幸せな日々

幸せな日々と、言えるだろう。

唐突の事態に驚愕し苦労して、育てば息苦しかったときもあり、しかし自由になったいま愛しいものたちがすぐそばにいる。これ以上の幸せはないだろう。三人の子どもに恵まれ、夫は昔から変わらず優しい。過去に、これほど幸せなことがあっただろうか。――きっとない。すぐそばで息づく幸福の音を聞いたことはこれまでになかった。
これ以上は、望まない。
あるがまま、いまこの瞬間に、幸せを感じていれば。

橙に染まる太陽が簀子に射し込む。
ふたりの子どもが、ばたばたと簀子を駆けた。その背を、雪子は微笑みながら見送り、完全に姿が見えなくなると足を塗籠へと向けた。仕事を持ち帰った夫を思い浮かべると困ったものだと苦笑が浮かび、その唇から小さな息をひとつ吐き出された。しかし双眸は穏やかである。息子たちが父にねだり、夫はきっとやれやれと困った顔をしながら、優しい目で子どもたちを見るのだろう。それが安易に想像できて、雪子はひとりで笑みを漏らした。

妻戸を開くと、それまで暗かった塗籠に光が差し込む。唐櫃の蓋を開け、そのなかに大切にしまってある、螺鈿細工の施された正方形の箱を取り出す。高級な螺鈿箱の細工を指先でなぞると同時に雪子は頬が緩むのがわかった。箱にしまいさらに唐櫃にしまっていた、大切なそれ。巻かれた紐をほどき、蓋を開けた。


《昔のままですね》


耳に直接、声が響いた。雪子は驚く様子もなくそっと振り向く。すると、いままでなにもなかったそこに気配が生じ、すっと男性が顕現した。大陸の官人服に似た衣装を身にまとった男が腰を折り、紫苑の双眸を伏せる。頭を下げると青磁色の髪は目元を隠すが、彼の目はすぐにあがった。雪子を見る穏やかな双眸が懐かしさに細まる。


「お久しぶりです、雪子様。ご健勝そうで何よりです」
「ふふ。太裳様、お久しぶりです。お変わりありませんね」


安倍晴明に下った十二神将がひとり太裳だ。
神の末席に連なるものが数年で変わるはずもなく、太裳は声を出さずに笑うと雪子の持つ螺鈿の箱に目を落とした。細い指のそれに抱えられた箱に入るものは、たしかに昔のまま変わっていない。


「成親殿にはお会いになられましたか?」
「いえ、これから伺おうかと。お先に雪子様のご様子でもと思いまして」


自分の手に抱えられた箱に目を落としたと気付いた雪子は、一度目を落として懐かしげにふける。しかしすぐに太裳に尋ねるとなるほどと得心のいったように頷いた。

どちらからともなく、螺鈿細工の施された箱のなかにしまわれたいたそれに、ふたりは再び目を落とす。しまわれていたのは、手首につけられる小さな数珠だ。瑪瑙が連なるそれは今はもう着けなくなってしまった。雪子はそっと指先で触れ、太裳は穏やかに微笑む。
懐かしい品だ。あれは、たしか。


「太裳様、成親殿にお会いになられるとき、私が呼んでいたと伝えていただけませんか?国成と忠基が呼びに行ったのですが、なかなか来てくれないのです」
「ええ、畏まりました」


もう、と頬を膨らませる表情が弾む。活き活きとした表情がすぐに変わって微笑する。ころころ変わる表情に頬を緩ませた太裳は、双眸を細めながら首肯して姿を消した。塗籠から神将の気配が消えたことを確認した雪子は、螺鈿の箱にしまわれた瑪瑙の数珠をそっと手に取った。太裳になにか言われるであろう成親を想像して、自然と笑みがこぼれるのだった。


◇   ◇   ◇


意識をなくして、次に意識が戻ったときは、幼い子どもの姿だった。と記憶している。まだ四歳か五歳ほどの幼い子ども。しっかりした意識を持ったあれが『物心がついた』ときなのではないだろうかと、幼いながらに思ったりしたものだ。指を開閉する手は小さく、床を見つめると高さがあまりない。見上げる大人の顔は遠く、空はもっと遠かった。


「おとうさま。わたしね、ほんとうはみらいのひとなのよ」


つたない舌で『父』に伝えたときは『父』は驚愕の色を現した。だが、『父』は目を何度かまたたかせてから微笑んで私の頭を撫でたのだ。そうか、と微笑む『父』は私の言うことを絶対に信じていない。きっと子どもの戯言だろうと楽しく聞いているのだろうと、簡単に見て取れる。ほんとうよ、と続けても『父』は頭を撫でてくれるだけだった。

私の父は、藤原為則だ。人間関係の魔の巣窟と謂われる政に加わる殿上人である。官位も高い。それを表わして邸を構える敷地もそれなりに広いし、邸も広い。使用人も何人もいる。この時代では珍しく妻はひとりだけを娶った男だ。その父のもとに生まれたのが、私だ。未来で――平成で死んだはずの、私。不慮の交通事故で意識を失くし、そのまま命も亡くしたはずだった。霞みゆく視界が揺れて意識が完全に堕ちたかと思えば、次の瞬間には突如急浮上。ぱちりと目を開いてみると見慣れぬ天井が目に入った。きょろきょろと辺りを見渡してみても知らぬ場所。知らない場所に知らない家、知らないひとたちが自分を呼び、知らない親が自分を可愛がる。それに最初は戸惑ったものだが、数十分もするとこの時代に生を受けて数年の記憶が湧きあがった。その瞬間、前触れもなく、説明もなく、唐突に理解した。

過去の人物に生まれ変わったのだ。と。
否、過去の人物だけではない。小説内に書かれた『篤子』さんに私は生まれ変わってしまったのだ。――となれば結婚するひとはもう知っている。知っているけれど、でも、そんなのはいやだ。このひとを好きになるんだと思いながら好きになるなんて、真っ平ごめんだ。小説の流れに関係なく恋をしたい。私を一途に想って、嫁をひとりしかとらないひとと。小説の流れなんて関係ない。いざとなったら、物語なんてぶち壊してやる。


「ほんとうなのに……もう、おとうさまったら」


大人びた私の口調に、お父様はただ穏やかに微笑むだけだった。

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