リクエスト | ナノ

「何聴いてるの?葦木場君」


洗濯物をしているとき、先輩が声をかけてくれた。いっつも一人ぼっちで、冷たい水に音楽では必須の指をさらして洗濯物を指定。先輩は俺を洗濯係りとしてではなく、ちゃんと自転車競技部の一員として、選手として見てくれる。先輩は俺より小さくて、ほっぺたは赤らんでいるのが特徴。真っ黒の瞳が俺を捕えている。返事がなくて次第にワタワタする先輩。俺は、聞かれた質問を思い出そうとして焦った。


「あ、ご、ごめんなさい、質問、聞こえなくて」


耳にかけていたイヤホンをとって、先輩にもう一度聞くと先輩はにっこり笑っている。普通だったら「一回で聞けよ」なんて、ユキチャンみたいなことを言うはずなのに先輩は優しい。


「葦木場くん、何聴いてるのかなって」


ぬれた手で触ってしまったイヤホンをTシャツに拭っていると、俺が蛇口をひねったままで水を流しっぱなしだったのを止めた。キュっと絞められた音が聞こえて、俺はなんていえばいいかわからなくて「ごめんなさい」と言った。この部活に入ってから、ごめんなさいという言葉が増えた。先輩は困ったように笑って言った。


「こういう時はありがとうって言うの」

「うん、じゃなくて。はい!」


先輩は魔法使いかもしれない。ほんとに。


「で、何聴いてたの?」


俺はイヤホンを首にかけて洗濯物の続きを始めた。先輩もクラシックには興味があるらしく、よく、俺にどんな曲が好きかとか、どの作者が好きかとか聞いてくる。自分のことを聞かれているわけじゃない、ただ趣味を聞かれているだけなのに胸がどきどきする。先輩を抱きしめたくなるけど、先輩がそれで、びっくりしちゃって遠い遠い場所に行っちゃったら嫌だ。ただでさえ、一歳違いなのに。


「クラシックで、その、バッハのシャコンヌ。無伴奏曲ヴァイオリンソロ」

「バッハかぁ、私も好きだよ」


バッハは宗教音楽を主に、どちらかと言えば暗くて、卑屈っぽくて、鬱な音楽が多い。けど人間の裏表を訴えているようで好きだ。


「ドキドキするよね」

「え、えっ!?ど、どきどき?」


「ん?だって昔の人と会話しているようで、聴いてるとドキドキしない?」と弁明する先輩。なんだ、曲の事か。俺は心の中で小さなショックを受けつつ、洗濯物に集中した。先輩の指も、俺の指も真っ赤になってる。冷たい水で、洗濯機では落ちない汚れを落としているから。もしも、俺が、人間洗濯機だったら先輩はこんな水仕事しなくていいのに。俺がもやもや考えていると、はっとひらめいた。


「ねえ、先輩。俺、時々思うんです。水仕事をしているとき、水がはねたりするでしょ?まるで妖精さんと遊んでるみたいに思えるし、石鹸で泡立つとお城ができそうに思えたり」


「さすが天然」と、ボソッと聞こえた言葉に「え?」っと聞き返す。


「あ、ううん。続けて?」

「うん、あのね、水の戯れってラヴェルの、ピアノソロ曲にあるんです。水の戯れっていう曲を聴きながら洗濯物をしてると、ちょっとだけ冷たさを忘れることができるんです。先輩も聴きませんか?俺のアイポッドに入ってるんですよ」


俺と先輩の身長差だったら、イヤホンを半分こしてても聴ける。俺はさっきまで使っていたイヤホンの片耳を先輩に渡して、曲を探した。選曲すると、すぐに曲が始まった。先輩は初めて聞く曲らしく、耳を澄ませて聴いている。俺は先輩の後ろに回って先輩の洗濯物を手伝う。先輩の手は使わないで、俺の手で。そんな俺に驚いた先輩は手を重ねて洗濯物を始めた。先輩の手は冷たい、けどなんだか手じゃない、どこかが温かく感じた。水がはじけて、落下して、水が広がって。その繰り返しなのに美しい旋律のおかげで飽きることがない。


「葦木場君、イイ曲だね。これ」

「うん!じゃなくて、はい!」