同じ名前。
同じ匂い。
同じ仕草。
同じ──
「名前、誰の事を想っていた?」
同じ顔。
私の良く知る人と同じ顔で、同じ声で、全く異なる彼が私に問うてきた。
『久秀さんの事ですよ』
久秀さん。
今現在、進行形で私を背中から抱きしめて、私の首元に顔をうずめている人。
私をこの世界に引き摺り込んだ張本人。
「それは嘘だな」
むすっとした、不機嫌な声で久秀さんが私の耳元で囁いた。
甘い甘い吐息を孕んだ、脳を蕩かすような声。
嵌ってしまえば抜け出せない、底なし沼のような彼。
それに片足を突っ込んでしまった私は、きっとどこか壊れてしまうのだろう。
『捉え方によっては、嘘にも真にもなりますね』
「……父親のことか」
『正解』
「…卿はいつになったらアレと私を区別して見てくれるのかね?」
私のお父さんと同じ顔で、同じ仕草で、同じ声で久秀さんがため息をついた。
『区別して見てますよ。
お父さんは私のたった一人のお父さんで、久秀さんは私を無理やりこっちに引き摺り込んだ極悪人。
一緒になんて出来ませんよ』
「卿は奇妙な娘だ。
私の事が嫌いならさっさとここから抜け出せば良いものを、なぜわざわざ籠の中の鳥を演じるのか…」
『私、久秀さんの事、好きですよ?
友情とか家族愛で無く、恋愛的な意味で。
それに、抜け出したら地の底まで追って来るくせに』
一度、城下町というものを見てみたくて、久秀さんに黙って城を抜け出したことがある。
結局、城の門を抜ける前に捕まってしまったのだが。
だから、きっとこの城から、久秀さんの元から抜け出す事なんて出来っこ無い。
もし出来たとしても、いつか絶対に捕まって、連れ戻されてしまうだろう。
「卿といると、長年私を悩まして来た喉が渇くような欲求が湧いてこない……」
『なら、このまま籠に閉じ込めておけば良いんです。
最低限の衣食住と、後は愛情があれば、私はずっと久秀さんの隣にいますよ』
甘い甘い。
自分でもゾッとするほど甘い声で、私は囁く。
なりたいモノがあったはずだ。
大切なモノがあったはずだ。
少し前までは帰りたいと思っていたはずなのに、今では元いた世界の記憶が、正確には久秀さんと過ごした時間以外の記憶が曖昧で。
ありふれた日常だったはずの記憶が消えるのが怖くて、久秀さんを見るたびに、久秀さんが嫉妬するのを分かっていて意図的にお父さんの事を思い出す。
けれど、きっと、もうすぐ記憶の中のお父さんも久秀さんに書き換えられてしまうのだろう。
それも良いか、と思ってしまう私は、やっぱり何処か壊れてしまっているのだろうか。
「名前、帰れなくなっても良いのか」
『元々帰すつもりなんて無かったくせに』
水は低きに流れる。
人の心もまた、低きに流れる。
人の理に従って、私も低きに流れていくのだろう。
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