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愛した人が何処か遠くへ行く時に、私の胸には必ず汚泥のようにドロドロとした感情が生まれてくる。どこで汚い感情を学んだのかは知らない。鏡の前に立ったら、その感情はすっと跡形もなく消えている。この歳になってようやっと黒い感情の正体を知ることができたが、包み隠さず相手に口からは出せない。恥ずかしくて、独りよがりで、馬鹿らしくてできないのだ。これほど罪深い女を愛してくれる人など此の世の中にいない。


煙管を片手に私は起き上がると片目を隠した白髪の男、ギンコさんはちらりと私を一度だけ見た。きっと今まで沢山の女性を映してきたんだろうなと、バカみたいな独占欲を心の中で吐いた。咥えていた煙管からそっと唇を離して、はあっと溜め込んでいた煙を吐き出したあとに私は胸に秘めていた疑問を、軽い声音で言った。



「ねぇ。聞いてもいい?君はいつ此処に来てくれるの?」

「あ?次?そうだな、一山、いいや二山超えねばならん山があるからな。だが、そう長くはないだろう、なに。たんとお前さんにゃ蟲の話をしてやるよ」



ぼんやりと考えを浮かべているギンコさんの横顔を、私は瞼に焼き付けるように見ている。煙っぽい空間がちょうどいい具合に私の視線を気づかせないようにしてくれる。いたずらっ子のように私は笑みを浮かべてギンコさんに近づいた。そしてギンコさんの隣にだらしなく座って寄りかかり、彼の耳元で囁いた。

私のやっていることは意地汚くて、正真正銘悪女。



「そんなに長い月日が必要なら寂しい。私も連れてって」



返答に詰まっているギンコさんはもう一度、私の顔を見た。緑色の瞳に私が映っているのがわかった。覗き込んでいると呼吸することも、近距離だっていうことも忘却の彼方へ。断ち切るようにギンコさんはわざとらしく咳払いをした。ああ、せっかくここまで来たのに。ダメだったのか…。善戦だったのに。



「お前さんを連れて行ったところで俺はなんともしてやれねぇよ。まあ実際、蟲を見ることはできるがな」

「そっか」

「お前さんの気持ちはよくわかる。誰かに置いていかれたくない、という寂しい心から生み出た言葉だろ?だがな、そういうのはそんじょそこらで遊んでいる町娘と同じくらいだ。俺は遊びに出ているわけじゃねぇんだ、わかってくれ」



そっと私の手の上に大きな手をかぶせて何度も撫でる。乾いて暖かい、皮膚が何度も私の手を愛おしそうに撫でるけれど、口に出さないところがなんとも不器用。私の気持ちを分かっているのか、疑念を抱く。
撫でられていない手、煙管を持った手から溢れるように煙管が逃げていき、私はその手でギンコさんの頬に添える。ほんのりと熱を持ったその頬が今、彼がそばにいると確証させてくれる。私はゆるゆると、首を横に振った。



「違うわ。君は私の気持ちを全然わかってない」

「ん?そうなのか。お前さんの口ぶりからしてそう思ったんだが…」

「私はそこらの娘と違うのよ」

「…まあ、そうだな」



そっと私の胸元を見る。
肉付きはいいほうだけど、そんなに見られると恥ずかしい。ドキドキと私の心臓がうるさい。
言うことは男だけど考えは蟲師だ。ここで私の考えがうやむやになって消え去ってしまえば、一生後悔する。

大好きで、愛しくて仕方がない、この人が帰ってくるのは遠い日になる。私が生きることが可能な日にちはほんのわずかだから、連れてって欲しい。ギンコさんは私の寿命がもう短いということは知らないが。そっと頬から手を離して私はうつむくと同時に見える自分の洋服を握り締めた。


「だから、見た目の話じゃないのよ。ギンコさんってほんとそこら辺、鈍いわね。このままだと一生私の気持ちを気づくことはないわ」


笑って私がそう言ったら、ギンコさんは慌てて私の手から手を離して後ずさりする。照れているんだ。稀に見ないモノを見れて私は幸せ。死ぬ前に、置いていかれる前に見れるだけで。幸せに浸っている私と違い、口を覆うように手を当てて私を何度も見る。


「は、っ待て待て、鈍いってどう言う意味だ」

「ギンコさん。私は君のことが好きなのよ。そう言う意味」

「俺も好きだぜ、アンタのこと。嫌っていたらいちいちお前の家に顔だしにこねぇだろ?」

「嫌ってたらむしろ私のところには寄り付かないでしょうね。でも、ギンコさん。君のその好きは恋慕、って云うもので?」

「は?」



頭をかきむしって体制を整えているギンコさんは私の爆弾発言によって、ひときわ大きく反応した。サラっといった私のほうが何百倍も慌てるのに、この人を見ていると飽きない。
煙管を拾ってまた唇にそっと咥えてはあっと煙を吐き出すと、ギンコさんも蟲煙草を吸い始めた。



「悪いが、俺はこの年になるまで恋愛なんてしたことねぇな」



ポツリとこぼした言葉に私は苦笑を浮かべた。
引き裂かれる運命ならばもう、笑い話に変えてしまおう。



「私はギンコさんより年下だけど、恋をしているわ。恋をしたことがない君に」

「…」

「もしも、君が迷ったら…私はなにがなんでも助ける」

「ならなおさらダメだな。連れてけねぇよ」

「どうして」

「俺はお前が嫌いだから置いていくんじゃねぇんだ。」

「…そう」

「人の人生を左右することに直面して俺が迷ったら、お前が助けに来てくるのは嬉しい。だが、お前が望んでいる心を俺はもっちゃいねぇ。まあ、感情どうあれ、俺がお前を連れて行く気はない」



危険を伴う仕事に、重荷を背負ってられない。ということがわかった。弱い体で、死に急ぐような煙管を吸っている毎日。何も言わなくなったギンコさんはどんな表情をしているか私は見ることができない。煙管置きを探すために視線を泳がせていると、目の前が陰って「それに」と、言いかけるギンコさんがいる。
そっと私の唇にギンコさんは己の唇を押し付けた。

浪漫風味にしたかった最初の口付けは、あまりにも簡素すぎた。



「…ほお、動じねぇとはな。なんなら俺と死んでくれるのか?」

「ええ」

「今のは冗談だっ、バカかっ!そんなこと本気で言ってるのか」

「君と一緒に死ねるなら本望よ」



十分すぎる恋心と、不十分な私の寿命は答えてくれない。
知ってくれない恋心は実らず、うやむやに消えてしまう。ギンコさんは私が片手に持っていた煙管をそっと奪って、寝床へ向かう。「これは俺の口づけの報酬な」と無表情になってそう言う。何事もなかったかのように寝床へ足を運ぶ背中を見ていると、涙が止まらない。煙が目にしみて涙が出るんじゃない。赤い糸が繋がるまで、私は生きて待っているのかな。



「私の気持ち、伝わったかしら」



涙声ではっきりしていない滑舌。下唇を噛み締めて、返答を待っている「そりゃ答えるのはさぞ難しい問題だな」とギンコさんはしっかりとした返事をする。蔓延る悲しみは、どこまでも染み渡る。そっけなく言葉を返せる状態じゃない私、続けてギンコさんは言う。



「さあな。ま、恋は盲目というがここまでとは調査したくなるもんだな」

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