短編 | ナノ

王子様が来る前までは、
あの人の背中はとても遠くてつかめない、肩に触れることだってできない、声をかけても振り返るだけできっと立ち止まってはくれない。俺には高嶺の花だ。あの人は大学に進学して、その一年後俺も進学した、狙ってたわけじゃないけどあの人の大学に近くで、あの人の近くのアパートを選んだ。俺があの人の後輩だからって言う理由で、よく俺を部屋に招いてくれた。下心なんて一切見せなかった。そうしたら離れていきそうで怖かった。その反面あの人に彼氏ができないように、なるべく一緒にいた。いずれ俺を選んでくれるように。我ながら女々しい判断だと思うけど手段は選べないんだ。


「ユキちゃん、レポート終わった?」

「まだっス。あ、もしかして課題練習する気でした?俺は気にしませんから、どうぞ」


俺の返答に苦笑を浮かべて「ごめんね、煩かったら言ってね」と残して奥に置いてあるヴァイオリンに手を伸ばした。艶やかな表面仕上がりのヴァイオリンは俺には全く以て別世界だった。スポーツやってきた俺にはヴァイオリンの演奏なんてわくわくする。彼女がヴァイオリンを弾く姿は本当にお姫様のようだ。色白の首筋にいやらしい想像をしてしまう。


「ユキちゃんはサークル活動も忙しいんじゃない?バイトもしてるし」

「忙しいっちゃ忙しいけど、俺、まだ荒北さんに勝ってませんから」


追い出しの時はあれはノーカウント。俺は本気で、万全な体制で取り組んだ荒北さんと勝負して勝つことが目標。そんなことを覚えてくれていた彼女にちょっとだけ期待を寄せる。俺はレポートを書くために途中だった文面に目をやる。その時彼女から小さな「痛っ」という声が聞こえた。俺は反射的に立ち上がって彼女の近くへ寄った。


「どうしたんですか!?」

「あ、指切っちゃって。はあ…ばんそうこう張るのは嫌だな」


そう言っている彼女が愛らしくて俺は彼女の細長くて、皮の厚い指を取って傷口であろうと思われるところに唇を落とした。口の中に尽わりと広がる鉄の味。耳に届くのは彼女の戸惑った声。そして拒絶する片手が俺の肩に添えられるが、その手をからめとった。この人の王子様が来る前までは、俺がこの人の王子様でありたい。そんな願いは誰もかなえてくれなくても、俺は満足する。

ふっと唇を離すと顔を赤らめている彼女。「すみません、つい」なんて言葉が出そうだったけど俺は「これで絆創膏張らなくて済みますね」と残した。