長編 | ナノ


金魚の泳ぐ駅

がやがやと人が雑沓する中、私はその中にいた。忙しそうにすたすた歩いて過ぎ去るサラリーマンに、片手にはケータイを触って下を向いている地味な人、楽しそうに友達と歩く学生に、恋人たちが腕を組んで行進している。何処にもエサは落ちていないのに金魚たちはせわしなく泳いでいる。


恐ろしいあの舞台の上から飛び降りて、追手から逃げてきてここにたどり着いた。だが、金魚たちが泳いでいるだけで私はどこにも行けやしない。あのステージと言う織りの中で作られた言葉にシーンに、感情に愛されていればよかったのかと思ってしまった。暑いスポットライトを浴びて、きらきら輝くラメ入りの色の濃いファンデーションやアイシャドウなどでたくさん塗った食った自分の顔。叩きおぼえたセリフ、ばからしい。ただ一時の夢のためにどうして私は自分の言葉さえも押し殺さなきゃいけないの。


手首をつかんでこちらを振り向かせたのはスーツを着た男だった。この人は母さんの新しい男だ。私を捕まえに来たんだろう。


「おい、何逃げてんだクソガキ。金のなる木は逃げられないって知ってたか」


汚い笑みを浮かべて私を引きずるように金魚の泳ぐ駅から連れ出す。男の言っていることはよくわからない、金のなる木ってどういうこと?ピノキオの冒険でもそんなのなかった。狐と猫に騙されたピノッキオは土のなかに金貨を埋めて翌日金のなる木が生えるのを待ったが、夜中に盗まれたのだ。金のなる木なんてない。私が着ていたあかいおしゃれなワンピースは赤い出目金を思い出させた。



「あら、もう捕まえたの?」

「ああ。それが?」

「もうこの子は舞台降板よ、別の舞台の練習するわよ」


車の中に連れ込まれた。黒くてぴかぴかの車。母さんが運転席にいて、手帳とにらめっこしていた。片手に携帯電話を持っていた。さっきまでやっていた舞台はもう私は降板される。いいや、もう何にもいらない。何もやらない。何もかもばからしくなってきた。


「母さん」


久しぶりに出した声はかすれていた。自分の言葉なんてもう忘却の彼方に葬られたかと思っていたのに、まだ私の言葉は生きている。


「なに、今度の役はエリコスの」

「母さん、もう辞めたい」

「…そ、ならも貴方には何も期待しないわ」


母さんに久しぶりに本心を言ったのに、あっさりと棄てられた。確実に今、母さんは私を捨てた。普通の子に戻る代償として母親を失った胸の痛みは鈍く広がる。自分の頬に熱い涙が流れた。自分の感情で流す涙、生まれてはじめてかもしれない。喉の奥が燃えるように熱くて、詰まりそうになって、胸の奥までも潰れそうに痛い。じんわりと眼元が熱い。本当はひねり出したかった言葉があるんだ。「私を捨てないで」って。けど、でない。涙と言うものは憎たらしい。

演劇を辞めて普通に学校に通い始めても友達なんていなかった。今まで付き合っていた友達はさっさといなくなった。天才少女というブランド名がない子供には興味がないらしい。友達なんてくだらない幼稚なままごとに思えてきた。すべて失って手に入れたふつうは居心地イイけど、つまんない。家に帰ってもお母さんはいないしお父さんもいない。食卓用の椅子はたった二つ。私と誰か。誰か、埋まってくれないかな。



少しだけ遠くの高校に通いたいと我儘を出したのはわたしだった。千葉県にある総北高校。いとこがパン屋をやっていて、そこで下宿することになった。母さんは昔と変わらず、男をとっかえひっかえ。父さんはまだ帰ってこない。どうせまたツマラナイ学校生活が始まるんだと思いながら私は制服を着た。いとこがノックした、私は顔を出して「今行く」と言った。

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