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現代の科学でも不可能ことは数えられないくらい沢山ある。どんなに神に頼っても叶わないものはかなわない。諦めずに必死に、すがりつくほどの勢いで願いに迫ったとして、願望を掴み取ることができるのは確率が低すぎる。ツイてない自分には、ただ無駄な時間を過ごすだけだ。だったら、その時間は別のことに使えばいい、誰かに頼るんじゃなくて自分で開発すればいいじゃないか。科学では駄目ならもっと別な方法。そうしたら一番最初に手に入るし、独占できる。


だから今日もこうしてカビ臭くて、湿っぽくて汚い、女の子は嫌がるような薄暗い空間で開発するの。理屈っぽく私が優しい彼に言葉を返す。普通なら彼はここで怒るはずだ。大丈夫、希望を失わなくても俺がいるじゃないか、どうしてわかってくれないんだ!

だが、私と彼のあいだにはそんなドラマティックで乙女チックな展開はなされない。


「だよな、俺もそう思うよ」


吹き出すように笑って私の頭を撫でた。優しく、髪の毛は乱れないように。幼女じゃあるまいしそんなことで私は喜ばない。思いっきり顔を歪めてやると、彼はもっと喜んだ。あ、忘れてた、彼の根っこはマゾだった。ニヤニヤして、さぞかし嬉しそうだ。片手に持っていた分厚い本を机の上に乱雑に投げ飛ばして彼に顔を向けた。


「それ、ほかの人が見たら嫌われるよ」

「なるべく普通にしてるよ、他の奴には。まだ俺は嫌われたくないんだ」

「ふぅん」


興味なさげに私が相槌をとると、彼はじっと瞳を覗き込む。探るようじゃなくて、優しく溶け込むように瞳を見るので私はその目から離せない、堕ちて行きそうな誘惑に頭が追いついていかない。彼と二人でこの空間にいるのは初めてじゃない、というよりこの空間へ頻繁に来るのは彼だけだから、心を許してしまいそうだ。そっと彼は私の頬を持ち上げて、吐息がかかりそうな距離まで迫ってくる。だめだ、という意識と反して別な気持ちが顔を出す。


「遊びは、そこまで」

「なあ、もう一度。もう一度だけ俺を見てくれないか?」

「見てるじゃないか」

「違う、そんな瞳で俺を見ない。それは違う、違うんだ」

「どこも変わってないわ」

「気づいてないだけだ、お前は全部変わってしまった」


そんな私にさせたのはあなたじゃないか。ぐっとこらえた言葉は、そのままの意味をなす。数年前までは一緒に暮らして、同じ職場にいて、苦しいことも悲しいことも楽しいことも分かち合ってきた私たち。けど、突然そんな順風満帆な人生はひっくり返し。信じきっていた彼に本当のことを告げると彼は逃げ出した。結婚というゴールテープも切らずに、私たちは顔を合わせなくなる。絶対的な信頼を寄せていた私には耐え難い苦痛だった。全ての情報から、すべての世界から隔離されたくて私はネズミが生きるような場所で暮らし始めた。
ライフチェンジを決めた私を、もう一度シャバに戻そうと手を差し伸べる彼は自分にとってただの都合のいい男に見える。
彼は黙って近づいてきて、私が嫌がることを楽しんでいる。トンと背中に当たったのはカレンダーもかけていない壁だった。しめた、と思ったのか彼は笑って私の足の間に足をはさんで顔を近づける。


「離れて」

「嫌だ」

「柚樹」


語気を強めにすると、彼は困ったような笑顔を浮かべてひとつため息をこぼす。数秒だけの休息、彼の気ままなペースに乗せられそうになるのを防ぐため、逃げ出そうとするが抜け出せる可能性はゼロに近い。

冷たい眼差しで、口の端だけ釣り上げるなんとも滑稽な笑顔で私のほほにキスを落としたり、首筋を舐めたりする。女性としての本能は現在持ち合わせていない。だから彼のこういった戯れには長い時間付き合うことはできない。

腹立たしくなってきて「用がないなら帰ってよ」といかにも憎らしそうに発言する。

ケロっと彼はいつもの笑顔に戻って研究資料が乱雑に乗っかった机を、力いっぱい払って何もなくなった場所に足を組んで腰掛けた。


「なあ、夢魔って知ってるか?」

「知ってるけど、何の関係があるの?」


それはちゃんとした女性には可能で、私のように不完全な苗床を持つ女性には不可能な話。


「この世の中には狼男だって、吸血鬼だっているんだぜ?ならきっと夢魔だっているはずだ」

「柚樹は随分とロマンチストに変わったんだね」

「ああ、本気でお前を口説きに来たからな」

「でも私の体質は変わらないんだよ」

「それでも俺はお前を手放したくない」


私を苦しめる彼をいっそこの手で消し去ってしまおうか。

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