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ある日を境に、名前のありふれた“日常”という砂で作られた塔は崩れていった。砂の塔はひどく脆いが、今まで培ってきた水を含み固められたそれは、容易に壊れてしまうようなものでもなかった筈である。

なんでだっけ、なんでだっけ。どうしてだっけ。
指の間をボロボロと崩れる感触に首を傾げて問いかけるも、それに返事をする者は一人もいない。


「さあ!アモーレ、君の望む物をなんだってあげよう!!金も、地位や名誉だって、全て君のモノさ!」


輝く太陽、青く澄み渡る空、人が行き交う石レンガの道端。うるさい位に聞こえる人々の喧騒の中で、その男は名前の両手をキュッと握りしめそう言った。突然鼻息荒く詰め寄ってくる男に名前は困惑する。が、男を頭の先から爪先まで視界に入れると、息を呑んだ。
名前より大分大柄な引き締まった体躯をストライプの入った漆黒のスーツで包み、整えられたオールバックを真白なボルサリーノハットが覆っている。肩に肌触りが滑らかそうなコートをかけ、首にストールをおろすその佇まいには、まるで裏社会を牛耳るボスのような貫禄がある。
さらにサングラスやピアスなどのアクセサリーや、葉巻を咥えることでさらにそれに拍車をかけていた。
名前は自分の表情筋が引き攣るのを感じた。この男への恐怖と冷や汗がどっ、とこみ上げてくる。

初対面の筈なのに何が彼を行動にはしらせたのか名前にはわからない。
値段の高そうなサングラス越しに見える、爛々と輝く空よりもずっと濃い蒼い瞳。子供のような無邪気さを孕んだそれを見て、名前はふと、笑みを零す。先程の引き攣ったそれとは一変した顔に男は目を丸くし、改めて名前をまじまじと見詰めた。

自分が初対面の女性に粗相をしている自覚はあるのだ。しかし、この女性はどうした事か。嫌な顔をすること無く、むしろふわりと花が綻ぶように笑ったのだ。

この瞬間、確かに男の心は彼女に奪われた。特に意味などない日課となっているナンパ行為で、まさかこのような出会いがあろうとは。恋に落ちるのに理由や時間なんて関係ない。男は何故名前を好きなのか?と問われても答える事が出来ないだろう。だが然し、空っぽと称される男は確かに断言出来るのだ。自分は出会って間もないこの女性が好きだと。愛しいと。生涯を共に過ごしたいと。
これは、運命だと。

一方、名前はどうこの場を乗り切ろうか、と明らかにカタギではない不審者に愛想笑いを浮かべながら考えていただけである。名前は自身の職業柄、人当たりの良い笑みを浮かべることに長けていた。

惚けて緩んだ男の手に、「しめた」と言わんばかりに名前はそれを振り払い、急いで踵を返す。


「あ、ま、待ってくれ、俺は怪しいものじゃない!」

それが名前とその男、松野カラ松との奇妙な出会いであった。



,,,,


昼を過ぎ、どこにでもあるようなカフェで名前は一人暇を潰していた。店員がコトリ、と机に置いたカップからは甘い香りが漂っている。右手にカップを持ち、香りを楽しんでいると突然視界の端にいつもと同じ白色が映りこんだ。
溜め息を吐きながらそちらに目をやると、名前の真向かいにある椅子に優雅に腰掛けるカラ松がいた。


「やあ、また会ったなアモーレ。どうやら俺達は運命の赤い糸で結ばれているようだな」
「……あの、やめてくれませんか、そういうの」


机に置かれた名前の左手の小指に向けて、カラ松はうっとりとした表情で自らの小指を近づける。それに名前は眉を顰め、カップを置いた。そしてその手でピースをし、鋏を模して指と指の間にある空想上の糸を断ち切る。名前はカラ松に対してそういった態度がとれるまでに慣れてしまっていた。「また会ったな」なんて白々しい台詞だろう。名前の行く先々にこの男は必ず現れるというのに。
苦虫を噛み潰したような顔をした名前。それを見ながら、それでもカラ松は意に介さないと言うように笑んだ。



「つれないな、名前ちゃん」

カラ松は肩を竦めて、胸ポケットから葉巻を取り出す。


「なあ、名前ちゃん。まだ俺のモノになる決心はついてないのか?」
「私は物じゃないです」


澄ました顔のカラ松は、葉巻を口から外し煙を吐き出した。ゆらり、ゆらりと漂う煙を眺める姿はまるで、名前の声など聞こえていない、とでもいうように。

こういったカラ松の一挙一動についムカついてしまうのは仕方のない事だろうし、都会とは言い難い場所にあるこのカフェにそぐわない格好も腹立たしい。
その小洒落たストライプのジャケットに唾を吐きつけてやりたい、と思ったが思うだけに留めておいた。人の服に唾を吐きかけるのは現実的に考えて如何なものか。ここは公共の場であるし、もしも弁償しろなんていわれたら、と考えると出来るはずもない。
この腹立たしい思いを少しでも紛らわさせようとグイッとカップを煽る。名前が飲もうとした瞬間にカラ松が来てしまったので飲めれず、実はずっと飲む機会を伺っていた。このカフェで人気のミルクティーだ。程よい甘みとしつこくない風味が人気の所以である。

名前とカラ松に通行人の好奇の視線が突き刺さる。それはそうだろう。ただの凡人と風変わりな男が一緒にいるのだから。この視線も何度目か。しかしながら、幸か不幸か今までこのような事が沢山あったが、通報されたことは一度もない。名前は今更ながらテラス席に座った事を後悔した。ここまできたらこの男はがやってくるであろう事は予測できただろうに。だが、日当たりの良いこの場所はとても魅力的だったのだ。
カラ松は葉巻の先端を灰皿に擦り潰し、フッと笑を浮かべた。

「ン〜?どうしたんだいガッティーナ、憂鬱そうな顔をして。……フッ。ほら、空を見てごらん。この美しく澄んだ空を……まるで俺達がこの広い星の元に出会えた奇跡、巡り会うデスティーノを祝福しているかのようだ」
「へえ」
「…、…」


ふ、と。名前は顔を上げた。

普段通り、意味のわからぬ事を言うカラ松が突然名前が聞き取れない程、ぼそぼそと何やら呟いたからである。いきなり寡黙になられて困る事はない、むしろ万々歳だ。
しかし、先程何やら呟いたであろうモノに違和感を感じたのだ。いつもならば、気にせず流している筈の違和感。だが、何故だかわからないが、このまま流してはいけないと脳に警鐘が鳴る。

どんな素っ気なくしてもいつも喧しい位に愛の言葉を囁き、鬱陶しい位に纒わり付いてくる男が一体どうしたというのか、気になっただけ。



「君は」


カラ松が灰皿に捨てた葉巻から、煙が燻る。うまく火種が消えなかったのだろうか。煙が邪魔で、名前からはカラ松の表情は上手く見えない。


「……いや、何でもない。気にしないでくれ」



名前は唖然とした。


「え?いやいや、何言ってるんですか。余計気になりますよ。さっき何て言ったんですか?」


カラ松は柔らかい笑みを浮かべて、灰皿の中の葉巻を手に取り先程よりも強く擦り潰した。強く、強く。もう二度と火が燻らないように。


「…………名前、愛してる」
「……カラ松さ、ん」


ドクン、

「……あれ?」


名前の耳にはやけに心臓の音が大きく聞こえた。どくん、どくんとクリアに聞こえる心音とは裏腹に、名前の意識は少しずつ微睡んでいく。


「ふふ、ようやく効いてきたみたいだな、これ」


先程の態度が一変して心底嬉しそうにしながらカラ松がこれ、と示す言葉にゆるゆると視線を合わせると、そこにあるのは一つの小瓶。その中でゆらりと揺れる青い液体が、きらきらと日を反射して輝いていた。
そこでようやく、名前は薬を使われたのだと理解する。いったいいつの間に盛ったというのだろうか。このまま睡魔に身を委ねてしまえば、名前はもう二度と今までの日常に戻ることが出来ないような気がして、口を開く。意味のない焦燥感が名前を襲った。


「いや、嫌だ、ねえ、カラ松、さ、ん」
「名前、好きだ、好き。大好き、愛してる。頼む、今は眠ってくれ」
「……ん」

「Buona notte buon sogno」


囁かれているのか、はたまた遠くから言っているのか。それすらもわからない意識を、嫌だ嫌だと思いながらついに名前は手放してしまった。



机に伏せる名前を優しい眼差しで眺めながらカラ松は、その将来に思いを馳せる。

アジトに連れ帰ったらこの愛しい女をどうしてくれようか。ベッドに押し倒そうかと思ったが、彼女の意志がない時に繋がっても意味がない。名前が目覚めてからにしよう。名前の目が覚めたらうんと可愛がってやるんだ。ああ、そうだ。兄や弟達にはいつかは名前を紹介しなければいけない。彼女が手を出されないようにしっかりと牽制しなければ。それからそれから、自分らが経営をしているカジノにも連れていってやりたいし、ゆくゆくは結婚も。
すぐにでもやりたいことは沢山思い浮かぶが、焦らずに時間はたっぷりあるのだから、とゆっくり消化することにした。


「……名前。君の望む物をなんだってあげよう。金も、地位や名誉だって、全て君のモノさ。」

カラ松は席から身を乗り出し、名前の耳に口を寄せ囁いた。いつか、名前と出会った日のような台詞を言う。


「だが、その分俺に尽くしてくれ」


あの時と違うのは、カラ松の声色が真剣さを孕んでいる事だろうか。名前の頬を伝う雫に気付き、ぺろりと舐めとる。

勘定を支払い、カラ松は名前を横抱きにしてカフェを後にする。いつの間にか暮れていた空を仰ぐと、キラキラと星が輝いていた。この美しい景色を是非名前にも見させてあげたいとカラ松は思う。もう二度と、名前には見ることの出来ないものだろうから。



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