言葉に孕んでごらんよ、その意味を、その痛みを、僕は、君は、覚えているだろう?
忘れない。
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指先から凍っていく痛みがまだ自分は生きているのだと雄弁に語っているようだ。生命の維持、生命の停止、どちらにも等しく、確かな意味など、ないのだけれど。
そう、意味はない、生死にも制止にも精子にも、意味はない。
汗ばんだ身体が鬱陶しくて寝返りを打つ、息苦しい、酸素が熱を持って喉を焦がす、それでも起き上がる意思にも、立ち上がる気力にすらもなりはしない、息苦しい、それでも、生きている。生きていく。
喉が渇く。
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寂しそうな鳴き声がした気がしたから、だから、
「―――アリババくん?」
「ジャーファルさん」
前を歩いていた背中が揺れた。消えた足音を疑問に思ったのか振り向いて俺の名前を呼んだ、けれど俺の足はなにか重いものが絡み付いたように、感覚が遠く、鈍くなって、前へ進もうとする気配と気力を微塵も思わせなかった。
「どうしました?」
「なんか、」
その先は続かない。
鳴いている。
誰かが、苦しそうに、鳴いている。耳鳴りのようにざわめくこの声を、この音をなんて説明すればいいのだろう。ただむしょうに、かなしい、かなしい、鳴き声だ。
「ジャーファルさん、どうしよう」
「な、なんですか何処か具合でも悪いんです、か?」
「違います、どうしよう」
どうしよう、多分俺、貴方に呆れられるか、もしくは怒られるかもしれない。
仕方ないんだけど、まあ、怒られたくないなあ、どうしよう。
「食べることよりも、先に、やらなきゃいけないことが、あって」
ああどうしよう、ちょっと、戻りたいんだけど小言を頂きそうなんだけど、どうしよう。わかってますちゃんとわかってますちゃんと後で食べます、食べますよちゃんと二人で!
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たくさんの羽音が聞こえる、ざわざわと耳を撫でるその音はとても優しい、なのに網膜に焼き付いた光景が痛みを帯びて、苦しいんだ。けれど涙を流したら滲んでしまうから、落ちてしまうから、留めておくの、ちゃんと、失わないように、鮮明に刻み込んで、ずっと離さないよ、離したくないよ。
忘れることは君を殺すことだ。
君がたくさんのものを僕に置いていった、教えていった、送ってくれた。だからこの両手でこの身体でこの心に残っているそれらを忘れたくない、だから足掻く。
あがいて、もがく。
意味が無いことと、理解している。
けれどもう一度、誰かが僕の凍った指先を掬って、握ってくれる日まで、僕は。
待って、いる。
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(アラジン、)
こぷり、浅い眠りの水面で沈んでいた意識を浮上させた、まぶたをおそるおそる持ち上げて霞む視界で世界の現状確認、やはり、夢でしかない、いない、優しい声で、初めて僕の名前を呼んでくれた彼はここにはいない。
喉が渇いたなあ。横向きになって丸まって寝ていた身体の脇に腕を差し込んで上体を起こす、両手が柔らかいベッドに沈んで、また、意識が沈みそうになった。それを堪えて深く息を吐いた、身体を起こしても立ち上がろうとは思えなかったので、とりあえず座り直した。ずっと眠り続けていた思考は靄がかかったようにゆらゆらと覚束ない。
名前を呼んだのは、誰だった?
僕の初めての友達は、君だった。
「(……ああ、そう、いえば)」
僕が初めて選んだ誰かが、(あの子が)、泣きながら話していたのを、覚えている。それは今みたいに息苦しくて、思考が曖昧で意識が削られていた時だったけれど、確かに、覚えている。(忘れられないよ、)
(こいつにとってウーゴくんは、)
(単なる笛じゃない。)
(大切な、友達だったんだ!)
名前を呼んだのは、君だった?
「―――アリババくん、」
僕が選んだ唯一の、人。
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どさりと、
静寂だけで構成されたこの場には相応しく無い音が響いた、心臓が破裂しそうだ、悲鳴を飲み込んで音がした方へ顔を向けた。自分の小さな体躯を抜きにしてもかなり広いベッドの端、その下に、多分、音の原因がある、もしくは、いる。生まれたての赤ん坊のように手足を駆使してゆっくりとベッドの上を這った。そうっ、と静かに縁から下を除き込んで目に痛いほど輝いて、溢れたのは、金色の、光。
「……きれいだ、」
アリババくん。名前を呟いた彼が何故か、此処に居た、何故か床に転がって眠っていた。僕達三人、僕とアリババくん、そしてモルさんには個々に宛がわれた部屋が合って、最近はお互い部屋に籠りきりだったから、中々会えなかった。だから、相手が眠っているとは言え、久しい対面に少しだけ強張っていた表情が緩んだ。
「ね、アリババくん」
冷えきった指先を伸ばして金色の髪を撫でようとした、感覚が薄い指先でも、君に触れたら、少しでも熱が灯るだろうか。いつかの日みたいに、君が僕の心に火を付けたあの時のような、熱が。
「……君が僕を呼んだの?」
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ぱちりと勢い良く開いた目と視線がぶつかって思わず伸ばしていた手を止めた、そして一拍の間の後、「うぉわッ!!」「わあっ!?」二人して叫んだ。
ぱちぱちと確認するように瞬きを繰り返してやがて意識の覚醒をようやく伴ったのか眉がぎゅう、と、しかめられて僕の肩をアリババくんが掴んだ。
「アラジンお前、いつから、食ってない」
「アリババくんと同じくらい」
「身長伸びねーぞガリガリ」
「伸びるよ、アリババくんなんてヒョイって越しちゃうよ」
「う、やめろよ可愛くねー、っていうかそういうことじゃなくて」
「マスルールおにいさんもシンドバットおじさんだって越しちゃうよ」
「じゃあ、ウーゴくんは」
越えられる、わけが、
「……越え、たく、ないなあ」
「なんで」
「うーん、なんとなく」
「アラジン、」
揺るがない声色で僕の名前を噛み締めるように呼ぶから、視線をつい、外してしまった。肩に置かれた手が、それを責めるように重みをましたような気がした。
「飯持ってきたんだ、いきなり肉とかはきついと思ったからとりあえずスープだけ。冷めきってると思うけど、ぜってーうまい」
「お腹空いていないよ、アリババくんもお食べよ」
「俺も食う、だからお前も」
「お腹いっぱいなんだ」
「むしろ喉につっかえているものが、胸にたまって、飲み込めないんだろ」
「わかっているくせに、アリババくんってば」
「わかっているから、ここにきたんだよ。冷めてんのが嫌ならもう一回鍋に戻して温め直してやるよ」
「いまは、いらない」
「そんなん知らねー」
ぐるぐると不毛な会話が混ぜられる、ぐるぐる回すのは鍋の中の具材だけでいいんじゃないかなあ、そっちのがとても有意義だよ。君は許してくれなそうだけど。
「喉渇いてんだろ」
「だいじょうぶ」
「嘘つけ、声掠れてんぞ、飲めよおとなしくさあ」
床に座り込んで見上げてくるアリババくんが僕の顔を除き込もうとするのを首を捻って阻止した。首を反らした際にアリババくんの背中の後ろに布巾がかけられた食器が見えた、彼の好意を受け取れない自分が、酷く情けない。
「なきごえがさあ、」
「……?」
「泣き声がしたんだよ、ぴいぴいって、なんだか寂しそうな感じの、んでもってすげえ苦しそうな」
「鳴き声、ルフ鳥のかな」
「どうだろ、まあなんかそれ聞いてたら無性にすっげーかなしくなって、行かなきゃって思ったんだよ、呼んでると思ったから、だから怒られたけど戻ってきたんだ」
「アリババくん?」
「だから、戻ってきたんだ、お前の居る場所まで」
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アラジンの小さな肩を引き寄せた、背中に合った食器を掴んで布巾を乱暴に剥がしてスプーンで一口掬う、一滴二滴何滴か垂れつつ溢しつつそのまま冷めきった液体をアラジンの口に押し込んだ。がちりと嫌な音がしたことについてはとりあえず保留で。
「良く聞けアラジン!」
腹の底からめいっぱい出した声が鼓膜を震わせた、びくりと触れたままの肩が揺れて逸らされた視線がさ迷ってさ迷って、ようやく俺を移す。戸惑いと、痛みを訴える、いいよ、解ってる、いいぜ、大丈夫、俺が全部全部、受け止める。俺がお前の痛みを救うよ、今度は俺の番だから。
誰かがいつか、そうしたように。
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「お前が生きていることが何よりの証明だ!記憶の、ウーゴくんの、お前自身のれっきとした意味だ!忘れられない、忘れられるもんか。お前が生きているかぎり、ずっとずっと傍にあり続けるんだ、ずっとお前を見守っている、ウーゴくんはお前の中で息をしている、それがお前が生きている意味だろ!答えはシンプルに、お前は」
口に押し込んだスプーンから彼が手を離して僕の首にぶらさげていた笛ごと心臓がある場所へと手のひらで力強く押した、笛の歪な突起が肌に食い込んで少し痛い、痛い、痛い、どこもかしこも、いたい。
いたい、よ。
「なにひとつも失っちゃいねーんだ!」
ぼたり、
全身の力が緩んで加えていたスプーンが膝に落ちた、心臓辺りからじわじわと熱が灯って、指先がじんじんと熱を訴えて痛み始める、身体中が熱く火照って、思わず息を深く吐き出した、吐き出されたのは吐息だけではなくて、震える嗚咽もだった。
なにひとつも、僕は失っていないと、彼は言う。
僕は得てきたものが少ないと、錯覚していた、だから損失は、身を心を抉った、だから、ぽっかり空いた空洞を同じもので埋めようと躍起になっていた。
けれど失っていない、なら、失っていないなら、もう僕が、泣く必要はないよ。
(アラジン、)
ああ、ウーゴくん、ここにいたの。
またあえたね、ありがとう、さようなら、またね。
だいすき。
「アリババくん、」
「ん?」
「スプーンと歯が当たって血が出たよ、痛かったよ」
「すいませんでした」
「スープ、おいしかったよ、」
ぼたり、落ちた涙はあたたかった。
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「ジャーファルさんがめっちゃ美味そうな飯用意してんだけどやばい」
「なにがだい?」
「俺実は太りやすいの」
「君は思春期の乙女かい」
「いやまじ、これマジ」
神妙な顔で真剣に呟くものだから噴き出してしまった、そしたら拗ねた顔をしたから咄嗟に謝った、次に仕方ないなあって、柔らかく笑った君の顔、その笑顔がさ、知ってるかい?
僕は出会ったころから、ずっと大好きなんだ。
廊下をゆっくりと歩く僕らの足取りは騒がしい食堂へ向かう、地を踏み締める両足は力強く、もう揺らがない。
「モルジアナ食堂居るかな」
「いたらいいねえ、モルさんにいっぱい心配かけちゃった」
「謝らないとな」
「皆にもだね」
「二人で」
「二人でね」
「アラジン、手」
「わあい、おてておてて!」
優しい笑顔と一緒に差し出された大きな手のひらを握り返した、僕の手は子供特有の熱を取り戻して少しぎゅうって握っていたらじわりと汗ばむほど。それでもお互い、離さなかった。それがほんとうに幸せなことだったから。
だから、聞こえないくらい小さな聲で呟いた、たくさんの感謝と愛しさを込めて。あのね、呼んでくれて、戻ってきてくれて、すくってくれて、うれしかったよ、忘れられるもんか。
一生、忘れてやらないよ。
「アリババくん、ありがとう」
「アラジン?」
ああほらやはりね、アリババくん!
名前を呼んだのは、君だった!
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1120/産聲(うぶごえ)。