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天候は悪くない。加えて風向きもいい、航海日和とはこのことかもしれない。だが少しだけあの人の機嫌が悪いのはいささか不思議であった。俺には理解しがたいことが多々あるが、長年の付き合いによって殆ど態度や仕草でわかるのだが。


ふわりと潮風になびかれて浮かんだ、赤い髪の毛が俺の視線の端でさりげなく捉えた。

…ああわかった、その黄昏ている先にはせわしなく動いている彼女の姿があった。近頃何かに熱心らしく、会話を交わすことが少なくなっていたのだ。もともと口数の少ない彼女からでる言葉はイエスかノーかどちらか。

タバコを吸いながら考え耽ると、お頭は俺の隣にさりげなく移動した。


「最近ナマエが構ってくれねぇんだけど、俺悪いことしたか」


やっぱりな。予想的中。いつの間にか偉業を成し遂げている四皇のお頭がたったひとりの少女に心を奪われている。お頭の空っぽな頭の中には、ナマエという少女のことでいっぱいなんだ。あの子がお頭を女の魅力で落とした、なんていう事実はない。
仕事をすっぽかしているお頭に俺はぴしゃりと冷たい言葉を吐きかけた。

「お頭」

「ああ、不安で死にそうだ。いいや、まず胃に穴が空きそうだ。そうすればナマエが俺のために看病してくれるだろう、そう思うだろ?ベン」

「お頭、黙ってくれ。俺は今休憩中なんだ」

「もしかしたらこのまま、一緒に洗濯して欲しくないとか、近寄らないでとか俺は拒絶されまくるのか?」



ロリコンか、こいつは。大事な仕事を放っておいてまで彼女について必死に考え込むなんてもう溺愛のレベルを越している。短くなったタバコを甲板に慣れた手つきで捨てて、靴で踏み潰した。黒いシミがまた新しくできるのが見えた、床にある沢山のまだら模様になっているモノはほとんどが俺のものだろう。長い月日が感じられる。
近くで銃の手入れを丁寧にやっていたヤソップがゲンナリとした表情でお頭に目だけを向けた。



「ベン、お頭がとうとうイカレちまったぜ」

「…あ、の」

「うをっナマエ!」

「…?」

「驚かせてすみません」


お頭は突然の訪問者に驚いて目を見開いた。気配を消して歩み寄るのはやっぱり奴隷だった時代がカラダに染み付いて抜けないのだろう。俺は新しいタバコに火をつけて少女を見ると、さきほど俺たちが会話していた内容を耳にしていたのだろうか、表情が引きつっていて体が震えている。


お頭がほざいていた内容があまりにも年端もいかない少女に刺激が強すぎたんだろう。

はあ、っと煙を吐き出したあとに俺は忠告した。



「ナマエも若干引いてるぞ」

「なにっ!?ナマエ、俺はなにか嫌がるようなことしたか?」

「違います、私は」

「やっぱりこの間、スリーサイズ聞いたのがまずかったのか」



ヤソップが愛用の銃を床に落とした。「お、お頭、ナマエに…俺の可愛い娘にそんなことを聞いていたのか!」と憤激する。変わって、ナマエはお頭の質疑に首をかしげていた。俺は気に求めずにタバコを吹かしていると、お頭にドンっとどつかれた。


ああ、少女の前ではタバコを吸うなということか。

俺の目の前でイチャつかれると、俺は無性に苛立ちが隠せなくなる。そんな強がりをしているにもかかわらずお頭は容赦なく邪魔をする。
この苛立ちの意味は、こんな年になってもわからない。皆目見当もつかない。

ナマエは目を輝かせて俺に聞いた。



「すりーさいずってなんですか?」

「…まだ知らなくていい言葉だ」

「てか、なかなかひどいことやってんじゃねえか、お頭。そこら辺のナンパ野郎よりタチが悪い」

「スリーサイズっていうのはな」

「お頭、やめろ」

「ベン母チャン、痛いんだけど」



お頭の頭を叩くとナマエは驚いて肩を鳴らした。単なるじゃれあいも彼女にとってはとても恐ろしいものに見えるらしい。ヤソップは落としてしまった愛用の拳銃を取り出してもう一度拭き直した。光沢が現れて、うっとりとしている狙撃手の姿はまるでおもちゃを与えられた子供のようだ。


身長が低い彼女は背後に何かを隠しているようだ。

あいにく俺たちは身長が高いゆえに、何を持ってきて何をするのかお見通しだ。サプライズを望んでいたのかもしれないので、俺はおとなしく黙っていたが、彼女はタイミングがつかめないのか、口を開いては閉じ、開いて閉じの繰り返しだ。

言い合いをしているのがめんどくさくなったとき、俺はナマエを覆うように尋ねた。



「ナマエ、それはどうしたんだ?」

「え。あ、の…」

「ん?」



背中を指差すと、ギクリと体を固まらせた。お頭も気になったのか、船の淵に預けていた体をゆっくりと起こして彼女の背中を見ようとしたら、一歩だけ後ろに下がって目の前に差し出した。ピンと張られた皿の上のラップが反射して一瞬は見えなかったが、よく目を凝らしてみるとそこにはほんのりと焦げ目のついた焼き菓子だ。

顔を赤らめている彼女の耳を見ると、顔よりも赤い。恥ずかしがることはないのに、何を思っているんだ、この小さな少女は。お頭は屈んで少女と目を合わせようとするが、俯いて見えないらしい。



「…つ、作ってきました。料理長から作り方を聞きました」



前から何かコックとこそこそ隠れるようにやっていたことはこれか。

俺は納得が言って安堵のため息を吐いた。一生懸命で負けず嫌いで正義感の強いこの子はいつか、俺らの敵になるかもしれない、いいや、一度なったからもうないかもしれない。だが、そんな子だからこそ、応援してやりたくもなるし、支えたくなる。タバコを加えながら俺は右手で彼女の頭を撫でた。



「ようやっと出来たのか」

「はい」

「え、何そのふたりだけの雰囲気」

「お頭のために頑張って作ったんだとよ、おら」



ラップをはがしてお頭に焼き菓子を渡せば子供のように頬袋をふくらませてグレたような目つきに変わった。女に執着しなかったこの人が、些細なことで怒るなど俺には腹を抱えて笑うものに等しかった。



「もっと優しく扱え、ベン。心麗しき無垢なナマエが作って来たものだぞ」

「お頭のために作ってくるなんて、お前は本当にいい子だな」

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