第二説



「っ、…………」


ぱちりと瞼を上げる。見開いた目が、天井を見つめた。鼓動が早鐘を打っていて息も浅い。暑いような、寒いような曖昧さに額に手をやると汗が浮かんでいる。冷や汗が珠をつくっていたのだ。濡れた指先を一度呆然と見つめてから、息を整えるために肺から長く吐き出す。

不思議な夢、だった。
包まれた闇に差す光明。あれがなければきっと私は蒼白の手に捕まり、こうして起きていなかったかもしれない。それを思うと背筋が冷えるような気がして、私はすぐに考えるのを止めた。救いはあの舞い降りてきた光だったのだ。きらめきと、力強さと、ぬくもりと。どこかで感じたことのあるようなそれに懐かしさが胸を満たす。懐かしい、感じがするのだけれど、でも、それをどこで感じたのか。思い出せない。

でも、と緩慢などうさで上体を起こし、頭を緩く振った。
思い出せないなら構わない。きっと必要なときに思い出す。
そう言い聞かせた。


「……起きたか」
「っ、」


あまりにも無防備な意識があった為、不意に低い声で言われて肩が震えた。体が一瞬跳ねた気がする。

起こした上体を巡らせて振り向いてみると、丁度背後の妻戸に長身の男性が背を預けて片胡坐を掻いていた。鳶色の髪が背中や肩から流れ羽織った闇色の長布が無造作に床に広がっている。片膝を立てて片方だけの胡坐を掻いた男性は黄褐色の無表情な瞳でただ私を凝視していた。どうこうしようという気は無いらしいが、ここが何処か寝ていた場所がどこか分からない私にとっては彼すら恐怖の対象になる。…それなのに「貴方は誰ですか」と震える声で尋ねていた。

昌浩ともっくんの様に気軽にとはいかない。でも訊けたのはきっと、この人が恐ろしい雰囲気を纏っていなかったからだ。
彼は私から声が掛かると予想だにしていなかったのか、開口した私を凝視する黄褐色の瞳は僅かに瞠目された。しかし直ぐに抑揚のない声音。


「…俺は晴明の式だ」
「……せい…めい、」


昌浩のおじい様。
私でも知っているかの大陰陽師。

ああ、そういえば私、途中で眠っちゃったんだっけ。最後に聞こえた昌浩の声が耳の奥に残っていた。もっくんが邸に来いと言っていたからきっとここは晴明さまのお邸なのだろう。


「……お前、名は」
「…咲希。藤堂咲希」


突如だんまりになってしまった私を訝しがったのか彼はやはり抑揚のない声音で問い掛ける。思考を深みに持って行くうちに次第に視線も下がっていた為視界に映るのは彼ではなく畳になっていた。しかし問われた事により遮られた思考が顔を上へ向け再び男性へ顔を向ける。黄褐色の瞳と合った。その双眸は私をまじまじと見つめていて雰囲気が読み取れない表情に戸惑うけれど、それは直ぐに他によって終わりを告げられた。

「六合?」と呼び掛ける声が簀子から聞こえひょっこりと顔を覗かせる少年が居たのだ。呼び掛けた名が最初だれの名か分からなかったけれどここに居るのは私と彼しか居ないわけで、彼の名が六合だと言うことが分かった。その声とともに立ち上がった六合さんは顔をひょっこり覗かせた少年へ近寄り小声で何かを告げたあと、すっと姿が空気に紛れ無くなる。
え、え?その原理が分からなくて愕然とした。ひ、ひとが急に消えた…!瞠目して六合さんが消えたその場をじっと見ていると彼から耳打ちを受けた昌浩が静かな足取りで近付いていくる。「あ、起きてたんだ。良かった」と安堵の息を漏らしながらの声が褥の隣で聞こえたけれど、それでもただ私は目を見張ることしかできなかった。


「気にするな。あれはいつもああだ」
「…もっくん、…あれって…」
「六合。晴明に仕える十二神将がひとり」
「ううん、そうじゃなくって…急にひとが消えて……」
「ああ。異界に戻ったんだろう。お前が目覚めるまで側に居ろとの命が終わったからな」
「……異界?」


また首を傾げた。
ちょっとちんぷんかんぷんな部分が多い。

昌浩達に教えて貰った通りここが平安の都だとして私は遥か昔、約二千年も前に来てしまった事になる。この時代は昌浩のような衣服が普段着だったから昌浩が着ていてもおかしくないのは認めよう。それなのに六合の服は平安に見合った衣服じゃなく反対に西洋が混じった様な、西洋ともまた違うけれど現代に近い様な。それに十二神将って?安倍晴明の名前は知っていても十二神将とやらが何かは分からない。しかも異界って。分からないことずくめで隣で何かを離す昌浩の言葉すら耳を通らない。右から左に抜けるどころじゃなくて耳の前で遮断されるような、そんな感覚。

隣で話している昌浩の声が止んだかと思えば。意味もなくある一点を見つめていた私の視界にひゅん、と白い何かが流れた。「…うん?」声を上げるとまたひゅん、と素早く白い何かが過る。それでようやく意識が別のところへ向かった。視線を落として白い何かが過った下を向くと、朱の双眸を私に向けたもっくんが尻尾を立てて左右に素早く動かしていたのだ。


「俺と六合は晴明に仕える十二神将だ。晴明の式だと思っていればいい。その十二神将がいる場所が異界、この現とは違う空間にある」
「…………うん?」
「そう深く考えるな。邸に戻ったのだと思っていればいい」
「ああ、そっか、うん。分かった」


六合は家に帰った。そう思っておけばいい。
もっくんたち十二神将は晴明様に仕えてるけど命がないときは家にいる。そう考えておけばいい。そうすれば混乱しない。

なるべく混乱しないようにしないようにと考えて結局はそこへ行き着く。それでも不可解な部分は多々あり、解けない謎だらけに包まれているけれど深く考えないことにした。きっと今考えても何も変わらない、何も分からない。きっと私が平安にタイムスリップしてしまった理由は有るのだろうけれど手掛りのない現状ではそれを紐解くことは出来ないのだ。それならば、現状をう早急に呑み込んでしまった方が受け入れやすい。

ひゅん、と立てた尾を左右に大きく振るもっくんの頭に自然と手を伸ばしていた。
思考に専念し朧になる視界で、無意識に撫でた頭はふわふわと柔らかい。されるがままのもっくんが目をすがめながら、私に夕日を切り取った双眸を向けた。昌浩が隣でその様を眺めていてしばらく時が止まったように静寂に包まれていたが、もっくんの頭を撫でる私の腕にもっくんが器用に前足を添えた。
朧な視界が輪郭を取り戻し、真っ赤な夕日を見つめ返した。開口すべく一度開いた口が、なぜか息を呑んで再び閉じ、しかしまた開く。隣で昌浩がもっくんを見て小首を傾げた。


「……咲希。体に無理がければ、晴明のところへ行け」
「…晴明、さま?」
「ああ。お前が起きていれば連れて来いと命を受けた」
「そう…」


歴史上最も有名な陰陽師が私を呼んだ理由はおよそ見当がつく。
なぜあんな場所にいたか、なぜ平安と違う衣服を身に纏うか。訊かれるのは恐らくはそんなところだろう。もっくんの前足が添えられた時に止めた手を一度だけ動かして、くしゃと一撫でしてから手を離した。寝ている時に掛けられていた袿を捲って、私は立ち上がった。

こうなれば行くしかない。晴明さまの孫という昌浩と式のもっくんに助けてもらい、しかもお邸で休ませて頂いたのだから礼を言わなければいけない。そしてなぜここに来たかを訊かれたら、その時は正直に話せばいい。私が知ること、話せること全てを。包み隠さず正直に話せば晴明さまだってきっと分かってくれる。

――昌浩ともっくんに頼んで、晴明さまの部屋に通してもらうことにした。



◇   ◇   ◇




夜はとうに更けていた。邸の住人はおよそ眠りについているだろう。彰子も、父も、母も。

そんななか、咲希を祖父の部屋へと通すことになった昌浩と物の怪は、簀子を歩いていた。昌浩の肩に乗った物の怪の尾が昌浩の背中でひゅんと揺れ、昌浩と物の怪の後ろで辺りを物珍しそうに見回しながら咲希が歩く。
昌浩の肩でちらりと後ろを見遣った物の怪の目がわずかな剣呑をはらんだ。顔のすぐ横でぴりと辛くなる気配に昌浩は、物の怪にだけ聞こえる小さな声で話しかける。


「もっくん、さっきからどうしたって言うんだよ。変だよ?」
「……俺は反対しただろう、素性も分からんやつを邸に入れることを。晴明に会わせるのも納得いかん」
「そりゃ俺だってちょっとは抵抗があったけど…でも、気絶した子をそのまま置いておくのも危ないし、結局はじい様の許可も下りたじゃんか」
「…まあ、あんな子供がなにか出来るとは思わんが……。気を抜くなよ、昌浩」
「はいはい」


渋面をつくる物の怪の頭を一撫でして、昌浩は適当な相槌を返した。
それにすら不満を持ちながら物の怪は再び少女を見遣る。物の怪が顧みた彼女は緊張に顔が強張って深い息を何度も繰り返していた。ついと向けた咲希の背後に隠形した六合の気配を感じ、六合がそばにいるなら何とかなるだろうとひとまずは一抹の不安を拭い去ることにした。

しかし、物の怪は言い得ぬ感覚が広がる胸中にむしゃくしゃしていたのだった。




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