リクエスト | ナノ

真波はどこを見ているのか、私にはわからない。きっと、私みたいな近い存在なんて見ていない。薄っぺらい人間のことなんて彼は見ていないさ。ただ、彼に淡い思いを寄せている人間なんてこの空間だけで何人いるだろうか、そっと目を閉じて私は思いに馳せた。彼の中にいる女性、いいや人間という存在は何人いるんだろうか。


彼と会話をしたのはたった一回だけ。それは本当に事務的な連絡だった。たまたま授業で配られたプリントをなくした私と真波は、先生からプリントの原本をもらってコピーをしに行った。真波が原本を一度だけ見つめて、分からない、と言わんばかりの表情を浮かべてからの無邪気な笑顔。笑いながら「今日は本当に天気がいいよね。こういう時こそ自転車に乗りたいな」と、遅刻常習犯さながらな言葉。私だったらそんなことできない。私はただ、そう。とだけしか答えなかった。

「ねえ、自転車好き?」

「私?」

「うん」

なぜ、自転車なんだろう。あ、そうだ、真波は自転車競技部だ。私が自転車に乗るなんて、ちょっと遠出をするときくらいで、自転車が好き嫌いというところまで考えが到達していない。けれども使いやすくて、便利だという点では好きかもしれない。

「好きだよ」

そう答えると、真波は目を見開いた。予想外の答えだったかもしれない。普通の女の子だったら「自転車が好きか嫌いか聞いてくるなんて面白いね」なんて言って話題をそらすだろう。私はそんなの考えない。ちゃんと言葉のキャッチボールは返す。

「そっか、俺も好きなんだ。ビューんって風を切って、前に進んで」

真波はそこからすごくうれしそうに自転車のことを語った。


そんなことでおしゃべりをしたことしかない。あの時のキラキラした目に私はひかれたのだ。自転車についてあんなにも輝いて説明しているなんて素敵、そう思って私は恋に落ちた。ふっと目を開けるといつもと変わらない景色。何を夢見ているのか、笑ってしまう。私は机の上に開かれている教科書を片付けて帰り支度をした。少しだけくたびれているリュックに荷物を入れて、収まりきらなかったお弁当バッグを手に持って席を立った。
ごそごそとリュックの中で荷物がぶつかり合う音が聞こえる。そのとき、ふと二階の窓から見慣れた男を見つけた。真波だ。真波の隣にはいつも一緒にいる委員長がいる。周りからはあの二人は幼馴染で付き合ってはいない、と聞くけれど私にはそうは思えない。

真波の目にはちゃんと映っている人間だから。あふれ出てきそうな涙をこらえて私はじっとその二人を見た。これが現実なんだって、自分自身諦めるように。


家に帰ると従兄の純太が泊まりに来ていた。休みを利用して箱根山を自転車の練習に使うそうだ。純太は私の少しだけ赤かった目に気づいたようで、目を見開いていた。気遣うように私に話しかけた純太の行動にずきずきと胸が痛かった。

「どうしたんだ?今日嫌なことでもあったのか?」

「ううん、なんでもないの」

「学校、つらいのか?」

「学校はつらくないよ、忙しいけど楽しいよ」

純太は優しく問いかける。これほどまで優しくしてくれるなんて本当に優しい従兄だ。私はふにゃっと笑ってみるけれど純太は納得していないようで、何も握っていない私の両手をつかんだ。そして優しく何度も撫でてくれる。

「もしも本当につらくなったら俺に言ってくれると嬉しい」

「どうして?」

純太は直ぐに答えようとしていたけど、ちょっとだけ間があいた。

「俺だけを頼ってくれてるんだ、って気になるだろ」

そう言って純太は私の手を握って笑いかけた。