長編 | ナノ


狡猾な女に惚れた男


食塩を持って来いと怒鳴られて真波はしぶしぶ食堂へ向かう。真波は先ほどまで不満げだったのにもかかわらず、もうケロッとしていた。

まあ、真波が途中でしくじらない様にみはっとけとよくわからない命令で隣にいるからだろう。喋る相手がいるわけだし。食堂へ行く間、真波はいろんなものにちょっかいを出していく。縁側下の猫に女中の三つ編み、帳簿を付けていた泉田にも声をかけていく。食堂にやっとたどり着いた時、食塩を取ってもらう最中に真波は「今日はいい天気ですね」のようなノリで俺に言った。


「追いかけっこですね、荒北さん」

「ん?なんだよ不思議チャン」


唐突すぎて話がよく見えない。さすが不思議チャン、いいや食えない奴。こいつはいつも誰も見ていない別のところに視点を置いて、じっくり、わなを仕掛けてまんまと引っかかる人間を楽しそうに見ているヤツだ。最低とは思わない、だが食えない。俺は真波を見た、真波はへらへら笑っていて手には食塩がある。あの女の部屋へ戻ろうと足を動かした。


「荒北さんは、あの人が好きなんですよね?」

あの人っていうのは確実、ミョウジナマエの事だろう。真波は数回しかあってないから、あいつの本性を知らない。あの女は中身はただの愛欠乏者。誰かに愛されたくてたまらない、赤子。人を殺す技術はちゃんと持っている、そして人に愛されるような才能は持っているけど、アイツはまだ赤子だ。俺は真波の頭を軽く叩いた。


「なっンなこと喋ってる暇があるなら」

「今は休憩中ですから、で、どうなんですか?好きでもない女性に口づけできるほど器用じゃありませんよね」


こいつ、どこでそんなおれの痴態を見たんだよ。末恐ろしい。真波の首根っこ捕まえて放り投げようと思ったとき、利き手の右手だったことに気づいてやめた。


「年下相手だからって容赦しねぇぞゴラ」


そのまま手を滑らせて背負い投げをすると真波は華麗に受け身を取った。この受け身のしなやかさは東堂譲りだ。真波はこちらを見て俺のいじわるを批判する。


「わっひっどいなぁ!でも荒北さんに限ってあり得ませんけど、あの人に手を出したら大変なことになりますから」

「そんなことしねぇヨ」


きっぱりと言ったのにも関わらず、真波は悪戯っぽい笑みを浮かべてスキップをして近づいてきた。確かに俺はあの女が寝ているとき口づけをした、たかが口づけだ。


「…信用ならないなぁ、女の人っていきなり色気を出すから理性の利く荒北さんでも崩しちゃうんじゃないんですか」

「それはねぇな」

「…その自信は男娼だったからですか」

「口を閉じろ真波」

「あ、そんな男娼だったことを見下しているわけじゃありませんって。ただ、荒北さんはすごいなぁって褒めようと思ったんですよ」

「後付なんてしなくていい、黙れ」


「あはは、怒っちゃいました?」と笑ってごまかそうとする真波に一度くらい痛い目にあわせてもいいだろう。と本気で考えた時だった、いつもはそんなにうるさくない廊下が誰かの足音で屋敷を響かせる。ドタドタと走っている音を聞くなり緊急だろう、きっと福チャンがどこかの花街と喧嘩してその手下どもが来たから呼びに来たんだろう。


「荒北さんっ大変です」

「ンだよ黒田、少しは落ち着け」

「あ、荒北さんっまた、金城の野郎どもが」

「…怪我をさせたのはこっちだ、何されても文句言うんじゃねぇ」


黒田は黙って下を向いた。俺は黒田の横を通って店の口まで歩いた。食塩はきっと真波があの女のところに届けてくれるだろう。
近づくにつれて怒鳴り声と、物がひっくり返る音や、割れる音が聞こえる。これだから一般様には、やくざとかちんぴらとか言われちまうんだ。少しは穏便に事を済ませろ。俺が着いた時には新開と田所という男が取っ組み合っていた。フクチャンは巻島と何か言い争っている。巻島を言いくるめるのがうまいのは東堂だ、近くにいた泉田に東堂を呼べと命令した後に俺は巻島とフクチャンの間に立った。


「フクチャン、ちょっと落ち着け」

「だが、荒北っ俺は謝りに行くべきだ」

「だからもう来なくていいって伝えに来たっショ、邪魔なんだよ、てめえらが」

「なっ」


柄にもなく福ちゃんは血気盛んだった。
そりゃそうだ、つい最近まで仲良かった二人がこんなに仲悪くした原因はフクチャンだからだ。時間を見つけては刀を振って、互いに技量を極めていた。土手でいつものように遊んでいたら、福ちゃんがぬかるんだ泥で足を滑らせて転げ落ちる前に金城の袖を引っ張ってしまったからだ。確かに謝るべき人間は福ちゃんだ、けど先方はもうかかわらないでほしいの一点張り。どのくらい具合が悪いのか全く分からない。


「まあまあ、巻島。俺が聞きたいのはなんでそんな俺たちに冷てぇわけ?」

「別に金城は福富のことで悩んでないっショ、だからもうウチには関わらないでほしいんだよ。謝りにも来なくていい。田所っち、もう帰るっショ」

「待ってくれ巻ちゃん!」


やっと東堂が来た。と思ったらなぜか背中にナマエがいた。なんで連れてきたんだこのあほ。


「あの事件で、俺たちの関係は崩れてしまうくらい脆かったのかっ!」


東堂は珍しく巻島につかみかかって言った。いつもなら美形だのなんだのうんぬん言って、美意識しか感じてなかったのに。ふと、気づいた。東堂が背負っているナマエが東堂に何かを吹き込んでいた。巻島は東堂に押されて何も言えなくなってしまった。