リクエスト | ナノ

知ってるよ、庵さんは私のことなんて眼中にないことくらい。
知ってるよ、私は庵さんのことが大好きでも成就しないことくらい。


乾いた笑いがこみあげてきて、私は声を押し殺した。こちらを見たのは聡明さんが入った弥太郎だった。彼は鼻が利く。だから私の今思っていることは見破れるはず。鼻をぴくぴく動かして私をしっかり見据えるとにやりと意地汚い笑みを浮かべた。なんだ、恋い焦がれることがいけないのか。ふざけるな。心の中にチリのように積もる黒い感情。私はあえて口に出さないけれど、鼻が利く彼にはしっかり伝わっただろう。


「おいおい、そんな泥臭い感情出すなよ」


聡明さんは私に鼻をつまみながら追い払うように言い放った。このままじゃ、聡明さんに絡まれてめんどくさいことになる。あと五分で庵さんのお店が開店する。ここから歩いて行ったら開いている。近づいてくる聡明さんを華麗に躱して私は立ち上がりコートを手に取った。財布を手にとってポケットに入れると、後ろから声が聞こえた。


「忘れんな。お前は誰の所有物で誰のおかげで生きてられてるか」

「ええ、貴方のおかげでこんなにもくだらない狼になりました」

「それでいい、お前はそれでいい。それこそ野良だ。忘れてないな」


小さくうなずいて私はその場から逃げるように出て行った。聡明さんが今頃どんな顔をしているのかは知りたくはない。

冷たい風が頬を突き刺して自分の住処へ戻れ戻れと促しているようだった。うつむき加減で歩いていると、大きな水たまりと出会った。水たまりに映っている私はひどく落ち込んでいるように見えた。そのあとから髪の毛がぼさぼさだとか、服装がかわいらしくないだとか。庵さんと共に手を取り合えって人生を進めるならもっと力を入れているだろう。けれども、私にはそれが不可能。ただ、会えることだけの幸せだけ感じておこう。髪の毛はてぐしで直して、黒いコートをキッチリとしめてできるだけ普通の社会人に見えるように努めた。

庵さんのバーが徐々に見え始めた。明かりがついていて、おしゃれな雰囲気を醸し出している。私は吸い込まれるようにバーの扉を開けた。呼び鈴が鳴る。


「いらっしゃいませ…ああ、今日もいらしてくださったんですね」

「こんばんは、庵さん。今日もいいかしら?」

「ええ、どうぞこちらへ座ってください」


甘くとろけるような吐息交じりの言葉にドキドキの胸が高鳴る。整えられた髪型に何故か安心感が湧いて、私は庵さんに勧められたカウンター席へ移動した。庵さんの目の前。私の特等席。彼との距離も近くて、楽しい会話も進む。夜更けになるにつれお客さんが増えるのでなるべく口を開かないようにしているけれど、庵さんはそんな私を気遣ってか話しかけてくれる。コートをかけて、携帯電話をカウンターの上に置いておくと庵さんは「今日も同じものにしましょうか?」と声をかける。


「…なにかつまめるモノも一緒に」

「食べてないんですか?」


その言葉は濁した。返事なんてしなかった。もしもここではいっと言ってしまえば何かしら私の素性を話さなければならない。


「ちゃんと食べてください、そのあとで出しますから」


庵さんは心配そうに私を見る。困ったな、ガサツな女って思われちゃったかな。「何が好きですか?やっぱりお肉ですよね?」と、私の好きなものを挙げた。おいしいお肉が好き。庵さんはすぐに戻ってきて、片手にプレートを持ってきた。ジャーマンポテトと人参のグラッセ、豚の角煮。どれもおいしそうだ。


「パンがいいですか?ご飯がいいですか?」

「じゃあ、パンで」

「わかりました、バケットでいいですか?」


私は小さくうなずいて、出された食事に手を付け始めた。トロッとしているお肉にほくほくと温かいジャーマンポテト。やわらかくて、食べ応えのある人参のグラッセ。庵さんの表情は穏やかで、何を考えているかわからなかった。温かみのある、誰にも向けられなかった眼差し。胸がどきどきしている中でする食事は味気ないと聞いたけれど、とっても美味しく感じる。食べ終えると庵さんはにこやかに「では、こちらをお楽しみください」といつものお酒じゃないものを出した。


「同じものを食べ続けたり、飲み続けたりするとストレスがたまります。うつ病の一歩手前と考えた方がいいです」

「庵さんは本当に何でも知ってるのね」

「…あなたのことを知りたくても知ることができません」


庵さん、今なんて言った?頭の中に入ってこなかった。


「貴方のことが知りたい」


いつでもポーカーフェイスの庵さんが、私に思いつめたような表情を見せてカウンター越しに近づいてきた。そっと手を伸ばしてわたしの頬をふれた。こんな時こそちゃんとメイクしてくればよかった。きっとボロボロの肌に、傷跡、崩れかけたアイラインが分かってしまう。恥ずかしくなって顔を赤らめて後ろに下がろうと思ったら、今度は手首をつかまれた。


「このお酒の意味、分かりますか」

「わ、からない」

「今夜はあなたに捧げる、という意味です。あなたが貴方自身の素性を明かすのが嫌なら、うわべだけの関係でもいい、今夜だけでもいい、一緒にいてください」


必死になっている庵さんは初めて見た。徐々に顔を近づけてくる庵さん、私には抵抗する意識はない。口紅が取れた唇にそっと庵さんは触れるだけのキスをした。


「庵さん、今夜だけなんて言わないで」


出されたお酒を一口だけ飲んで、小さく呟いた。庵さんから息をのむ声が聞こえた。顔を上げると庵さんは顔を赤らめていて、口元を抑えていた。クールな庵さんに少しだけ近づけたような優越感に浸る。庵さんは咳払いをして「奥へどうぞ」と通した。私は魔法にかけられたようについていく。もしも、私が野良の一員で、それでもって狼に拾われた人間で、いろんな人間を騙してきた存在だと知ったら庵さんはどうするの。不安さえ踏みつぶした。