男だぞ」
私はあなたのそんな、あけすけなところが。不埒なところが。…吐いた煙が薄れて消えた。見たものが、ふれたものが、忘れられずにいる。
愛されて抱かれたわけではないのに、私は嬉しかった。でもそのことがことさらにむなしい。思うところが多くて厄介だ。これは恋だった。そんな厄介なものに足を取られてもがいている。
こんな気持ちになると分かっていたのに、食いついた肉から牙を抜けない間抜けな蛇。ほしいものなら初めから決まっている。
けれど一方で、彼にとっての何にもなれないことを分かっていた。私が身を置くための席など彼のそばにはなかった。鷲の目を盗んで近付いても、丸呑みにもできず牙を抜くこともできず、まして獲物を引きずって逃げるだけの力もない。間抜けな蛇。


1125 / 松永久秀
「眠っているのかね」
女は横たわったまま、振り向きもせず応えなかった。男はゆっくりと、優雅な足取りで部屋に踏み入った。隅に置かれた香炉から、薄くもやが漂い出ている。男は、色づく空気をかき回し、背を向けて寝そべる女のそばへ歩み寄る。
女の目がまたたいた。男は喉の奥に笑声をこらえ、大柄の椿の小袖を見下ろした。一度、二度、瞼が上り下りし、女の慎ましげなくちびるからため息が漏れる。
「火を消して」
高飛車な、それでいて懇願するような、女の、息のすべてを吐きだすような口調。男は香炉に手を伸べた。ふ、と煙がやむ。女が身体を起こした。
「ひどい顔だ」
揶揄する男の喉から、ついに笑声が漏れた。明らかな嘲弄の響きに、女は眉ひとつ動かさずに、男が口元によどませた微笑をまじまじと見つめる。
「その火を消して、弾正」
椿の絵柄を握りしめて女が言う。男は構わず、女の髪に右手を差し入れた。くしゃりとたわむ黒髪を見るにつけ、男は笑う。欲求と怠惰のかたまりを覆う濡れ羽のように艶やかな髪。こんなにもみにくい女が他にあるだろうか。
「どこに火の立つのが見えるのだね、卿には」
薄れていくもやの陰に女のくちびるが濡れている。男は、埒もない問答に愉快になっている。男の手の甲に手を重ねて女は、男のふくろうの目を見返した。清濁の別なく好ましいものを食い散らかしてほくそ笑んでいるふくろう。
女は、静かな夜に低く、しかし辺り一面に染みとおる、ふくろうの鳴き声を聞いている。
「もてあそんだおもちゃを片付けないのは、あなたの悪いところよ、弾正」
女の手がするりと落ちた。男は女の顔にふれるのをやめた。女のみだれ髪に煙が絡みつく。


1124 / 綾部喜八郎
「またこんなところに穴を掘って、怒られるよ」
「そういうあなたは、また忍たま長屋の方まで来て、怒られてしまいますよ」
穴の底から、泥だらけの白い顔で、綾部はこちらを見上げた。彼は土に突き刺した踏み鋤の柄を、ぐ、と引いて抜き、肩に担ぐ。案外、男らしい仕草の綾部。せっせと穴掘りをするので、女の子のようにかわいい顔に似つかわしくなく、彼の生身の身体は実はとてもごつごつしている。
「まだ寝ないの?」
「ええ、まだ寝ません」
綾部がふいと顔を下に向けた拍子、やわらかそうな濃い灰色の髪が、彼の白い顔の線を覆った。彼はとても美しい少年で、それからとても掴み所のない不思議な子供だった。年などふたつしか違わないのに彼がとても幼く思えるのは、それなのに、むしろそのせいで、彼の頭の中が謎めいて思えるのは、私もまた幼いからなのだろうか。私は彼の見目の美しさに目先のくらんだ、幼い女で、けれど幼くとも、女は女なのだ。これを恋と思いたいばかりの。
「綾部」
「なんです」
「…何を言おうとしたか忘れた、ごめん」
綾部は坦々と穴を掘った。私はふちに立って彼の姿を眺めている。今夜は月が明るい。彼の髪がふわふわと揺れている。彼が底からかき出している土くれは一度も私にぶつかっていない。
「あなたは、そこで見ていて楽しいですか」
ざく、ざく、とよどみない音がしている。私はその場に座り込んで彼の背中を見た。彼の、袖口から見える腕の、隆起する筋肉が、まるで彼の顔かたちに似つかわしくなくてときめいてしまう。綾部は私が答えないので、ちょっとだけ振り返ってこちらを見た。大きな水気の多い目が、月明かりの下で猫のように光っている。
「綾部は楽しいの?」
「ええ、楽しいですよ」
「綾部」
「なんです」
「好きだよ」
綾部は手を止めた。土を掘る音がしなくなると辺りはしんと静かだった。彼は踏み鋤を穴の斜面にやさしく立てかけて、ふうと一息つくと、私の方に身体を向けた。猫のように大きく目を見開いて。
「なら、この穴に落ちてきてくれますか」
彼の声は静かだけれどはっきりとしていた。
私が何も言わずに一歩前に出たのを見て、綾部は穴の底で泥だらけの両腕を広げた。穴のほぼ直角の斜面を踵ですべり降りていくと、ちょうど彼の胸にぶつかって、私の身体は止まった。どん、という鈍い衝撃が身体中に響く。綾部は私とほとんど身長が変わらないのに、けれど私を受け止めた彼の角ばった肩と腕と厚い胸板は、容姿どころか年齢にすら不相応なたくましさを持っている。
彼の着物は少し汚れていて、身体は芯から暖かかった。鼓動の音が静かで、ひどく落ち着く。

きっと望んだ通りに世界はここで途切れている。ふたりきりにしても狭苦しいこの円周の内側で。

1124 / 立花仙蔵
牢の格子にかけた私の手を、彼は松明の明かりの届かない遠まきに見ている。暗がりの中で、彼の白い肌は亡霊のようだった。きっと彼から見た私も似たようなものだろう。
「似合わない下手を打ったものだな」
暗がりから彼はささやいた。そこに佇んでいる痩躯は微動だにしない。
「ええ、そうね」
松明がぱちりと音を立てて、小さく爆ぜた。彼は口元の布を、つと指先で持ち上げた。目を伏せた彼は今にも踵を返して去っていきそうだ。一瞬の幻のように、幽霊か何かのように。
「お遣いのついでに、顔でも見に来てくれたのかしら」
「あいにくだが、ついでなどというものでもなくてな」
彼は予想に反して松明の明かりの中に踏み出してきた。濡れたように光るつややかな黒髪が揺れる。彼の白い肌と、全身によどみなく走る殺気とが彼をすっかり浮世離れしたものに思わせた。ではお遣いの主旨とはおそらく、捕まった密偵を殺すことに違いない。まだ捕まって一昼夜。口を割ってはいないが、疑われるのは仕方のないことだった。そもそも、この失態だけで充分に罰を受けるに値する。
仙蔵は目の前に立って、少し目を細めた。冷たげにも見え、ためらっているようにも見えた。
私は後輩の女の子をひとり伴って、この城に正面から入った。城下で評判の踊り子たちの集団に紛れ、城の戦備やら士気やら、近く戦を始めるという噂の真偽を確かめるための密偵として、途中まではうまくやった。後輩には昼から始まった酒宴の席に紛れての情報収集を任せて、私は城内および敷地内の戦備と兵糧の備蓄等々を見て回っていた。
「何をしに来たのか聞いてもいい?仙蔵」
「そうだな」
彼は控えめに首肯し、これも控えめに、けれど軽い仕草で忍刀の鯉口を切った。
「学園長先生から、捕縛されたくのいち一名、救助のお達しだ」
彼が刀を振るうと、錆びついた錠前がかちりと固い音を上げて本締が切れた。彼は平然としている。
「お上手」
「出ろ」
扉が開く。格子戸をくぐると、取り上げられていた武器の一式が投げ渡される。何でも手回しのいい男だ。
「外が騒がしいようだけど」
「北側の蔵に時限式の焙烙火矢を仕掛けてきた。その消火作業だろう」
行くぞ、と彼が顎で促す。鋭角的なその顎を、ぐ、と引いて彼は前を見る。大股に、腰をかがめて、音もなく走っていく。揺れる黒髪の末端をじっと眺めてそのあとを追いながら、疲労した肩を少し動かす。遠くから聞こえるボヤの、収拾のつかない喧騒のお陰で私や彼の存在など掻き消えてしまったようだ。
土塀を乗り越え、森へ分け入る。互いに夜目が利くのを知っているので彼は振り返りもしないで進んでいく。彼のささやき声が木々の間を渡って耳に届いた。
「ひとつ、貸しておくぞ」
「ええ、ご用命の際はお気軽に」
「間抜けなくのいちの卵を救助するのにわざわざ志願した甲斐があったな」
仙蔵は、美しい女の風体でせせら笑った。


1124 / 高尾和成
宮地さんのクラスメートで、口が悪くてエロい身体してて、そんで下手な男より強い。空手だか古武術だかやってたんだそうです。肌が白くて腕なんかめちゃくちゃ細くて、身長190オーバーの宮地さんが椅子座ってるところにすかさずヘッドロック仕掛けるような変な人。
その彼女がマジでガチの変質者を倒すところを見てしまいました。
ストレートに追っかけてくる系変質者に遭遇3秒、先輩は、いざ襲いかかろうとした男の顎に、上段蹴りを一発。蹴りなのに横殴りにしたような、まっすぐで速い蹴り。まさに一閃!って感じ。少年漫画みてー。スローモーションみたいに、黒くて長い髪がばあっと風にあおられたみたいに空中で広がって、肩へさらりと落ちていく。
「チョーかっけー」
リアカーなしのチャリを引いたまま動けずにいた格好のつかない俺を振り返って先輩が笑う。
「逃げよ。私、帯持ってるから過剰防衛で捕まる」
「え、でも相手思いっきり変質者じゃないすか」
「いいからいいから」
先輩は俺のチャリの籠に自分のかばんを置き去りにしたまま、軽やかに走り出した。ローファーの踵が硬い音を立てて、黒い髪は相変わらずさらさらとなびいている。
「せーんぱい」
チャリに乗って追いついて、俺の後ろに乗ってほしくてチャリを止める。
「高尾の後ろ、空いてますよ」
先輩はさっと身軽に乗り上げたチャリの後ろに立ち乗りして、けらけらと楽しそうに笑った。


1123 / ギアッチョ
「怒りっぽい男はきらい」
「……お前に嫌われたから、どうだってんだ」
彼は顔を背けてそれだけ言い返した。
思ったよりも女っぽく官能的に、それでいて小ばかにしたように響いた、まるで自分でないような自分の声に私自身が一番驚いている。
ギアッチョは言い返すのを早々とやめてしまった。いつもなら聞いてもないことまでまくし立てて勝手に腹を立てているくせに。めがねのふちをかちゃかちゃと忙しなくいじっている。
彼はさっき、いつも通り、きっと彼以外の誰かならどうとも思わないほど些細な、道理の通らないことに腹を立てている真っ最中だったのだが、アジトの居間に置かれた簡素なテーブルの脚や椅子やらを蹴倒した辺りで大声を上げての自問自答をやめて、ひたすら地団駄を踏み始めた。読書をしていた私はそのあまりの子供っぽさとうるささに思わず、辞書でも引きなさいよ、とうんざりして声をかけた。それがお気に召さなかった彼はそこからさらに怒鳴った。辞書引く以外にあんた、方法ないでしょう。ここパソコンないんだから。彼の喚く声に頭痛を催して頭を抱える。他のメンバーは出払ったアジトで、私と彼しかいないのに、こういうキレキレのギアッチョの相手をするのが心底苦手なために結局方法を見失い、私はため息と一緒にソファから立ち上がって、あまり本など置いていない棚から背表紙の擦り切れた辞書をぐっと乱暴に引っ張ってそのまま放り投げた。ギアッチョは片手でそれを掴んだ。口角を片方だけ不愉快げに持ち上げて、彼は凶暴な顔をした。唇の間からテメエ…とうなるような声を出して、彼はイライラの頂点みたいに口を開こうとした。一瞬、私と彼の間の空気がひやりと冷えた。私のこと凍らせる気かよ。
--そこで冒頭に戻る。
あんたの癇癪には付き合いきれないわよ、と。彼がまたワーワー売り言葉を言い出したら返そうと思っていた買い言葉が口腔の空間に漂う。拍子抜けした。
どっか悪いの?と聞きたいような。おそらく私だけが一方的に気まずい沈黙が降りてくる。一瞬、マジでこんな狭いアジトの中で彼が一戦やらかす気に思えたので自分のスタンド出す気満々でいたのに。落ち着かなさそうに、それでもまだ苛立ちの残る所作でギアッチョはめがねをいじったり、そのとんでもない癖毛を引っ張ったりしている。彼がただ黙っているととても、不気味だ。
ねえ、と。声をかけようとした私よりほんの少し早く、ギアッチョがカッと見開いた目をこちらに向けた。なんだよやんのかよ。ちょっと弱気にファイティングポーズをとった私を、今度は怪訝な半目で睨みつけ、ギアッチョは言った。
「お前みてェなクソ女に嫌われたからって、だからってオレがどう思うってんだよ?なァ?…クソッ」
「……知らないよ、意味わかんない」
まったく要領を得ない。彼はいったいどうしてしまったんだ。
「知っとけ、バカ女。マジで空気読めねー……なんだよ空気読むってマジ……クソッ」
「ねえギアッチョあんたさぁ、頭打った?平気?」
「うるッせえよこのクソバカ女!」


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