けれど、いくら重苦しくても、『それ』を脱ぎ捨てることは赦されぬことだった。





おれは彼女が静かに暮らせるようにと、祈ることしか出来ない。




コートを翻す。ばさりと音を立てて翻ったそれは風に乗り歩く度に揺れ動く。それは私の肩にかかるコートも同じ、そしてクザンさんの肩に掛かるコートも同じなのだ。変わりはしない。自分の肩に掛かるそれを一度そっと触れてから先を歩くクザンさんの背中をじっと見つめ、そこに威風堂々と書かれた『正義』の二文字に秘かに眉を顰める。きっとクザンさんは気付きはしないのだろう。


『正義』の二文字など、海軍が掲げた自己満足のようなものだ。海賊を討伐し民を守る海軍を正義と決めつけ、海を往き略奪する海賊を悪と決め付ける。時には民から略奪する海軍が悪で、それを倒す海賊が正義という時があるだろう。それでも我ら海軍は『正義』を掲げるのだ、反吐が出るほどに。歯をぎしり、と噛み締める。

世は常に等しく、平等であるはずだ。海軍が正義を振り翳して、悪と罵る海賊を討ち取る。悪の海軍を倒すべく海賊が海軍を討ち取る。互いに正義もあり悪もある、それである一定の平等は保たれる筈だ。それなのに、海軍はいくら『悪』を横行していたとしてもそれを『正義』と勝手に変換し横行していた『悪』を無きものにしようとする。これでは等しくあれる筈がない。



「ほら、名前ちゃん。そんな顔しておれの背中見ないの」

「クザンさん……、」



どうやら、私が眉を顰めクザンさんの背中を見ていたことはお見通しにされていたようで、クザンさんは振り返りこそしないものの確かにその声音を私に向けながら注意のようなそれを促した。はい、と小さな返事をしながら目を伏せ、床を見つめる。
伏せた視界には前を歩くクザンさんの足が目に入った。なにを考えているのだろう私は。自分自身、今こんな所でそれを考えたって無意味だと分かっているはず。それなのに考えてしまうのは無意識ということなのだろうか。

『此処』にいて『悪』だとか『正義』だとか考えている、自分自身の無意識の思考に呆れ溜息が出る。溜息を吐きだした私と、まるで一緒のタイミングに前を歩くクザンさんも溜息を吐きだす。顔を上げ、遥か上にあるクザンさんの後頭部を見た。雰囲気がなにか言いたそうにしていた。



「無意識に考えるってことは、なにかあったからこそ考えてるんじゃないの?」

「……私なにも言ってませんよ」

「雰囲気とか、ほら。顔に書いてる」



歩いていたと思ったらクザンさんは急に立ち止まり、振り返って私の顔を指差した。咄嗟に両頬に手を宛て、疑問符を頭に浮かべて視線を至る所に泳がせる。私、そんなに顔に出やすかっただろうか。そんなことをしているとクザンさんは突然笑い出し、先程と同じように私の頭に手を乗せくしゃりと乱暴に撫でた。片目を瞑りそれが終わるのを彼を見上げながら待っていると、クザンさんは最後に穏やかな、滅多に見せることのない笑みを一瞬浮かべた。

「本当に、もう…」その言葉の先を続けてはくれない。一瞬だけ浮かべたその笑みを消し去ると、クザンさんは何事もなかったかのように再び歩き出す。言葉の先を紡ぐ訳でもなく、まるでそれを言っていないとでも言う様に「早く行って部屋冷やしちゃおうか」と肩越しに顧みたのだ。



◆   ◆   ◆




クザンが書類整理に追われる執務室に戻ると、そこはやけに緊張が張り詰めていた。いつも流れている穏やか、緩やかに似た雰囲気はどこにもなくそれはとうに掻き消えている。それとは反対に妙に張り詰め、余所余所しいそれ。
その理由が、普段己が座っている椅子に座っている人物のせいだと直ぐに確信した。背凭れが向いていてそれが誰だとは見えない。およそ雰囲気から察するに、あの子…名前ちゃんが好きとも嫌いともとれないだろうあいつだ。

呆れに似た溜息が口から出るクザンは、白いスラックスのポケットに入れていた手を出し、歩みを止めることなく机上にあるペンを一本掴んだ。それにふう、と柔らかに息を吹きかける。「アイスサーベル」一言小さく呟くと同時に、ペンから凍える氷のサーベルと変化したそれを座る人物に振り下ろした。


周囲でその様子を見ていたクザンの部下たちは、冷や冷やと肝を冷やしながらそれを見守る。皆、一様に心の中は落ち着かないでいた。ここが戦場にならなければいいが。



「何だァい青雉ィ〜。こォ〜んな物騒なもの振り下ろすなんてェ〜」

「人の椅子に座ってんのが悪いんでしょーが」



クザンの振り下ろしたアイスサーベルを受け止めたのは、眩く光る手。くるりと椅子を回し姿を現したのは、クザンと同じ大将である黄猿だった。ボルサリーノの受け止めた氷の刃は一瞬にして消え去りペンに戻った。それをからりと机の上に転がせ、クザンは机の前に立ったまま椅子に座り続けるボルサリーノを見下ろす。垂れた目がサングラス越しにかちりと合う。

「怖いねェ〜」と、その言葉とは裏腹に楽しそうな声音にクザンはどうしたものかと頭を抱えたくなった。およそ黄猿がここに来た理由は見当が付いている。名前の様子でも窺いに来たのだろう。だが、当の本人である名前少将はつい先程、部下に呼ばれクザンの元を去ったばかりだった。

ボルサリーノは見下ろすクザンを一瞥し、漸く重い腰を上げその椅子から立ち上がる。それと入れ替わるようにクザンはすぐに椅子にどかりと座る。そしてすぐに冷気を迸らせたかと思うと、それは風の吹き込む窓枠へ伸びた。窓枠には氷が張られ吹きこむ風と共にその氷の冷えた冷気も吹きこまれる。ひんやりとしたそれは、蒸し暑さが占めていた室内を冷やすのには丁度よいものだった。



「名前ちゃんは居ないのかァ〜い?」

「お前の気配がして出てったよ」

「おんやァ〜わっしも随分嫌われたようだねェ〜」



冗談と分かっているそれに黄猿はまともに取り合わない。椅子に座り込んだクザンは、まるでボルサリーノの姿を視界から消し去るように額に上げていたアイマスクを引き下ろし、目へ被せる。視界は閉ざされボルサリーノの姿は見えなくなる。

しかし耳朶には確かに黄猿の声は届くものであり、クザンはアイマスクの下で目を瞑りながら寝ようとするが、無防備な耳に聞こえてくるその声に眉を顰めた。



「様子は変わってないかァ〜い?」

「ああ。相変わらず『恨んで』るよ」

「やっぱりねェ〜。まァ、その恨みは簡単に消されるものじゃァないしィ〜」

「………………」



そのゆったりとした口調は時折癇に障るものがある。普段なら障るものは何もないのだが、あの子の話になってしまうとどうも癇に障る。クザンはボルサリーノの口から語られる名前の心情に、内心怒りが積もりつつあった。クザンだからこそ積もるものであり、話しの意中となっている名前が聞いても彼女は至って冷静で、表情を変えずに己の心情を語る黄猿を見て淡白な返答をし、あしらう様にボルサリーノを追い払うのだろう。

だが、それは彼女が――名前が真実を知らないからこそ冷静で淡白な返答が出来るのだ。名前の知らない真実を、隠された事実を知るクザンにとって黄猿の語るそれは心外以外のなにものでもない。苛立ち憤慨する心を無理矢理おさめ、黄猿の声が聞こえないようにと本格的に寝に入ろうとするクザンに、ボルサリーノは一瞥してから踵を返す。


「あ、」となにかを思い出したような声を上げ、ボルサリーノは立ち止まる。怪訝に思ったクザンはアイマスクを親指でくいと上げ、片目だけ覗かせ黄猿のその様子を窺う。振り向き言ったその言葉に、クザンは目を瞠った。



「あの子、わっしが貰っちゃうよォ〜仕事出来るみたいだしィ〜」

「……誰が譲ると思ってる?あの子はおれの、だけどなァ」

「おやおやァ〜手厳しい保護者がいたもんだねェ〜」



油断ならないボルサリーノの言葉に、クザンは僅かに憤慨が抑えきれずそれを表に出してしまう。剣呑に煌めく瞳で同じ大将を睨むように見、そしてすぐ冷気を迸らせる。足元を伝い、冷気は黄猿の足を捉え凍らせる。身動きの出来ない状態となった。
周囲でそれを見ていた海兵たちは邪魔にならないようにと、それとも恐怖を感じたのか一目散に室内から逃げ出し室内には大将青雉と黄猿しか残っていなかった。

冷気を迸らせ黄猿の足元を凍えさせたクザンは、椅子から立ち上がりかつかつと音を立て立ち尽くすボルサリーノに歩み寄る。ボルサリーノは手から眩い閃光を煌めかせ、足元を凍らせている氷へ向けた。飛び出た閃光は氷を瞬く間に粉々に粉砕し、すぐに足元は自由を取り戻す。クザンは歩み寄りながら、名前を頭に思い浮かべ厳かな声音で言う。



「あの子を静かにさせておけ」

「随分とあの子の肩を持つんだねェ〜」

「……まあな。おれは、」



あの子が静かに暮らせることを、祈ってるんだ。


喉から出そうになった言葉を呑み込む。きっと、この言葉を言ったら黄猿に笑われるのだろう。

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