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恭しく降りたリムジンを見送る時、名前はいつも眠らない都市の象徴のようなイルミネーションを見事に反射する黒塗りの高級感よりも、あの長い車体は後部を擦ったりしないのだろうかと、その方が気になってしまう。そこが辛うじて父の私物である高級車に興味の持てる部分だった。
贅沢な内装も名前には理解の及ばない趣味でかためられては、せっかくの座り心地の良いソファも文面通りの感想しか抱けない。きな臭い社会に生きる大人たちには必要な見栄なのだろうが、そこにお金をかけるならディナーのランクを上げて欲しいと年頃の女の子なりに思うところはあるのだ。

スモークの貼られた厚い防弾用の窓ガラス越しでしか拝んだことのないネオンは、間近に見るとさすがに目が眩む。剥き出しの電飾には正直、興が殺がれはしたが、それでも足元を彩るベロア生地の長い毛足に包まれる感覚は宙に浮いているようでちょっとした感動を覚えた。

今夜が名前のカジノデビューだった。

大袈裟なほどの装飾を施したエントランスを前に、名前はドレスの裾を何度も撫でつける。
ある種の大人入りを果たす日に父親と連れ立って扉を潜るのは些か格好のつかない門出となったかもしれない。
店内はフォーマルな装いに似つかわしくオレンジの照明に照らされている。上品で洗練された雰囲気の中、自分だけが浮いている気がして名前はつらりと視線を巡らせ、誰もこちらを気にするふうがないことを確認すると、ふっと息をついた。
御仁らは手元の命運を見届けるのにみな忙しく、名前のような小娘にかまけている暇はないらしい。
入り口に立つスタッフに大胆なスリットの入った背伸びをしたドレス姿を微笑ましく見送られると、ようやく肩の力が少し抜けた。そもそもは名前自らこの大仰な娯楽に興味を示したわけではないのだ。
家柄を思えばいずれは世話になるのだろう。その時期が遅いか早いかの違いでしかないのだが、やはり名前にはまだ気後れのするイベントであることに変わりはない。緊張で場の空気に呑まれ、水中のように篭ったざわめきが耳遠く聞こえる。

父について行くまま多様なゲームに目移りしていると、ショーステージへ指示を出していた男がこちらに気付き、早々に切り上げ親しげに父を歓迎した。名前とそう変わらないほど年若に見えるが、人を使うことに慣れている。上に立つ側の人間だと名前にも察しがついた。付け焼き刃程度に身に付けてきた知識によれば、カジノ資金が豊富な父はVIP待遇を受けているはずなのでその関係で交流があるのだろう。
簡単な社交辞令を経て娘であることを紹介され、淑女しかりと浅く膝を折って礼をした名前に男は小さめの口の端をきゅっと上げ、来店を感謝する口上とともに深々と頭を下げた。男はトド松と名乗った。
ピンクを基調とした強気な出で立ちとは裏腹に人好きのする笑顔だ。オールバックを緩く遊ばせた髪がふわりと揺れる。

可愛らしい、流行りのネイルだ、きっとピンク色がよく似合う。よく回る舌が名前を褒めそやし、果ては間接的に父親の称賛へと置き換わり、場慣れしていない名前に何なりと申し付けるようにと言葉を結ぶ。

トド松。名前はその名前を知っていた。カジノを取り仕切る六つ子の一人であると父に聞き及んでいる。彼らがマフィアを組織し、父の商談の相手であるとも。まさかこれほど若いとは寝耳に水の話だが、名前が連れられて来たのは早すぎることではないのだろうとこれ以上の不満を持つのは憚られた。
しかし父の仕事の一環であるという実感が持てないのも事実だった。名前はただゲームを楽しみなさいとのお達しではあるが、子細も知らずに同行することに意味はあるのだろうか。
それでも後学のために、と言われれば、名前に断る術はない。

この子は少々真面目すぎていけない、と自慢気に話す父を見上げ、名前は曖昧に笑んで返した。
商談の時間が差し迫っている。もとより商談中の同席は許しが出ていないのでこの場から見送ることになっているが、踵を返す去り際に思い出したように遊びすぎてはいけないよ、と残していく。名前は父親の背に向けてまた曖昧な笑みを浮かべるに留めた。

振り返ると、眉を上げて表情を崩したトド松が名前を見据えている。
何か言いたげに口を開いた彼にも同じ笑みを向けると、大きくつぶらな瞳の瞳孔を広げ、そして努めて口角を上げ笑みを返してきた。ごゆっくりと深々と頭を下げ、彼も仕事に戻っていく。それでいい。賢明な判断だ。

父親との些細なやりとりに感じたのだろう矛盾は、ビジネスパートナーには不要な情報なのだ。なにより、父にとっては無意識に交わす朝のおはようと大差ないほど意味のなさないもので、不穏な企みの合い言葉であるはずもない。ただの口癖だった。

優しく諫められるときも、穏やかに愛でられるときも、違わず向けられた言葉だ。幼い時分には名前もずいぶんと翻弄されたものだが、やがて肯定も否定もせず言葉のまま受け入れておくことを学んだ。

その根幹には遅い反抗期というものも潜んでいるのは確かであったが、ぽつねんとフロアに残された名前は言い付けのとおりに取り敢えずゲームの一通りに手をつけたのだった。

勝率はそこそこ、というところだ。その殆どがスロットなどでのビギナーズラックだったが、名前には勝ちが得られなくてもテーブルゲームのほうが性分に合っているようだった。カードが動く度に客の顔色が変わり、互いに読み合っているのを感じる。引きの運を超えて勝敗が左右されるゲームメイクに自分も携わっているのだと思うと高揚した。


壁際に据えられたソファに掛けて一息つくと、ようやく鮮明な雑音が鼓膜を刺激した。数時間かけて店内を歩き回り少しは馴染んできたかもしれないと背筋を伸ばしていたのに、いざ浮き世離れな空間から外れると妙に達観した気分になり緊張していたのが嘘のようだ。
軽やかな踏み心地で守られていた足は疲れを感じない。しかし不思議なもので体は存外に重くソファに沈み込み、途端に億劫になってその場から離れがたい。
気疲れが祟ったかしら。

残りの時間はここで怠惰に過ごすことにして、肺の空気を全て出し切るまで溜め息をつきシャンデリアを仰いだ。
それで、近付いてくる人物がいることに気付けなかった。

「御気分が優れませんか?」

はっと肩を揺らして組んでいた足を慌てて揃えた。どうせ気にかける者もいないだろうと気を抜いていたことを恥じた。
ここにいるのは賭けごとに目が眩んだ客が全てではないのだ。時には居ないものとして振る舞う彼らは、むしろ客をよく見ている。裾をはらい乱れを整える。

「ああ、えっと…トド松さん」

屈んだ拍子に垂れた前髪の一房を掻き上げて名前の手を取ったトド松は分かりやすく心配していると顔に書いてある。通りかかった黒服のスタッフを手の振りで呼び止め、上階へのエレベーターを顎でしゃくって示した。

「上に部屋、用意して」
「少し休んでいただけなの。あとは待つだけだし、ここでいい」

上、と聞いて思い当たるのはVIPフロアを置いて他にない。名前は慌ててトド松の手にもう片方の掌を重ね、離すように促し申し出を断った。じゅうぶん心地よいのだ、と。たちまち整えられた眉が下がり心苦しくはなるも、小金を持っているとは言え小娘が私用で好きにできるものではないと弁えているつもりなのだ。
なにより、よりプライベートに近い空間では交渉相手の娘という立場が強くなることが名前の憂慮を煽ってくる。向こう暫く分の心労を被った今日くらいは、カジノの上役と一般客の単純な関係のまま去りたいという名前の心情にそっと蓋をするようにトド松は緩めた手をもう一度握り返し、小首を傾げてみせた。

「お疲れのご息女を蔑ろにしたとあってはお父上に顔向けできませんから、ね」
「そう、ありがとう」

名前にはそう言うしかなかった。

通された個室には階下よりも落ち着いた色合いの装飾品が並び、一人で使うには持て余すほどの広さを有していた。名前に付き添ってトド松と、案内を務めた部下もひとり入室し、扉が閉まると外とは完全に隔絶される。

「お父上の手伝いは初めて?」
「手伝いだなんてそんな大それたことは。不肖者ですから」

人の目を離れると途端に大胆に距離を詰めてくる。これが本来の立場なのだ。
椅子を勧められ控えめに見渡し、目についた背の高いテーブルゲーム用の椅子に浅く腰掛けた。少しでも足もとをスマートに収めようとしていると、気にしなくていいのに、とトド松に笑われ頬がじわりと熱くなる。

「足、右を上にして組む人は常識的で慎重なんだって」
「俗説じゃないんですか」
「あれ、こういうの興味ない?ちなみにボクは逆。でもそっか、気にならないなら足も組むかもね」

トド松が自分の太ももを指で叩く。ホルスター、覗いてたよ。と目を眇められ、思わず右側のスリットを押さえた。

「まったく、幾ら握らせたんだか」
「これは、父に護身用だと」
「みんな気持ちが大きくなってんのにそんなの許してたら毎日血の海なんだけど。とにかく、没収ね」

拒むわけにもいかずに素直に頷き、トド松の手がホルスターを伝って内側に収めた自動式の拳銃に伸びるのを黙って見つめる。
防弾ガラスに守られる生活に慣れすぎて、拳銃を持つことに微塵の疑問も抱かなかった。マフィアの息がかかった所で大きな騒ぎを起こすリスクは必ず天秤に掛けられる。行動に移す者はそうそういないと少し考えれば分かるようなことを、父が失念しているとは思えなかった。
それだけ彼らが信用ならないのだろうか、それとも。

ひとしきり思考を巡らせたあと、名前の拳銃はまだホルスターに収まっている。スリットを掻い潜り侵入してくるはずのトド松の指先はそれ以上、いっこうに進む気配がない。

「…あの」
「いやその、そう。やっぱ自分でとって。そうして」
「私が。いいんですか?」
「いいから、早く」

血でも吐いたような喉の潰れた呼吸音をあげて飛び退ったトド松が掌を差し出す。
革手袋から覗いた手首に朱が差しているのを認めて、彼らには不名誉な噂のひとつに信憑性が増したことを名前は胸にしまっておいた。

名前の足もとが幾分か軽くなり、拳銃はマフィアの手に渡る。

「うん。素直で助かるよ。いい子だね名前ちゃん」

トド松の表情には余裕が戻り、慣れた手つきで弾倉を外し取り出したのは白く重量感のある包み。
弾倉の形に合わせて詰めこまれていたそれに身に覚えがなくとも、心臓を打った鼓動の刹那に無数の憶測が飛び交い淘汰され、名前の中に残った答えはひとつ。

「ビンゴっ。もう名前ちゃんてば、しっかり片棒担いでるくせに謙遜しちゃって」

自分は父に与えられた初めての仕事をしくじったのだということ。
然るべき相手に渡るはずだった包みは彼の懐へ隠され、変わりにぬるりと艶めいた光沢のあるものが姿を現す。回転式の弾倉を備えたリボルバー。
空気を呑んだ名前に、トド松はきゅっと口角を上げた。

「護身用だよ」

むやみに撃たないから安心してと余計に不安を煽る物言いでわざとほのめかしながら、その指先は常に撃鉄を撫でている。

意図がまったく読めない。焦らして名前の怯える様を愉しんでいるのか、本当に銃を取り上げるだけで、彼は見張り役を全うし帰されるのか。
命運の尽きるときかと胸の前で組んだ手はとりあえず早計で済まされたが、かといって解く気にもなれずいっそう力を込めた。

「手の組み方はボクと同じだね。右の親指が上」
「どんな、傾向があるんですか」
「興味ないんじゃなかったの?まあ多分ボクとか、名前ちゃんみたいな感じじゃないかな、知らないけど。ボクも興味ないから」
「…トド松さんから振ってきたんじゃないですか」
「だって暇なんだもん。兄さん早く終わんないかなあ」
「あの…」
「そうだ、名前ちゃんも下で退屈してたよね」

ふいに銃身が持ち上がる。銃口はしかし身を硬めた名前を通り過ぎ、トド松の慣れた手つきが滑らかに弾倉にかかる。一瞬の出来事で、ガチャリと銃身の鳴る音に肩をすくめた名前の目には追えなかった。気付けば彼の掌に六発の薬莢が無造作に散らばっている。

「ねえゲームしない?ちょっとした縛りプレイ」
「は、え…」

名前には是非もなく、握りしめていた手を緩りと解かれ、その右の甲に薬莢がひとつ。少しでも揺らせば途端に転がり落ちていきそうだ。明言されずともそれが大事に繋がるのだと、圧力を全身に感じる。
ペナルティを受けるのは名前だけ。トド松は優雅にカードを切っている。
物分かりが良くていい子だと、トド松の声色は明るい。

カードゲームであれば殆ど動くことなくプレイ出来る上、名前が腰掛けたのは僥倖にもバカラのテーブル。二択でよければ手もとに集中でき、VIPルームでは主流だという後ろ盾もあり主張しても不審ではないはずだ。
トド松に選べと促される。

「ゲーム…えっと、バカラとか」
「それでいいの?ホントに?ポーカーのほうがお気に召してたみたいだけど」

本当に、よく見ている。

「ボクが親ね」
「これでは私、手が使えませんよ」
「もう一人いるから平気」

笑んだトド松の後ろで、静かに待機していた黒服の部下が頭を下げた。なるほど、と諦め首肯する。用意周到に先回りしてくる手際の良さには敵うはずもなかった。
カードを吟味すれば手もとへの注意が疎かになる。配られたカードを部下の補助を受けて並べ直しながら、名前の呼吸は浅く緩慢になり一筋の汗が伝った。


「どう?利き手使えないだけでぜんぜん集中できないでしょ」
「知恵熱が出そうです」
「ところで、弾はあと五つあるんだけど、どこにしようか」
「鬼畜って…言われませんか」
「これでもホントに名前ちゃんのことは気に入ってるから、残念な結果にはしたくないんだ。ごめんね」

両手と、両足。トド松の独断によって決められた箇所に次々と弾を配置され、名前はとうとう少しの身じろぎも許されない。
なんて滑稽な姿だろう。これは彼の言う残念な結果には含まれないのだろうか。
名前に不利しかもたらさないゲームだ。勝敗と弾丸、どちらに重きを置いているかトド松は言及を避けたが、降りるメリットがどちらにも存在しなければ名前は結局運に任せて勝ちを祈ることしかできない。

「可愛いよ、いい子だね名前ちゃん」

窮地に立たされた身体の芯は燃えるほど熱いのに、冷や汗が滲み指先は氷のように冷え感覚から切り離されている。
トド松は今、どんな顔をして名前を見ているのか。呼吸の振動を伝えないことで精一杯の今は甘ったるく間延びした声だけが彼を知る術だった。実に様々なことを聞かされていることは理解できる。それは頭の中で無駄に反響して咀嚼するには至らずに、見えない彼の存在が濃縮していった。

二枚のカードを交換する。

「お父上はまだ泳がせとくつもりなんだ。それも名前ちゃん次第なんだけどね」

またひとつ、今度は胸元の飾りへ弾が置かれる。金属部が触れ合った甲高い音が強く反響する。先程から名前に選択させるような口振りをしながら、行き着く答えは決められているのだ。この弾丸は名前の心臓を狙い、そして同時に射抜いて離さない。

手札が開示される。呼吸が促迫した名前にはほとんどが霞んでいる。頭の中がどろりと蕩け、無意識にトド松のあくまでも優しい声色を探していた。
少しの沈黙の後トド松が身を乗り出し、六つ目の弾を唇に押し当てた。柔らかな口唇を割って押し入り、名前はそれを受け入れると自らの舌で絡め取った。

「ナイスキャッチ」

トド松の甘く機嫌の良い声が脳を掻き乱す。それは階下で幾度か耳にした、ディーラーから勝者へ贈る言葉だ。

足先から痺れが頭頂まで駆け上がり、小さく音を立てて弾が床を打っても咎める者はいなかった。舌の上で転がした金属から広がる血の味は、きっと彼らが死ぬほど浴びたもの。
名前の中の常識の全てが覆っても本物に辿り着くことは出来ないだろうが、紛い物でも寄り添うには十分だった。

トド松の携帯端末が震え、父の商談も無事に成立したとの報せが入る。名前次第だという択一の答えを、少なくとも間違わなかったのだ。ホルスターには自動式の拳銃を返され、名前は解放された。口内に薬莢を残したまま。
コロリと飴を楽しむように舌で玩ぶ。

迎えた父はいつものように名前を愛で、曖昧な笑みを返すに留める娘に疑問を抱くこともない。そして朝の何気ない挨拶のように繰り返す。
じわりじわりと無機質な金属が味わい深いもののように錯覚していく。

ああいけない、お父様。そんなに言い聞かせたら、わたし本当にいけない子になってしまうわ。

薬莢の中には、おそらく名前の得た答えが入っている。今日、背を向けて帰路につける代わりに差し出すべきもの。

入り口に佇む顔色の優れないスタッフと、トド松に見送られ初めてのカジノは刺激の連続ののちに幕を閉じた。

「またのお越しをお待ちしております………心より」

広がる血の味は甘みを増して、返事の折には名前がトド松を射抜く番だと胸が躍る。

可愛らしく狡猾に結ばれたその口に早くねじ込んであげたい。

次に訪れるときは、漆黒の長い高級車をもう少し誇れるだろうか。
まずは自分好みのリボルバーをねだるところから。



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