思い瞼をのろのろ開く。眉根が自然と寄り、険しい表情になってしまう。

薄く開き始めた視界いっぱいに映るのは、かすかな灯りが射し込む闇と、そのなかで私を覗き込む二対の瞳。明確に見えるわけでもなくただぼんやりと見えるだけだけれど確かにその二対の瞳は私を見つめていた。薄くでも瞼が上がっていることに気付いたのかひとりが「あ、」と小さな声を上げて微笑を浮かべ、柔らかい声音で私に問い掛ける。
のろのろ開いた瞼は完全にあげられず、最早半眼になってしまっていた。…瞼がやけに重くて、完全に上げられなくて、ぴりっと何かがこめかみを伝って奔ったような気がした。


「大丈夫ですか?倒れていたみたいですけど…」
「…………」


倒れていた。
唇は開かず校内で繰り返す。
私、倒れてたんだ。

あれはやっぱり夢の出来事でしかない。完全なる闇に包まれてるなんて、現実ではまずありえないのだ。日本全土が停電になろうとも月明かりや星明かりがあるのだから。それすらなかったあの夢は……気に掛かる夢だけれど、横たわっていた上体を緩慢な動作で起こし、そこではたと気付く。
……だれ?上体を起こすと同時に背中に手を添えてくれたひとに思わず怪訝な目を向けてしまう。でも再び、ぴりっとこめかみから脳天にかけて奔る痛みにすぐに視線を落とした。板張りらしい床に目を向けてうつむく。月光が射し込む床を見つめながら自然と手がこめかみに添えられた。…月光?


「話せないのか、こいつ」
「もっくん」


最初に声をかけてくれたひととは違う、子供のように高い声が生意気にも初対面をこいつ呼ばわりした。子供のくせに偉そうな。瞬間苛立ちが駆け抜けたけれど、床に影を落とす月明かりから顔をもたげて目を向けるとそこに居たのは、何だか、形容し難い生物で。

真っ白な体躯に一巡する紅い突起が首周りに生え、その突起よりもわずかに濃いように見える朱の丸い双眸が怪訝に歪む。私を指す言葉と同時に後ろに流れた耳がそよぎ、床に無造作に置かれた長い尾がひゅんと横に揺れ埃を立たせた。生意気にこいつ呼ばわりで向けた獣の手は、まるで人間のように器用で私だけを指す。

睨もうかとおも思ったけれど、兎のような犬のようなその生物に目を奪われ丸くした。頭の痛みが消え去る。理解の範疇を超えている生物を目の当たりにして、心臓はバクバク音を立ててうるさいけれど私は冷静を装うことに徹した。その生物を凝視。やっぱり目が離せなくて。凝視する私をよそに少年が小さく呟いたのちさり気なく手を払ったかと思えば、その手は確実に白い生物へと向いていたのだ。


「いってえ。ひでぇな、昌浩」
「……………」
「何だ何だ?俺様を見てるのか?」
「………………兎と犬、どっち?」
「……まさか俺が見えてんのか?」
「見えてるし聞こえてるし会話してるね、私」
「! 昌浩、こいつ」


痛いと嘆いたときの穏やかな、ふざけた雰囲気はどこへやら。目を会わせて小さく頷いた途端、真っ白生物の表情が硬くなって双眸が険しくなる。目を私に向けたまま少年を呼び掛けると、とうの昌浩少年も愕然と瞠目して私を凝視しているではないか。
その意味が分からなくて首を傾げる。白い滑らかな毛並みをした尾は先程ひゅんと揺れたけれど、それ以降揺れることはなくなり、朱の瞳と交わらせながら会話したせいか真っ白生物は口を閉ざした。会話していかなかったのだろうかと思案する。しかしこれは器用に前足で私を指し、見ず知らずの他人の私を『こいつ』呼ばわりをしたのだ。どちらかと言えばあちらから話しかけられたに近い気がするのは、気のせいだろうか。

私はただそれに素直に返答しただけであって。

もっくんなる呼び名の生物はそのまま後退りをし、私と距離をとる。昌浩少年のそばまで行ったかと思えば私を向く目がつい、と険しく細まる。
朱の双眸。まるで夕日色の、夕焼け空に似た――夕焼け色……夕焼け……夕方…朱…――朱に、染まる、教室。

瞬時に瞠目した。
「なつみ」とかすかに開いた唇が友人の名を呼ぶ。籠った声が脳内に反響した。そうだ、夏実。夏実と一緒に教室にいたはずなのに、他愛ない話をしていたはずなのにここは一体――彼らは――。夕方の教室に残っていたはずの友人を探し、月明かりしかない夜闇を見回した。遠くは見えないけれど近くは辛うじて見える。左に右にと首を振って確認するけれど姿が見えず、昌浩少年以外のひとがいる気配もなく、途端に焦燥感に駆られる。いない。夏実が、いない。突如見まわし始めた私に怪訝を含んだ視線が突き刺さる。おそらくもっくんなる呼び名の生物のものだ。
でもそんなものを気にしている暇などなく、しゃがむ昌浩少年の上腕を掴んだ。


「私以外に、ひとは、」
「…いえ」


昌浩少年の戸惑いながら首を横に振る姿に体が冷える。
内臓が一気に冷えた気がした。
夏実が、いない。なんで――?
私と彼女は同じ空間にいたのに。

夢。だと思いたい。この光景が。
でも私の目は、頭は、体温は、体は、夢ではないと否定をする。だって確かに私は昌浩少年と真っ白生物もっくんを見ている。月光しかない闇に目を凝らしている。冷たい床に体温を奪われている。積み重なった埃が体を汚している。どれをとっても夢だと肯定できる要素はない。不可解な要素ばかりなのだ。
なぜ月明かりしかないのか、もっくんという生物の生態、なぜ埃まみれの床なのか。

現実なら、一体これは――。


「……ここが、どこだか分かりますか?」


頭を一生懸命に回転させた。
落ち着け。学生の脳は常に働いているはずだ、すぐに動け。
回転の遅い脳を叱咤しつつ、昌浩少年から手を離す。日本語が通じているならここは日本。言葉が通じるならきっと打開策はある。


「平安の、都です」
「――、へい…あん…?」


私は県とか、場所を尋ねたはずなのに、返答は平安の都。つまり平安京。呆気にとられて思わず繰り返した。昔の名前を訊きたかったわけではない。決してそんなわけはないけれど、瞠った目で見た昌浩少年の表情は至って真剣で、嘘をついていないと瞬時に分かる。昌浩の横で剣を含んだ双眸をしていた真っ白生物もっくんが一歩、前に足を踏み出した。


「――貴様、妖か」


剣呑にひらめく朱が燃える。額に咲いた華が色を濃くして揺れた。
一歩、また一歩と退いたはずのもっくんが足を進めるたび、距離が縮まるたびに、ただならぬ雰囲気が肌にひしひしと打ち付ける。徐々に鋭くなる空気が肌を震わせた。

妖、つまり、妖怪。違う。私は人間。生きてる。「ちがう!」慌てて首を横に振った。


「私、生きてるよ、人間だよ。――平安が、過去だから驚いて、」
「過去、だと?」
「? 平安は過去、でしょ?いまはもう平成だよ?」
「へい、せい…」


真っ白生物もっくんが眉をしかめて、昌浩少年が反復する。
互いに顔を見合わせる昌浩少年ともっくんと、懸命に弁解する私とでは、何かが食い違っているらしかった。



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