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どうにもやるせなくて意味もなく空しい時、私はよく家の近くの森に入る。
小さい頃はこの辺りの子供達みんなの遊び場だった森は、今では何かの建設予定地になってるらしくオレンジ色のフェンスにぐるりと囲まれている。私の記憶が正しければ数年前からずっとこうで、工事が始まりそうな気配はまだない。土地だけ手に入れて後は忘れ去られているのかもしれない。
だからか、今日みたく真夜中にこっそり忍び込んでも誰にもとがめられたことはない。
暗闇の中、私だけが知っている雑草だらけの道を月とペンライトの明かりを頼りに歩く。森の奥深くまで来れば、住宅街の明かりも見えない窪地に出る。ここに来るだけで私は少し慰められる。
この季節になると虫の声も聞こえない。木々がざわざわと揺れる音だけが耳に入るこの場所で、私は一人で儀式をする。
いつも腰かける大きな平たい石に座り、よく切れるナイフを取り出し、自分の手首に当てる。まっすぐ入った切れ目からすうっと赤い血がにじむ。そうすれば、痛みと共に何となくの安心感を覚える。
後はにじんだ血が一滴地面に落ちれば儀式は終わり。傷を綺麗なハンカチで押さえて家に帰る。
本気で死のうと思ってやっているわけじゃない。私生活でひどい目に遭ってるわけでもないし、重大な悩みがあるわけでもない。
ただどうしてか、これをすると心が落ち着くだけだ。空っぽの心が少し満たされるだけ。
多分私の頭はどこかおかしくなってるんだろう。そう思っていても尚、私はこの儀式をやめられない。
手首の赤い線をペンライトで照らして眺めていると、頭上から鳥のような翼の音がした。羽音からするととても大きい鳥みたいだ。それが私のいる窪地に向かって風を切って降りてきている。
血から目を離してのろのろと上を見上げる前に、空からの来客は私の前に降り立った。

「うわ、もったいない」

それは言葉を発した。
人だった。
翼の生えた人だ。まるで小説の世界から抜け出てきたような佇まいの男が、半分前髪で隠れた顔をこちらに向けている。
私は幻覚を見ているんだろうか。
しかし幻覚ではない証拠に、その男は私に近寄り血の流れる手首をそっと掴んだ。そしてひやりとするような冷たい舌で舐め上げた。手首から伝わるその温度に背筋がぞくりとする。そんなことをされてもまだ、私の頭は夢を見ているかのようにぼんやりしていて抵抗をしなかった。
男は丁寧に血を舐めとると、私の手を掴んだままハンカチを取り出して口元を拭いた。上品な人だ。そう思った。

「ごちそうさまでした」

そう言って私の手を離しハンカチをしまった男は、ぼーっとしている私を見て何を思ったのか眉をしかめた。

「何その反応」
「………何って言われても………」

現実じゃないような気がしてぼんやりしてただけ、と言ってもこの人は納得しないような気がして曖昧に言葉を濁した。第一この人、人間なんだろうか。黒い翼は広げられたままだ。

「普通悲鳴でも上げそうなもんだけど、君人間?」
「…そう」
「この状況に何も感じない?」
「……」
「空っぽだなぁ。通りであんまりおいしくないわけだ…」

おいしくない、とは私の血のことだろうか。空っぽな人間の血はどうやらおいしくないらしい。血の良し悪しが分かるこの男は血が主食なんだろうか。吸血鬼みたいだ。

「…吸血鬼…」
「え、今気付いたの?今まで何だと思ってたの」
「……よく分かんないけど、血が好きな変態」
「は?由緒正しい吸血鬼の血統と下劣な悪趣味を一緒にしないで」

少し苛立ったらしい男は、それでも表情を変えない私を見て何か諦めたようだった。はぁ、と息をついて髪をかき上げている。

「ま、つかの間の食事をさせてもらったことは感謝するけど…」
「…」
「それにしても都会の人間ってもったいないことするんだね。無駄に血を消費してどうしたいの?」
「…別に…」
「理由もなく?君頭大丈夫?」
「…大丈夫じゃない」
「自覚はしてるんだ」

変な人間もいたもんだ、と男は呟いた。

「君、感情はあるの?」
「多分…これするのは時々だから」
「その度に血を無駄にしてるってわけね…そうだ、無駄にするくらいなら僕にくれない?君の血」
「全部?」
「それでもいいけど、非常食としてね」
「非常食…」

面白い言い方をする、と他人事のように考えていると、男は聞いてもないのにここに来た経緯を喋り始めた。この街に来たばかりの彼は監視を頼まれていた兄弟が脱走し、探している途中で私の血の匂いに気付いて降りてきたということらしい。ふうんと相づちを打っていると男は大きな翼をばさりと広げた。

「君、毎晩ここに来なよ」
「…いいけど」
「非常食として役立ててあげる」

そう言って男は翼をはためかせた。風で私の髪が揺れる。前髪を押さえている間に彼の姿は空に舞い上がり、星空を遮っていた黒い影は瞬く間に消えた。
今の出来事は夢だったのだろうか。夢にしては現実味がありすぎた。男に舐められた手首を見ると血は止まってしまっていた。
その日は音のない夜空をしばらく眺めてから帰った。この儀式が初めて未遂に終わった日だった。

翌日、近くの図書館で吸血鬼の本を探した。昨日のことが夢だったにせよ、吸血鬼というものに少し興味が湧いたからだ。しかしあいにく街の一図書館には吸血鬼の専門書などなく、民話や物語しか見付からなかった。しかもそれらの本に描かれている吸血鬼の特徴は概ね日光とニンニク、銀が苦手であるということ、血を吸って永遠の命を得ているということだった。これぐらいなら私でも知っている。
真夜中になり、言われた通り窪地で例の吸血鬼を待っていると本当に彼はやってきた。私が掲げたランプの光の中へ昨日よりも翼の音を抑えて降り立った彼は、「こんばんは」と横柄な口調で言った。

「…こんばんは」
「はー疲れた。まだ?」

彼は首をくるりと回して私の手首を見ている。

「…今からするけど…」
「けど?」
「……私の血、あげる代わりに…私の質問に一つ答えてくれない?」
「交換条件ってわけ。いいよ別に。答えたくないのはパスでいい?」

頷くと「じゃ先にちょうだい」と言ってきた。手首にナイフを這わせると、肌が薄く切れていく感触がする。血が滲み始める前に彼が私の手首を持ち上げて、つうと舌を這わせた。血を摂取しているのに血が通っていないみたいに冷たい。ぞわりと鳥肌が立つ。
手首から口を離した彼はまたハンカチを出して口元を拭った。育ちがいいのかもしれない。

「ごちそうさまでした。で?」
「で…?」
「質問があるんじゃないの」

彼が隣に足を組んで座り、長い前髪が片目を隠して揺れる。
鈍い頭を働かせ、最初に何を聞こうか考えた。

「…一日の食事って、これだけ?」
「いや、他でもやってるよ。さすがにこれだけじゃ物足りないし。最初にも言ったけど君は非常食。おやつみたいなもんかな」
「そう……」
「相変わらず張り合いないなぁ。せっかくだからいくつでもいいよ、質問」

組んだ足に肘をついて私を見る彼の目は、だるそうに細められている。私と同じくらい投げやりそうな態度なのにまだ私に時間を割いてくれるのか。彼も大概変な吸血鬼だと思った。

「そんな時間あるの」
「今日は暇だから」
「…兄弟は見つかった?」
「昨日のうちに帰ってきたよ。世話の焼ける奴らばっかりでね」
「へえ…」
「ちなみに六つ子」
「そう…」
「これでも驚かないか。手強いな」
「……何か…まだ実感が…」
「ああ、都会じゃあんまり僕らの実在は信じられてないみたいだね」

そういうことではなく私の知覚が鈍っているだけなのだと思うけれど、彼は深く追及せず「他は?」と促してきた。

「……また明日、考える」
「あそう。それじゃまた明日」

さっとマントを翻して立ち上がった彼は闇の中に消えた。遥か頭上で微かに翼の音がする。私もその場に長居はせず家に帰った。何となく名残惜しさを感じながら。



奇妙な密会はそれからも続いた。
私が彼に血を与える代わりに、彼は私の質問に時間の許す限り答える。
最初はそういう交換条件だったはずが、いつしか普通の会話になっていった。私の方が最初に比べて積極的に話すようになったのだ。
彼と出会って興味を持った私は、どこか空洞のような自分の心が満たされているのを感じていた。普通の人が持つ趣味や楽しみ、私の場合は今までそれが例の儀式だったわけだけれど、吸血鬼への興味がそれに強く取って代わったのだと思う。
でも多分、彼が吸血鬼であってもなくてもいずれは充足していた。
彼と一緒にいるのは、楽しい。今までの人生の中で一番満たされている。そんな気がする。
そう言ったら、私の顔にはそんな素振りが全く出ていなかったのかひどく驚かれた。

「…確かに初めて会った時より口数は増えたよ」
「そうね」
「反応は相変わらず薄いけど」
「これは…多分、元々」
「だろうね。ああ、でも血はおいしくなったかな。微妙に」
「そうなの」

彼は私の隣に座り、いつものハンカチを膝の上で綺麗に折り畳んでいる。お気に入りだから毎日清潔に保って使っているということは出会って三日目に聞いた。

「そういえばあなたに血をあげてかなり経つけど、私は吸血鬼にならないの?」

両手首の痕の数を数えながら聞くと「それ気にするの遅くない?」と返ってくる。

「今気になったから…」
「君らしい」

彼がそっと笑う。
私らしいと言われるほどに彼との付き合いは長くなっていたのか。そう思うとまた少し、心が満たされる。

「吸血鬼になる仕組みね…説明してもいいか、君はハンターじゃないみたいだし」

彼は組んだ足を解いて近くの枝を拾った。

「まず君が吸血鬼にならないのは、僕が牙を立ててないからだよ。吸血鬼は基本、肌に直接牙を食い込ませて血をもらう。その時に相手を吸血鬼へと変えるものを体内に送り込んでると考えてくれていい」
「ふうん…私はいつも舐められてるだけだから」
「そういうこと。ちなみに僕らの意志でやってるわけじゃない。牙を立てるとどうしてもそうなっちゃうんだ。だけど、直接牙を立てても吸血鬼化しない場合がある」

彼は枝で地面に点を書き、そこから二つに枝分かれした線を引いた。

「今言ったように、普通に吸血鬼化するパターンと…」

一つ目の線の先に丸が描かれる。

「本人の体や意志の力が強く、人でありながら超人的な力を持つパターン」

二つ目の線の先に三角が描かれる。

「…そんなのがあるの」
「この例は極めてレアだよ。普通はみんな吸血鬼化する。そもそも僕らが血をもらう時には、相手に抵抗させない作用が働くんだ。これに抗えたのは数人しか見たことない」

彼の長い人生の中で数人だけ。印象深く残っているその人達を羨ましいと思った。
羨ましいなんて。こんなことを思うのはいつぶりだろう。
私のわずかな動揺には気付かず、彼は丸の下にまた二本の線を引いた。二本の線の下には二重丸と丸が一つずつ。

「吸血鬼化するパターンにも二つあってね、傀儡になる場合と自我が保たれる場合」
「くぐつ?」
「操り人形みたいなものかな。吸血鬼と血を吸われた者との間には強制的に主従関係ができる。眷属って言うんだけどね、これはどのパターンでも同じだけど…」

彼は枝で二重丸の方を指した。

「大抵は抵抗させない作用が強く働き過ぎて、本人の意思がなくなって人形状態になる」
「主人の言う通りにしか動けないってこと?」
「そう。で、こっちは…」

枝が丸の方に動いた。

「主従関係はあるものの、自分の意思で行動することができる」
「へえ…」
「ただこっちも相当抗う力が強くないと、いつかは自我を保てなくなる」
「…抗う力」

彼は枝を捨てた。もう用済みのようだ。

「そこまでの抵抗力を持つ人間はまずいないよ。吸血鬼に血を奪われたら人形になるだけ。君がそうなってないのは僕の気まぐれ」
「そうなの?」
「むやみに吸血鬼化させないっていう兄弟間の約束もあるし、強いて眷属にさせる必要も今はないしね。あと、君の血あんまりおいしくなかったからそんなに量はいらない」
「ふうん…じゃあ、ありがとうって言うべきなの」
「そうだね。光栄に思っててよ、吸血鬼の末裔と話せてさ」
「……でも、私の血がおいしくなったって言ってなかった?」
「スルーしたんじゃなかったのかよ。微妙にね、微妙に」
「血がおいしく感じるのは何でなのかな…」

一人言だったのだけど、彼は口を開いた。

「心身共に健康な人間は血もそれなりの味がするんだよ」

血の味なんて私には分からないけれど納得できる理由ではある。人間だって、病気の物よりも健康に育った作物の方がおいしく感じるはず。

「…でも私、生活スタイルは変えてないんだけど」
「夜更かしなんて毎晩してるしね」
「毎晩来てって言ったの、あなたの方…」

くっくっと彼が笑う。
彼もずいぶんと色々な表情を見せてくれるようになった。新しい表情を一つ見せてくれる度に、楽しいと思う。もっと彼を喜ばせてあげたい。

「他に、血がおいしくなる方法はないの?」
「そうだなぁ、昔から言われてるのは…」

思い出そうとしているのか、言葉は途切れた。私は彼の言葉を待ったけれど、それきりなぜか黙ってしまった。
音のない風が私達を撫でていく。

「…思い出せない?」

しびれを切らして口を挟むと、彼は「いや」と短く答えた。

「噂話みたいなものだし信憑性に欠ける」

そう呟き、私に何も言わせないかのようにすっと立ち上がった。そして振り返らずに窪地の真ん中へ歩いていく。

「あのさ」
「…ん?」
「もう毎晩来なくていいや」
「…え」
「気が向いたら来るよ」

じゃあ、という響きを残して彼は消えた。
唐突に突き放された気がして、しばらくその場に座り込んでいた。
手首の傷を眺める。私の血があまりおいしくないから、彼はここに来るのが面倒になってきたのではないか。
次はいつ来るんだろう。それまでに私の血を何とかしなければ。

それからネットで調べたり遠くの図書館に出向いたりして生活習慣を見直してみたものの、夜更かしをしている他は意外に普通の生活をできていたようで少し困ってしまった。夜更かしは絶対にやめられない。いつ彼が来るか分からないからだ。
それならば、と体ではなく心の方に目を向けた。心が健康になれば血はおいしくなるのではないだろうか。現に彼とよく話し、心を開くようになってから血の味は改善されているらしいのだから。
こうして昼間は健康に気を遣い、夜はあの秘密の場所で彼を待つという生活が新たに始まった。


そしてある晩、寒空の下に彼は再び現れた。



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