獲物の罠ぼんやりとしている思考の中で、私はお風呂に入っているんだと気づいた。
とても心地いお湯に頬を緩めていると、がらり、扉が唐突にあけられた。驚いて体を起こすと、くせ毛の男が驚いた顔で私を見る。女の裸くらい、彼なんて見慣れているはずなのに、そんな風にじろじろ見るのか。
「起きたか、ナマエサン」
近くにあった浴衣と帯を投げたくせ毛の男は背を向ける。
私はありがたくそれを受け取るが、その受け取った浴衣は自分のものじゃないし、何より遊女が着用するような派手な色だった。自分の顔に負ける。誰の趣味かはわからないけれど、全裸でいるよりはこれを着ていた方がましだ。濡れた体のまま、派手な浴衣を羽織って湯船から慎重に出ていく。やっぱり寝ていたから、血が頭に上ってくらくらする。湯あたりしてしまった。私がもたもたしていることに気づいたくせ毛の男は着流しの裾をまくって近づいて手を取った。
「すまない」
「イイ体してるな、顔も上玉だし遊女だったら俺は毎日通い詰めてやるぞ」
くせ毛の男が真面目な顔をして言う、ひやりと自分の背中に悪寒が走る。
え、これって用心棒とかそんなのは嘘っぱちで、売られるために私は引き抜かれたのか。
だが私は、顔や体にだって傷はありし、刺青だってある。でも、今のご時世ではそんな女でも好む人がいてもおかしくない。
「…う、られるのか?」
心配そうにくせ毛の男を見ると笑いをこらえながら「ちょ、今のは冗談だからそんな上目づかいしない。俺だって男だぜ」とい言う。
冗談にしては悪戯が過ぎる。顔を赤らめながら風呂場を出て、体を軽く手拭いで拭いてから浴衣を着る。少し袖が足りなかった。着替えている間も、くせ毛の男は私の後ろで逃げないように見張っている。居心地が悪い。
じわりじわりと精神的に追い詰めて私をここに留まらせるつもりなのか、それともこの男の性癖か。
「着替えたな。やっぱりおめさんの身の丈ならこれは小さかったな。明日は違うのを持って来よう。じゃあ次はこっち」
「帰りたい」
くせ毛の男に向けて発言したのがまずかった。私が考えている以上に男っていうものは凶暴だったみたいだ、くせ毛の男はにこにこ笑いながら近づいて力強く私の足を踏んでから逆の足で私の腹を蹴り飛ばした。しまった、油断した。
この男は、忠犬だ。噛みつけば噛みつくほど倍の力で返ってくる。湯あたりの後遺症で眩暈と息切れ、まともな判断ができないまま私はふらふらと立ち上がろうとするが蹴られた腹が痛い。
しっかりとまとめられていない髪の毛をぐしゃりとつかまれてくせ毛の男は視線を合わせた。
「そりゃ困るな、ナマエサン。準備が遅くなるだけであいつら怒っちまうんだ」
その時だった。ドシンと壁が叩かれるとが聞こえた。
「テメェが甘やかしてるからだろーがっ。ボケナス。ブス、さっさと動け」
「靖友、女の子にそういうことを言っちゃダメだ」
私から手を離して、くせ毛の男は壁を殴った男のほうに振り向く。呼吸を整えて、頭を冷静にするだけ。けだるい体には、動く準備をしろと細胞すべてに伝える。まだ、動くときじゃない、一瞬の隙をねらえ、呼吸を忘れるな。ぐったりとしている私を横目に二人はぎゃあぎゃあ言い合っている。
「ッハ、女の子ネェ?テメェが言えたもんじゃねぇだろ。つーか、こいつ顔に傷があるのに」
「おい、言い過ぎだ」
「上に立つ人間でさえも目の敵にするくせして」
「…くたばれ」
「それしか言う言葉がないのかよ、用心棒さん」
今だ。私は思いっきり目の前の男の腹にぶつかってよろけた瞬間を狙い、顔面を蹴り飛ばした。こちらに向かってくる靖友と呼ばれた男には脛に向かって拳骨をお見舞いし、悶えている間に廊下へ走った。遠くから「逃げられた!誰か捕まえろっ」と焦りを丸出しにした声が聞こえた。
助走には十分な広さがある場所を見つけて、屋根に上って逃げようと考えたとき、足に何かが引っ掛かった。引っかかった何かはわからないけれど、すぐに引っ張られて捕まってしまった。やっぱり面構えのいい男への顔の蹴り飛ばしは申し訳ないな。
「捕まえましたよーあ、俺、真波山岳っていいますーよろしくねーえっと」
青色の髪の毛、まだ幼そうな顔。ぴょんとだらしなく跳ねている髪の毛。足に何かをひっかけたのはこの男で間違いない。面持と違ってずいぶんと恐ろしいことをする人間だ。
「自己紹介はいいんだよ不思議チャン、そいつ渡してくんねー?」
「はーい。じゃあ、またね!」
首根っこをつかまれて私は引きずられるように、連れ去られる。というか、さっきの足に引っ付いたものは何だったんだろう。縄にしてはやわらかすぎる。先ほど引っかかった足を見ると、赤くなっていた。
腕を組んで考えていると、くせ毛の男が「痛かったぜ」と苦笑を漏らしながら言った。どこかの部屋に連れていかれてむっとしていると、くせ毛の男はおしゃべりが好きなのかいろいろと話しかけてくる。先ほど、無理に体を動かしたから頭の中に話が入ってこない。
「おーい、聞いてるか?」
「…名前、聞いてない」
「それもそうだったな、俺は新開隼人だ」
「荒北靖友、お前の勤め先にいたぜ」
「…喧嘩っ早いからアンタには手を焼いていた」
ケタケタ笑いながら私が答えると、靖友様は小さく舌打ちをした。ああ言った悪態はしみついたら取れないって本当だ。
黒い髪の毛をガシガシとかきむしりながら、私のほうを見て「笑ってんじゃねぇヨ!」と怒鳴り始める。耳に蓋をしていると、新開様は私の右手をとった。
「…おめさんはここで用心棒をする気持ちはないのか」
間髪入れずに答えると、はあっと重たい溜息をこぼす。靖友様も同様にため息をこぼして、私の後ろに回る。逃げないようにするためか。どうでもいいと思いながら新開様に視線を合わせる。
「なぜ、あの場所で骨をうずめたいと思ってるんだ。おめさんの話だと、あの場所から離れたくないようだな、もしかして惚れた男でもいるのか。なら、忘れるんだな。あの場所を、ここは新しい場所だ」
「うるさい、お前にわかってたま…んだよ、これ」
「フクちゃんが逃げないようにつけろってヨ」
「ふく、ちゃん?」
「金髪の男、ここの用心棒の頭、福富寿一のことだ」
「ま、悲しい境遇だけどよ、ここで頑張っていこうぜ。ミョウジナマエさん」
後ろに回った靖友様が足に枷を付けていた。私は、弱くなる一方だ。
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