log | ナノ
空いている席を探していると、ちょうどその人の前の席が空いていた。人でごった返しているはずのお昼時にひと席空いてる、とてもラッキーだ。
誰かが立ち去ってしまった、というよりは近づきがたい相手だからこそ、其処が空いているんだろう。煙をまとって外を眺めている姿からして、なにか悩んでいるわけでもなく、落ち着かせているようだった。窓の外は土砂降りの雨でもなく、すごく晴れ渡った天気でもない。見慣れた平和な天気。
片手に食事のトレーを持ち私は近づいて、愛想笑いを浮かべるとその人は目を見開いて口を少しだけ開けてなにか言おうとしていた。
そりゃ言いたくはなるさ、結婚を明日に控えている女が幼馴染、男と一緒に食事をしようなんて誰もが驚くはず。
胸を張ってたくさんの知人がいる中で、その人を選んだなんていいネタかもしれないな。
「そこ、座っていい?」
あえて確認する私に怒りたい様子が伺えた。ちっぽけなことで怒るなんて子供のするようなことだよ。そうそう、これを短気は損気っていうやつだね。この言葉を彼に明日、贈ろうではないか。これから退屈を続ける私にはいい思い出になるだろう。
返事を待っているようにあちこちを見渡して見る。視界の端で捉えたのは旦那になる男だった。見なかったフリをしようと決め込んだ私は性格が悪い。葉巻をぎり、っと力強く噛み締めたあとに言葉を出したスモーカー。
「ああ、構わない」
「じゃあ、おしゃべりに付き合って」
「ッチ、仕方がねぇな。お前の誘い断るとロクなことがねぇからな、受け取ったとしても変わらねぇが」
「ひどい言い草」
私がトレーを片手に愉快そうに笑っていると、めんどくさそうに大きなため息をついている。椅子を引いて腰掛けると、後ろから突き刺さる旦那の視線。私はコレが嫌。大将だから従えなんて言わないと言っていたクセに、私がそれを鵜呑みにすればするほど嫉妬という女々しいもので私を縛り付ける。アレはただの見栄だったんだと幻滅してみた。嗚呼嫌だ嫌だ。律儀にスモーカーは葉巻を消して私の食事に肘をついて見つめる。
幼馴染はいつもこんなことをしている、食べ物こぼさないように見張っているのだ。もうそんな時期は訪れることはないのに、私が本心を言うと「見納めってことだァ」と鼻で笑った。
「で、何か言いたいことがあるんだろ。遠まわしに言うのは気に食わねぇからさっさと話せ」
食べている私にそんなことを言う。難儀なことを要求するようになったね。凡庸な私が高オリティを意図も簡単にこなせたらもっと上の階級に居座っているよ。口を尖らせると、首をかしげて私を見つめ直した。
空かさず、私は不満げな顔から真剣な顔つきになって先程までスモーカーが見ていた景色を眺め始めた。小雨が降ってきたみたいだ、砂埃が舞う地面がかすかにだけど濡れてきて、窓を不規則に打ち付ける。
タイミングを掴んで、私はまずいものを食べたように口元を少しだけ歪めて発言した。
「最近思っちゃったりするんだよね」
「あ?」
「どうしても割り切れない自分を殺したいって」
「…」
「絞殺がいいのか、毒殺のほうがいいのか、射殺されたほうが楽?」
殺したいほどに自分が嫌いで、その自分を愛している男すら嫌いになれない自分が嫌い。楽観的に、端的に言うと自分が嫌いで殺したいのだ。鏡に映る自分を殴ったって心地よくならない。
昔はこんなこと思わなかった。スモーカーと一緒に海軍の下っ端だった時も、自分が嫌いだったことに気づかなかった、いいや嫌いじゃなかったのか、その時は。
いつから、嫌いになったんだっけ?
はっと気づいたときにはもう大人になっている自分が窓に映っていた。
子供の頃に意識だけ戻っていた私を引き戻したのはまぎれもなく、彼だ。
私は飲みかけのコーヒーに口をつけてため息を付いてスモーカーを見ると、怖そうな面持ちがより一層怖いものに変貌している。
「随分けったいな話だな、俺にはお前が人生楽しんでるやつだと見えるんだが」
「それは違うよ、スモーカーって老眼?眼科に行ったほうがいいよ」
「この歳で老眼だったら世の中のメガネ屋は大変だろうな」
そうだね、と相槌する前に「絶対話しそらしただろ」と指を指して怒鳴るスモーカー。慌てて私はぬるくなったコーヒーを持ち直した、スモーカーの気迫だけでカップが割れそうだ。
「俺が言いてぇのは、お前がほかのやつより笑顔でいるくせにそんなこと考えてんのは相当イカレてんだなってことだ」
「イカれてる?」
「馬鹿げたことで悩む必要なんてねぇよ、この世界は広いんだからなァ」
「…」
「ちっぽけな悩みでくよくよしてんじゃねぇ」
「小さい、ねぇ?」
「なんだァ、その深い意味ありげな言い方」
海を見てきた男たちはみんなそう言うよね。こっちの荒んだ心も知らずに、俺はそれを味わってここまで大きな男になったと表現しているようだ。スモーカーが追っている麦わらの一味の、トナカイさんが言っていた事と同じ、この偉大なる広がりと素晴らしさを抱く海の上で私たち人間が抱えるものなど藻屑に過ぎない。まるで私のように悩みを抱えた人間がバカで、クズのような扱い。
飲みかけのコーヒーを、上品に飲み干して私は空になったカップに視線を落として笑った。ただのマリッジブルーだといいなぁ。大きな問題を起こす前に、処理しておかなきゃ。カップをソーサーの上に置いて顔を上げた。
「全然、わかってないねぇ。馴染みなのに」
「変なところでソコ強調してんじゃねぇよ、話はそれだけか」
「そんなに私と話すこと嫌い?」
「…立場を弁えろ。お前、もう近いんだろうが」
他人のことなのにまるで自分のことのように、口に出す。闇に馳せた本音はもう言い尽くしたのに、まだここにいたいと頭の中の細胞たちがざわめく。
彼は、私の結婚式に来てくれるだろうか。仕事だといって遠くまで離れて、今日出会うのは最後だったと今の未来が、過去になってから思い出すんだろうか。モヤモヤとするこの感情の名前はなんだろ。
私が口を開こうとした時だった。
「スモーカーさん!海賊ですっ!海賊が出ました!」
「悪い、もう行く」
「頑張ってね、私はもうちょっとここに居るわ」
「結婚、おめでとう」
後ろを向いて、スモーカーは一言だけ残して立ち去った。私はその言葉の意味を知っている、けれど、彼自身の想いは知らない。ガツンと硬いボールを投げられたように痛くて、衝撃的な事実を受け止めたときのような、体の重さに自分自身がわからなくなった。
「…は、はは。ありがとう」
仕事へ戻る時には、この廊下を歩かなきゃならない。
雨が降っていると思えばもう止んでいた。眩しい光に隠れるように歩いていたが、私は何かの衝動に駆られてぴたりと足を止めた。小さい頃とは変わらない空を眺めたハズなのに、私の瞳に映ったものはもう違った。
背が高くなったから?いいや、それが答えならば色なんて関係ない。
「そっか」一人で初めて知った群青の空に感服したように言った。
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