肩にのしかかる『これ』は、命の重さだから。
理由を秘する。
理由、言えるわけないでしょ。名前ちゃんを貸す、貸さないなんて。
「クザンさんと黄猿さんが……?」
部下に呼ばれ、クザンさんの元を離れていた私は漸くその用事も終わり、クザンさんがいるはずの執務室へ戻ろうと足を向けていた。しかし、近付けば近付くほどに人が居なかった廊下に疎らに人が現れ、しかもその様子は慌てている様子だった。怪訝を隠そうともせずに、慌てて部屋から遠ざかろうとするひとりの海兵を捕まえ、なぜかと事情と理由を訊ねる。するとその海兵の口から出た言葉に私は目を瞠る。
どうやら部屋ではクザンさんと黄猿さんが戦いに入りそうだという。それこそ怪訝に思い、急ぎ足になりながら戦闘寸前だという部屋へ向かった。擦れ違う海兵には「あのお二人を止めて下さい!」と乞われるほど、海兵は慌て混乱している。
止めて下さい、と懇願されてもその戦闘寸前の二人は、元帥のたった一つ下の位に君臨する大将二人だ。それをたかが少将風情であり、大した実力も持ち合わせていない私に止められるはずもない。まして『少将』という今の地位は自分で確立したものではなく、クザンさんが確立したもの。否、クザンさんによって確立されたものという言い方が正しいのかもしれない。つまりは、実力が『少将』という地位に着いて来てるかと問われれば首を横に振ることが出来るし、実際の私の実力は准将や大佐といった地位であるということだ。そんな小娘に助けを乞うなど愚かしいとしか言いようがない。
だが、と前を見据える。今は部下に信頼されている『少将』で有り続けなければならないのだ。
コンコンコン、とノックを3回繰り返し室内からの返事を待つ。やはりと言うべきか、室内からの返事は返って来ない。戦闘寸前というならば返事を返す暇も勿体ないというわけか。はあ、と溜息が口から出ながら渋々扉を開ける。すると、そこに広がっていたのは唖然とする光景だった。
「何で分からないかねェ。あれはおれのだ、って何度も言ってんだけどな」
「ちょォ〜っとは貸してくれてもいいんじゃないのォ〜?わっしも使ってみたいんだよォ〜」
「だめだ。誰にも譲らねえよ。というか使うって、ものじゃないでしょーよ」
一体二人がなにについて話しているのか、なにを貸す貸さないで話しているのか分からないが、クザンさんと黄猿さんが対峙し合う室内は悲惨なことになっていた。互いに醸し出す闘気に空気はうねり、風が吹いているわけでもないのに自然とコートや髪は翻る。机上に有ったはずの積み重なる書類は、うねる空気によってばさばさと音を立て床へ落ちている。最早積み重なった書類の山は、机上のどこにも見当たらなかった。淀む空気が室内を支配する。
部屋の端と端に立ち、対峙し合う二人の足元を見ると、二人は積み重なっていたはずの書類を足蹴に立っていた。ブツン。それを見た途端、私の頭のなかの何かがやたら鈍い音をたてて切れた。
「全くもォ〜過保護だねェ〜」
「そりゃどー「いい加減にしなさい」…あららら」
突風が吹き荒ぶ。大将二人は口調こそ穏やかなまま互いに攻撃を仕掛けようと一歩を踏み出し、丁度二人が中心に差し掛かった途端その間に割り込んだ。アイスサーベルを振り上げたクザンさんのそれを刀で受け止め、光る足で蹴り上げようとしていた黄猿さんの足を『風』で捉える。間に割り込んだ俯く私の様子を見て、クザンさんは苦笑に似た声で口癖のそれを言い、黄猿さんはそのゆったりした口調で「あらァ〜」と言ったのだ。その口調は悪びれている様子もない。
アイスサーベルを床に突き刺したクザンさんを見て刀をしまい、足を降ろす黄猿さんを見て『風』を解く。そして二人のネクタイを引っ掴んで長身すぎる二人を、無私に無理矢理、視線を合わせた。
「何をしているんですか、貴方たちは。他の海兵に迷惑になっているでしょう。そして足元をご覧なさい、その足の下敷きになっているものは何です?」
「………書類、だねェ〜」
「そう、海兵たちが片付けようとしていた書類です。それを貴方たちが散乱させたんですよ。……私の言いたいこと、伝わっていますか?」
「あららら…ごめんよ、名前ちゃん」
「謝る前に拾いなさい!」
怒号が飛び散る。引っ掴んでいたネクタイを離し、床を指差して怒鳴る。それはどうやら部屋の外まで聞こえていたらしく、この様子を覗き見ていた海兵の肩がぶるりと震える姿が目に入った。敢えてそれを見ないふりをし、しょうがないとばかりに書類を拾い始める大将二人を見下ろす。しょうがないも何もないではないか。本人たちが散らかした書類なのだ、その本人が収集し整えるのは道理に適っている筈。二人を怒鳴りつけた私は決して悪くはない。
暫くその場で、二人が書類を拾い上げるところを見下ろしていたが、先程のような闘気も戦闘する気もないのを感じ取れると、はあと溜息を吐き私も一緒になって書類を拾い始めた。
他の海兵の目から見れば、大将を怒鳴りつけてまして書類を拾わせるなんておかしいと思われるだろう。だが、海兵に、海軍になんと思われようが私は知らない。私は私の道を突き進むだけ。それを他人にとやかく言われる筋合いはない。
私も一緒になって拾い始めると、部屋の様子を覗き見ていた海兵も加わり、そして戻ってきた海兵も加わりやがては皆で拾うことになった。黙々と書類を拾い上げながら、クザンさんと黄猿さんが戦闘を始めそうになったきっかけを問う。
「貸す、貸さないで喧嘩なんてみっともないですよ、お二人とも。何を貸す、貸さないで揉め合っていたんです?」
「あー……秘密」
「私に言えない様なものですか?」
「ああ…うん。まあ、ね」
しっくりしないクザンさんの返答に私もしっくりしないが、これ以上踏み込まないと頭は勝手にストッパーを掛け、これ以上の事は問わなかった。そしてまた黙々と書類を拾い集める。すると「名前少将、」と黙々と拾い集める私の元にひとりの海兵が駆け寄って来た。
何事かと、拾い集めた書類を手近な机上に置き立ち上がると、その海兵はやけに緊張しながら敬礼をする。その額には冷や汗が浮かんでいる様にも見えるが、それを海兵に訊くこともせず言おうとしている伝言を待つ。
だが、その伝言に私は目を瞠り、ふつふつと湧き上がる怒りを理性で抑え込むことしか出来なかった。その怒りの発散場所が見付からない。
『悪かったよォ〜部屋を荒らしてェ〜。わっし用事があるからこれでお暇させてもらうよォ〜』
それが、駆け寄ってきた海兵からの伝言だった。恐らく、と言わず確かにと言う方が正しいだろう。この贈り主は紛れもなく、間違い様もなくクザンさんと一緒になってこの部屋の書類を散乱させてくれた張本人、黄猿さんからだ。ふるふると震える手を拳を握って抑えさせ、喉から出そうになる悪態を理性で抑える。
自分でやったことは、自分でけじめをつけるのが道理だというのに。
「あんの猿め……!」
理性では抑えきれず、低い唸るような声が思わず口から出てしまう。クザンさんの苦笑が聞こえたのは言うまでもない。
◇ ◇ ◇
「どう、怒りは収まった?」
「あ、はい。粗方」
執務が再開される時になると、太陽はだいぶ西に傾いていた。あと少しで夕方を迎え、空は鮮やかな橙に染まるのだろう。そんな空を見つつ書類を片付け、心を落ち着かせていると今日は真面目に書類整理をしているクザンさんから声が掛かる。書類からちらりと顔を上げて私を見るクザンさんを一瞥し、すぐその視線を窓の外へと向ける。鮮やかになりつつある太陽が眩しく差し込んでいた。恐らく、これ以上怒られまいと今日は真面目に取り組んでいるのだろう。
窓から見える太陽の下には、広大な海が広がっている。暫くその光景を眺めていた。なぜかクザンさんはその様子の私を咎めることはしない。クザンさんに心中で感謝しながら、私は徐々に色を変えつつある太陽を真っ直ぐ見つめた。
海賊は、各々の夢を胸に秘め海へ出る。ある一つの夢、もしくは目標の為に海を往く彼らは誇り高い。
『――海賊旗は誇りだ。誰にも邪魔の出来ねえ、穢すことの出来ねえ誇りだ』
昔、ある海賊が言っていた。船に掲げる海賊旗は誇り、夢、目標。それを叶えるために船のてっぺん、手を伸ばしても届きもしない様な高い場所に掲げているのだと。船の大きさは関係ない。関係あるのは己の志の向き方、強さ、大きさ。いくら船が小さかろうと志が誰にも負けなければ、そいつは偉大な海賊になるのだと。
「……名前ちゃん、過去に思いを馳せているようで悪いんだけど、命令が出た」
「命令、ですか?…センゴクさんから?」
「ああ。『海賊を討伐せよ』だってさ」
完全に橙に色を変えた太陽と空から視線を外し、その暖かな光を頬に受けながらクザンさんに向き直る。書類を読み上げ、ぺらりと私にそれを見せたクザンさんの表情はどこか苦しげ。クザンさんが苦しそうな表情をする必要はないのだ、というよりもなる必要はない。彼は私ではなく、まして私の代わりになる訳でもないのだ。いくら私に『近い』と言っても、クザンさんには私の人生の半分も分からず苦しみも分からない。でも、それが胸に暖かかった。
クザンさんのその表情をわざとらしく凍てた瞳で一瞥し、ぺらりと見せた書類を受け取ってそれに目を通す。
「名前ちゃんじゃないから苦しみも分からない。だからおれにこんな表情されても迷惑、か」
「………はい。すみません、でもありがとうございます」
「なーに、名前ちゃんのためですから」
大きな手が頭に伸びて、くしゃりと撫でる。その暖かさを誤魔化す様に、部屋から出て私は仕事を切り上げた。背中からはクザンさんの「ご苦労様」という声が聞こえる。
太陽は、海の向こうに沈もうとしていた。
海賊討伐、決行は明日の昼間。
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