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「ひとりきりとはなんとも虚しく寂しいものだ」


片手にタバコを持って私はいの中の蛙に話しかけた。草木がうっそうとしげる場所にぽつんと時代を感じさせる井戸の中には、たぬきに戻れなくなってしまった蛙が住まっている。

井戸の縁に腰掛けて、視点を定めることなくぼんやりと目の前に広がる景色を映していた。住めば都で、彼も彼で井戸の中を気に入っているらしい。けれど蛙は一人ぼっち、寂しくないなんてありえない。己の過ちに頭を抱え、ひとりきりで悩み果てるのは何より苦しくて虚しい。
短くなった煙草を携帯灰皿で押しつぶす。ふう、っと煙を吐き出すと曇り空と同じ色だった。


「ほぉ、俺と同意してくれるのか」


蛙、いいや、戻れなくなったたぬき、元いい下鴨矢二郎はのんびりとした口調で私に話しかける。先程までずっと黙っていたのに、こういう時だけは反応を示す。私の癪に障った、その態度に悪口を挟む。


「同意なんてしてやるか、くたばれ」


右手に携帯灰皿を握って力を込めて拳を作る。左足のかかとでドンと強くけったのに、びくともしない、腹立たしい気持ちを伝えるのは、彼には難解なのかもしれない。手の肉が挟まるのを覚え、私は拳を開いた。赤くなっているのがわかる。平手をぐっと伸ばすと一瞬だけ、白っぽくなる手のひらだが肉をはさんだ部分は消えない。

井の中の蛙はそんな小さなできことも知ることはない。


「子女がそんな汚らしい言葉を使うものではない、取り消せ」

「っ、だから」

「?何が言いたいのか、俺にはさっぱりわからん。そろそろ答え合わせをしてくれ」

「ム、基本的に貴方はマイペースで他人に気を配ることなんてないのに」

「失敬な。俺だってこれほど仲良くしてくれたお前に、適当にあしらうという愚行にはし程外道ではない」

「話が壮大だな」


仲良くしてきたわけじゃない。私が一方的に、慕っているから何度もここへ通うのだ。下鴨矢二郎はそんな私の恋心を知ることもなく、のうのうと井の中で暮らしている。

ケタケタと人形のように私が笑っていると、誤魔化すなと叱責するように言葉を返す。


「ほれ、さっさと答えを示しておくれ」


携帯灰皿を胸ポケットに入れて私は新鮮な空気を吸う。曇った息を忘れさせてくれるような空気に私はありがたみを感じた。


「私がもうこの古臭い井戸に来ることがなくなってしまう。それが寂しいの」


井戸の中に落ちてしまえば、こんな気持ちを忘れることは簡単かもしれない。魔が差す。靴を脱いで、井戸の中に足を入れてぶらぶらと揺らしてみる。遠くて、奥が見えない。吸い込まれそうだ。そんな場所に、たったひとりで彼はいるんだ、そんな彼に慕情を重ねているのだ、大粒の涙が頬を伝い、足元に落ちるのではなく井戸の中に引き寄せられてゆく。


「はて、その言い草はないだろう。罵り倒してきたお前が何故、泣きながらそう言うんだ?」

「最後だけでもいいから、元の姿を見せてくれれば嬉しかった」

「違うのだよ、それは。俺が聞きたいのは、寂しいとはなにゆえ?また会えるではないか」

「…矢三郎からなにも聞かされていないのかい?私はたぬきではない妖怪と婚姻を結ぶことになったのさ。もう、その屋敷からは出られぬ」

「…そう、か」


頭上にはたぬきではない妖怪が空を舞っている。悠遊自在と天を翔ける彼らに縛られるのは払拭できない事実。下鴨矢二郎は嘆くこともなく、残酷な言葉だけを受け止めて、底から聞き取れるか聞き取れないかの瀬戸際の返事を出した。


「どれどれ、泣くではない。それ以上泣いてしまうと、俺はお前の気持ちを汲み取ることができない現実を熱く受け止めなければならない」

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