失礼します、と声をかけるとすぐに返事がして、すると昌浩が手を触れてもいないのに妻戸がひとりでに開いた。一人で驚く私をよそに昌浩は晴明さまの部屋に入るとあらかじめ置かれていた円座に腰をおろしたが、私は緊張に強張る筋肉で固まってしまっていた。すぐ後ろを着いてこない私に気付いた昌浩は手招きして隣の円座を勧めてくれるが、床に根を張ってしまったような私の足は簡単に動いてくれない。緊張か、恐怖か。室内を包む、私に向けられる痛い雰囲気が筋肉を硬直させているのは間違いなかった。

入りたく、ない。
けど、入り、たい。

唇を結ぶ。
唇の内側を噛んで、震えを堪えた。
体の前で組んだ手を強く握って腹に力を込める。大丈夫。言い聞かせた。

後ろから背中を押された気がして、ふっと誰にも気付かれないように小さく息を吐きだした。手招きしても部屋に入らない私に、不思議そうに瞬きを繰り返す昌浩の隣へ足を進める。会釈を一度したら円座にゆっくり座る。昌浩の肩に乗っていたはずのもっくんは、私と昌浩の間で晴明さまに目を向けていた。幾分かその表情は険しい気がする。
それも当然と言えば当然なんだろう。もっくんは晴明さまに仕える式。ならば、正体も分からない私を主に会わせたくないはずだ。ごめんねと心の中で呟いた。


「これから一通りの話は聞いております。――堅苦しい話し方はよしましょうかな?」
「…はい、お願いします」


これと一瞥された昌浩が隣でむっとする気配が伝わってきた。それを無視した晴明さまは、元から刻まれている目許の皺を更に深くして朗らかに微笑んだ。私の緊張を和らげてくれるものだとすぐに分かったが、それで全ての緊張がほどけることもなく、妙な空気を肌にひしひしと感じながらぎこちなく口角を上げる。きっと変な笑みになっているだろうけれど、でも晴明さまの機嫌を損ねなければいいな。一抹の不安が胸を過るけれど、微笑んだままの晴明さまは至って気にしている様子もなく柔らかく微笑んでくれているだけだった。

では、どこから話そうか。
話しを纏めようと頭はフル回転で、普段ならないくらい忙しく回っている。

果たして纏るのを待ってくれているのかは分からないが、脇息に凭れる晴明さまはなぜか一度視線を滑らせて簀子を向いた。淡い月光が舞い降りている。晴明さまにつられ向けてみると、火が灯された蝋燭と変わらぬような灯りが美しくて思わず目が細まる。
きれい――だけれど、それと同時に背筋をひやりと寒いものが奔る。自然と身震いがした。月明かりに目を向けた途端飛んでくる、なにか。――恐らく、殺気。どこからと不思議に思うことはない。私が目を向けた途端に飛んできたのだから、きっと簀子からそれを飛ばされているのだ。

姿は見えない。
目を凝らしても簀子には誰もいないし目視できないけれど、でも、そこには『何か』がいる気配。頭のてっぺんでぴりりと何かを感じ取る。姿が見えないなら、殺気を飛ばす『何か』は多分、晴明さまの式だ。六合がそうだったように、姿を消しながらも私を見据えているのだろう。

参ったな…目をすがめて唾をひとつ呑み込んだ。


「待て、晴明。そいつをどうにかしろ。目障りでならん」
「…もっ、くん……?」
「まったく、お前らは……」


簀子を向いた晴明さまは私に目を戻し、何かを尋ねようと開口したが、声を発する前にそれを阻んだのは私と昌浩の間に座っていたもっくんだった。険しかった表情は更に険しさが増している。胡乱な双眸で簀子を見遣ったまま晴明さまに言ったかと思えば、晴明さまは息をひとつ吐き出しながら額に手を添えた。
呆れたように言いながらも「青龍」と呼び掛け、すると、飛んでくる殺気を感じていた簀子に突如人影が浮かび上がる。六合と同じく隠形していたらしい彼は、険を孕んだ瞳で私を――否、私ともっくんを見据えていた。私だけならまだしも、もっくんを睥睨する理由が分からずに疑問が浮かぶ。けれど顕現した彼と同じようにもっくんの瞳にも険が浮かんでいるのを見下ろすと、ふたりの仲は決して良くないのだと瞬時に理解出来た。


「青龍、しばらく下がっていろ」
「出来ん」
「――宵藍」


顕現した彼は、簀子から足を進めて針のように鋭い双眸と殺気をこちらに飛ばしながら晴明さまのそばまで歩み寄る。晴明さまのそばまで寄ったものの、そこに座る前に主から言われ彼は即座に拒否を示した。きっと私と晴明さまを会わせるのが気に入らないのだろうと、その雰囲気を読み取ればすぐに分かる。
だが、語調が強くなった晴明さまに彼はたじろぐ。別の名前なのだろうか、紡がれた名前に息を呑んだ彼は晴明さまを見遣ったのちに再び私へと鋭い双眸を向けた。

射殺すにも近い睥睨が突き刺さる。
いたい。

思わず逸らした視線が床板の木目を見つめる。人生で一度も向けられたことのない殺気に体が縮こまってしまっていたけれど、「さっさと行け。目障りだ」と喧嘩腰にぴしゃりと言い放つもっくんの声がすぐ隣からして、わずかに首をもたげた。
もっくんを見ると、剣呑にきらめく夕日色の双眸がまっすぐ彼を見据えている。額に浮かんだ花模様がかすかに揺れている気がした。


「……ちっ」


耳にはっきりと届く舌打ちのあと、彼は姿を消した。六合と同じように隠形したか、異界に戻ったか。その後、彼の気配も殺気も感じることがなくなる。異界という場所に戻ったのだろう。安堵というか、しかし、緊張が少しほぐれた気がして気持ちが少し軽くなる。
晴明さまは額に手を添えたままもっくんを見遣ると「お前らは…」と呆れた声音で続けようとするが、もっくんがふんと鼻を鳴らし双眸を彼方へやるものだから、晴明さまは話す気力が失せたらしい。息をひとつ吐き出して再び手を脇息に置いた。

持つ檜扇を指先でぱちんともてあそび始め、今度こそ私を向く。


「邪魔が入ってしまいましたな。さて、では咲希様」


穏和な笑みが、昌浩、もっくん、私へと続く。きちんとお座りしているもっくんは依然として不機嫌さを含んだ面持ちで簀子を見遣っているけれど、昌浩は真剣な表情で晴明さまを見ている。なにを言われるのか前もって話を訊いていないらしい。なにを言われるのかと緊張と焦りと恐怖と、諸々の感情が混じり合ったものが渦巻くなか、晴明さまをまっすぐに見る。

微笑が、あたたかい。それが唯一安心できた。
――すると、晴明さまは思いもよらぬ爆弾発言を投下したのだった。


「貴女様の身は、この晴明がお預かりいたしましょう」


え、と漏らした声が昌浩と重なった。
私を、預かる?
唐突な申し出に絶句した。この場にいる全員が言葉を失ったのだろう。驚愕に言葉が出ない昌浩と朱の双眸を瞠らせてまじまじと晴明さまを見上げるもっくんも、晴明さまを見たのち私にすーっと視線を移した。この場にいるだれより私が驚いているのは自信が持てた。開いた口が塞がらないというのはまさにこのことだろう。え、と漏らした形のまま唇は固まっていた。
そんな。私を、預かる?耳を疑ったし、失礼だけれど晴明さまは耄碌したんじゃないかとも思った。昌浩から粗方の話を聞いたのならば『未来から来た』という結論でさえ聞いただろう。その結論は私でさえ信じがたい常軌を逸した考えだ。本人が未だ信じられずにいるというのに、それにも関わらずこの老人はいとも簡単に信じるというのだろうか。

手にしていた扇を開いて、口許を隠す。
その瞬間、穏和な笑みになにかが見えた気がした。


「じ、じい様!でも、それはっ」
「わしが許可を出せばなんの問題もない」
「そりゃ、ここはお前の邸だからなぁ」


狼狽する昌浩に、飄々とどこ吹く風の晴明さま、驚愕を通りこして動じなくなったもっくん。三者三様の態度を、驚愕とは違う別のところで脳が傍観していた。
わー、態度全然違うなあ。

ってそういうことじゃなくて!晴明さまのお邸だから晴明さまが許可を出せば問題がない?いや私にとっては根本から問題が違うわけだ。きっとすぐに帰れないのだろうと覚悟していたから、住む場所どうしようなどという些細な悩みはなくなるのだが、しかし居住の場所の問題ではない。平安というここでは私は全くの異邦者ということになる。この時代の常識を知らなければ何も知らない。無知で不審者。
正体が分からない者を家に置くなんて現世でもしないことだ。物騒すぎる。

それなのに、それを、晴明さまは。


「なんじゃ昌浩、じい様の言うことに不安でもあるのか?それとも嫌なのか?」
「いえ、俺は構いませんけど、ってそうじゃなくって、咲希が頷いてないじゃないですかっ」


昌浩をからかい始めた晴明さまとの遣り取りを見て、胸に溜まっていた重いものが軽くなる気がした。
晴明さまは笑ってる。昌浩も許してくれてる。だれも私を疎んでいない。出て行けとは言わない。異邦なのに許してくれた。
ごちゃごちゃと考えていた自分が愚かに感じた。ばかみたい。


「…いいのかなあ、もっくん」
「晴明がああ言ってんだ、大丈夫だろ?」
「そっか。……もっくんも、晴明さまも、昌浩も、いいひとだね」


昌浩をからかう晴明さまと、言い合う昌浩を見ながら、もっくんの尻尾がひゅんと動いた。
その光景に、私はただ微笑を浮かべるだけだった。




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