安部晴明


それから何年の歳月が過ぎただろうか。
成長過程のなかで、現代のように花嫁修業という修業はなく、たおやかな習い事をするだけであった。おそらく、女房たちがするものだからとして貴族のお姫はやらないのだろう。修業をしなくても過去の記憶で一応はできるけれども。習い事といえば琴に華、書もかいたりしたものだ。それはそれでいいとして、成長過程のなかで気づいたことがある。


「おーい、雪子ー」
「姫ぇー」


――『視える』のだ。
妖とか幽霊とか人外の化生とか物の怪とか、そういう類が。


「いるかー?」
「いるよなぁー?」


四匹の声が聞こえる。几帳から顔を覗かせてみると、簀子の向こうで四匹の雑鬼が一生懸命にぴょんぴょんと跳ねていた。姿の見えない私を探しているのだろう。その様子に自然と笑みが浮かぶのが分かりながら、周囲に女房がいないことを確認し、そっと廂に出た。姿の見えた私に雑鬼が嬉々の声を上げて勢いをつけて簀子に飛び乗った。
どうやら、私の持つ鬼を見る力、見鬼はそれなりに強いようで普段から意識せずに妖が見えたりする。それゆえに、時折鳥肌が立つほどに戦慄する妖を見かけてしまうのが悩みの種だ。その時は目を合わせず、体を小刻みに震わせ冷や汗を浮かべながらやり過ごすしかない。いつ襲われるか、分からない恐怖を隣り合わせにして。しかし、彼らのような悪さのしない雑鬼であれば歓迎だ。彼らは、暇を持て余した私に会いに来てくれる。いまや友達。


「おれいっちばーん!」
「ああーっ!」


一番に簀子に飛び乗った雑鬼が横をすり抜けて奥へ進んでいく。

灰色の毛に黒や白も混ざり、まだらの毛に覆われた小型犬ほどの大きさの雑鬼、斑(まだら)が駆けると、鋭い爪と牙を持ち片目に傷を負って隻眼となった子虎のような模様をした雑鬼、明(あかり)がずるいと言わんばかりの声をあげた。それをやれやれといった感じで、器用に二足歩行をする赤に近い茶の毛並みをした小熊のような雑鬼、寧全(ねいぜん)がわざとらしく肩をすくめる。羽ばたく羽が四つあり緑の羽根に覆われた鳥のような雑鬼、風幸(ふうこう)が苦笑を漏らして、先に行った二匹を追って羽ばたいた。
彼らの名前は私がつけた。名は一番短い呪だけど姫につけてほしいんだ、と小さな彼らに頼まれてしまっては断ることができない。本当にいいのかと憚られたが、名をもらったほんにんたちが喜んでくれているようなので、それはそれで何となく嬉しいから良しとする。


「ほら、斑、明、喧嘩してはいけません。仲良くなさい」
「だってこいつが姫のあったかいの一人占めするんだ!」


先程まで座っていた褥にぱふっと飛び込んだ斑に手を向けて、明がむくれる。小さな子どものような彼らにくすりと微笑を漏らし、斑を持ち上げてそこに私が座ると膝の上に斑を乗せた。


「あっ、ずるい俺も!」
「明もね。ほら、寧全も風幸も、一緒にいらっしゃい」


明が膝に乗ってころんと丸くなる。子虎の容貌をしているだけあってやはりネコ科なのだろうか。丸くなる姿はまさにそれに似ている。斑と明で膝の上がいっぱいだと見て分かると、四匹のなかで一歩退いているような寧全が正面にぽてっと座った。ばさりと羽を羽ばたかせた風幸がとがった爪で几帳の上を掴む。そのまま羽を休めた。


「次は寧全と風幸を乗せてあげるからね」
「おれらはいいよ。な、風幸。斑と明を優先してやってくれ」
「そいつら、すぐ拗ねるんだもんな」
「いい子。でも、次は寧全と風幸よ」


寧全の頭に手を伸ばして硬い毛を撫でると、寧全は気恥ずかしそうにしながらも大人しく撫でられている。そのまま風幸に腕を伸ばすと、風幸は腕に飛び乗ってぴょんと跳ねるようにしながらやがて肩に移った。膝の上でうつらうつら船を漕ぎ始めた斑と、ごろごろ喉を鳴らす明を見て寧全と風幸とともにくすりと笑みを零す。
本当にいい子たち。悪さもしないでただ一緒にいてくれる。話し相手になってくれる。
――この地位は、いささか暇だ。自分で家事炊事をできるわけでもなく、好き勝手町を歩き回ることもできず、ただ御簾の向こうで静かに一日を過ごすだけ。ひがな一日習い事だけをして過ごしてなにが楽しいというのだろうか。裳着をすませる前まではまだよかったのだと思う。御簾に閉じ込められることもなく自由に邸を散策できるのだ。それだけでだいぶましだというのに。


「はあ……」


思わず小さな溜息が洩れる。
それが聞こえた肩に乗る風幸が首を傾げ、黄色い嘴でちょんと頬をつつく。くすぐったいようなそれに大丈夫、と囁いた。


「姫様、殿がお見えです」
「お父様が?」
「雪子や」


真砂の声がしたと思えばお父様の声がする。膝に乗せていた斑と明がすっかり眠りに落ちてしまっていたようで、彼らを起こさないようにそっと優しく膝から下ろして褥に寝かせた。几帳を抜けてお父様のところへ行くと、正面に座っていた寧全がぽてぽてついてくる。風幸は依然として肩に乗ったままだ。すでに円座に座っているお父様の前に端座する。と、その隣にもだれかいた。裳着も済ませたのに御簾越しでなくともいいのだろうか。私としては御簾は息苦しいだけであり、なければそのほうが断然いいのだがそこは貴族の慣わしというか、掟というか。従わなくてもいいのだろうか。不思議に思いながらもお父様の隣に座る老人をまじまじと見た。顔に刻まれた深い皺が高齢なのだろうと感じさせる。しかし威厳があり、優しい雰囲気も持ち合わせていて言うなれば掴みどころがないというか。その後ろにも、男性がひとりいた。若い。不揃いな長い青い髪、深い蒼の双眸。私が見上げると青年はむっと眉を寄せた。慌てて目を逸らし、老人に戻すと彼は穏やかに微笑んでいる。
老人。青い青年。その青年にどうやらお父様は気づいていないらしい。

――――もしかして。このひとは。


「……安倍…晴明…様……?」
「雪子、晴明殿を知っておられるのか」


瞠目して、思わず呟いてしまった。それが聞こえたお父様はいささか不思議そうな顔をしているが、老人は変わらず朗らかな笑みを携えている。


「いえ、あの、ただ以前、お見かけしたことがあって、それで」
「そうか……?それで、その晴明殿には本日、まじないを施していただくことにした」


危ない。私は晴明様を知らないはずだ。一度も面識がないのに知っていると言ってしまっては訝しがられる。案の定、お父様はわずかに訝しがって眉を寄せたものの、すぐに話をきり返した。お父様は、私に見鬼があることを知っている。藤原一の姫のように強くはないが、それでも見鬼を持ちえる者は妖の餌食になる。私が対抗するすべを持たないため憂えたのだろう。邸に侵入した妖になにかされてからでは遅いのだ。今までも他の陰陽師、賀茂などに呪具を頂いていたが、お父様はそれでは安堵はできないらしい。やはり、名の通った稀代の大陰陽師にまじないを施してもらいたいというのが本音だったのだろう。


「それで、晴明様が…?」
「ああ。晴明殿、我が娘をよろしく頼む」


お父様は隣に座る晴明様を向き、会釈程度に頭を下げる。その様子をじっと見ていた風幸が耳元で不安げな声で囁いた。


「おれたち、晴明に祓われるのか…?」
「邸に結界なんて張られたら姫に会えなくなる…。俺、そんなのやだよ」


隣に座っていた寧全が袂を引いて、私を見上げる。ちらりと見てみると悲しそうな顔をしていた。私だって、そんなのは嫌だ。みんなと会えなくなるなんて。友達なのに、友達ともう、会えなくなるなんて。それを考えると無性に悲しくなる。鼻の奥がつんと痛くなる気がして胸が苦しくなった。唇をきゅっと結びぶ。


「……お父様、晴明様とだけお話したいのですが…よろしいですか?」
「おお、そうかそうか。不安なことでもあれば晴明殿にご相談するがよい」


それを最後にお父様は踵を返した。渡殿を渡り、気配が遠退くまでそのままじっと待つ。お父様は私のことを心配してくれているから、かの大陰陽師を呼んだのだ。結界でも施してもらうために。でもそれは私が嫌だ。友達の彼らと会えなくなるから。お父様は私が雑鬼たちと楽しく会話しているということは知らない。女房も、真砂も、だれも知らない秘密。
あたりに首を巡らせてだれもいないことを確認し、ようやく開口した。


「あの…晴明様……、結界は、張らないでほしいのです」
「ほう……理由を訊いても、よろしいですかな?」
「…この子たちのために…」


晴明様にはきっと見えている。そうに違いない。肩に乗る風幸と、隣に座る寧全の姿が。
ここには居ないけれど、几帳の向こうで寝ている斑と明の気配すらも感じ取っているのだろう。


「この子たちは、私の友人です。友人に会えなくなるのは、何よりも、寂しい」
「…………」
「姫……なあ、晴明、俺たちからも頼むよ」
「おれたち雪子に絶対悪さしないって約束するから、頼むよ!」
「寧全、風幸……あなたたち…」


寧全がすくっと立ち上がる。ぽてぽてと私と晴明様の間まで歩くと一心に晴明様を見上げ、風幸がばさりと羽ばたいて寧全の隣に降り立った。風幸も寧全と同じように一心に見上げる。と、すぐにぱたぱたと几帳の向こうから駆けてくる小さな足音。起きたばかりなのだろう、眠たそうな表情をしているがどこか慌てた様子だ。斑と明も二匹に倣い、晴明様を見上げる。


「斑、明……」
「結界を張らないでくれよ晴明、姫を守るから!」
「俺たちだって雪子に会えないのは嫌なんだ!」


懇願する四匹の雑鬼を見て、晴明様はそっと微笑んだ。頭の毛に癖がついているのを見付け、しわしわの手を伸ばし撫でつける。優しい手つきに、斑が片目をすがめた。


「こらこら、落ち着けお前たち。何を早とちりしとる。だれもお前たちを祓うだの、結界を張るだの言っとらんじゃろうて」
「え……でも、晴明様……」
「雪子の父ちゃんに言われて結界を張りに来たんじゃないのか?」


明に同意する。私もそう思っていた。結界を張って、妖が邸に近付けなくするのだろうと。

私も早とちりしていたようだ。ふふと微笑む様子を見て途端に顔に熱が集中した。勝手に勘違いして早とちりして、恥ずかしい。斑の頭から手を離した晴明様は、微笑みを携えたまま袂に手を入れて何かを取り出す仕草をする。その間、四匹が喜ぶ様子を見て自然と頬が緩んだ。


「おれたちまだ姫に会えるんだ!」
「なあ雪子、やったな」
「姫、やっぱり俺、膝に乗せてもらいてぇなあ」
「おれも雪子の膝に乗りてぇ」
「ふふ。ええ、もちろんよ」


わいわいと跳ねる四匹はとても嬉しそうだ。もちろん私も嬉しい。だって、これからも友達に会える。

袂を探っていた晴明様は、その手に何かを持って雑鬼と一緒に喜ぶ私にそれを差し出す。見てみると、どうもそれは数珠のようだった。手首につけられるような小さなもの。


「これを肌身離さず、お持ち頂きますよう。この晴明が破邪退魔の念をお込めいたしました。大妖に襲われても、一度きりならばあなた様の身をお守りしますでしょう」


年老いて骨ばった手に乗せられた小さな数珠をそっと手に取る。まじまじと眺めてからすぐにそれを手首につけた。膝頭近くで、四匹がそれはそれは嬉しそうに「やったな」というものだから、私は思わず破顔してう。


「ありがとうございます、晴明様。なんとお礼を申し上げて良いのやら…心より感謝いたします」
「いえ、大したことはしておりません。姫様の嬉しそうなご様子が何よりもの褒美です。……そちらは一時凌ぎのものでしかありません、近いうちに、別の物をお届けしましょう」
「ああ、晴明様…本当に、言葉がでません」
「では、私はこれで失礼いたします。ご報告申し上げねばなりません」


晴明様は深く一礼して立ち上がる。
去り際、おもむろに雑鬼たちを振り向いた。


「お前たち、姫様をお守りするんだぞ。信じているからな」


四匹は「おう!」と一斉に合唱。きれいに揃った声に、晴明様と一緒に微笑を漏らした。

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