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私が都心に出てきたのは高校に進学する前だった。
私の実家は田舎で、物心つく頃から十年以上経つ今もそれほど風景は変わってはいない。田舎とはいえ高校も近くにあったけれど、私はどうしても都会に行きたかった。
祖父母を残して両親と都会の高校へ行く。引っ越し前、祖父母は私の勉強熱心さを褒めていた。自慢の孫だと言ってくれた。
けれど私の目的はそんなことではなかった。
小さい頃からただ一つだけ貫いてきた幼稚な夢に少しでも近付きたい。それだけで。



通い慣れた高校からの帰り道を、冷たい風になびくマフラーを巻き付けながら歩く。
春にはまだ遠い空は薄曇りで、雪が降りだしそうな空気だ。
近くの公園から飛ばされてきた枯れ葉が足元にまとわりついてまたどこかに去っていった。
向かいの小学校からまばらに帰っていく子供達。子供達が通ると必ず庭の生け垣から顔を出す犬。その家の曲がり角にある赤いポスト。
ポスト前の横断歩道を渡った先の交番。
もう後一ヶ月も経てば、この風景を毎日のように見ることもなくなってしまう。
でも私はこれからもきっとここに来るだろう。夢が潰えるその時まで。
手を挙げる小学生と一緒に白黒の道路を渡れば、窓ガラスの向こうに見慣れた背中が見える。
子供達が行ってしまった後で、そっと交番の戸を開けた。風が音を立てて戸の隙間に入っていく。

「こんにちは」

私が声をかける前に、その人が振り向いて帽子を少し押し上げた。

「杏里ちゃんか。お帰り」
「お疲れ様です、チョロ松さん」

私の父の従弟のチョロ松さんは、十年程前は六つ子兄弟揃ってニートだったのに、今では立派な警官だ。
ニートから警官になった経緯は今聞いても奇跡の連続だけれど、小さい頃から父に“六つ子の武勇伝”を聞かされてきた私にはありえない話じゃないと思える。そのぐらい、六人揃って不可能を可能にしてきた人達だ。

「いやー寒いねぇ。今日はどういう用かな?」

警官になってから元々の眼力がいっそう鋭くなったチョロ松さんだけど、私を見る目はいつも優しい。
チョロ松さんが空いている机の椅子を引いてくれたので、綺麗に足を揃え大人びて見えるように座った。

「おばさんから頼まれて、お弁当箱を回収してきてほしいって」
「ああ、明日の町内会の遠足だな。でも今夜家に寄るって言ったのに」
「なるべく早めに準備しときたいって言ってました」
「だからって杏里ちゃんを使い走りにすんなよな…ごめんね杏里ちゃん」
「いいんです。帰り道だし、私はチョロ松さんに会いたかったから」
「ありがとう。この歳になるとなかなか女の子からそんなこと言ってもらえないからねぇ、嬉しいな」

頬杖をついて、こっちを見てさらりと笑うチョロ松さんはすごく大人だ。あの頃よりも女慣れしてて質が悪い、と言ったのはおそ松さんだったか。

「じゃあ、こういうのもなかなかですか?」
「何?」

鞄を膝の上に乗せて、淡い緑の小箱を取り出す。濃紺の細いリボンには金色のハートのチャームがついている。
それを机の上で滑らせて、チョロ松さんの前に置いた。

「今日、バレンタインなので」
「ああ!そうだっけ。これ僕に?」
「はい」
「うわ嬉しいなー。ありがとう。今回も手作り?」
「そうです」
「杏里ちゃんは昔からお菓子作り得意だったよね。楽しみだな」

両手で箱を持って目を細める姿に、私の心も温かくなる。
チョロ松さんは箱の表面を親指で軽く撫でながら、「この後あいつらにも渡しに行くの?」と言った。

「……いえ、今年は、チョロ松さんだけです」

淡い期待を込めた言葉は、「あ、そうなの?」という少し意外そうなだけの台詞でかき消えた。

「じゃあ今日はあいつらに自慢しまくってやろ」
「そんな大したものじゃないですけど」
「そんなことないよ。僕は杏里ちゃんの作るお菓子好きだな」
「…なら、良かったです」
「そうだ、杏里ちゃん覚えてるかなぁ。まだ杏里ちゃんが小学校に入ったばっかりの頃、うちに来て僕達に飴くれたことあったよね」
「ありましたね」
「あの時僕だけチョコ味だったってことに後で気付いたあいつらがいい歳して文句言ってきて、ほんっとこいつらバカだなって」

くっくっと笑うチョロ松さんは、その後の出来事を覚えているんだろうか。
当時六歳だった私がチョロ松さんに結婚を迫ったことを。
あの時チョロ松さんは、杏里ちゃんが結婚できる歳になるまで僕のことを好きでいてくれたら、と言ってくれた。
今なら分かる。小学生に結婚を迫られたいい大人なら言わざるをえない台詞だ。
大人になるまでにそんなこと忘れてしまっているだろう、自分よりもいい相手を見つけるだろうという一般的な予測をするのも間違いじゃない。
けれど、私はずっと忘れなかった。
ある程度歳を取ってからは、あれはチョロ松さんの優しい言い訳だったことにも気が付いていた。それでも諦められなくて、進学と同時に都会へ来て。
チョロ松さんがトト子さんと付き合っていたことを知ったのは、入学した後だった。
トト子さんは昔からチョロ松さん達のアイドルで、実際とても可愛らしい人で、初めて会った時は打ちのめされたのを覚えている。
トト子さんは相手にしていないようだったから安心していた部分も少なからずあったのに、チョロ松さんは私の知らないところで初恋を叶えていた。
結婚ではないのだから約束を反故にされたことにはならないのだけど、この事実は相当私を落ち込ませた。
ただ、その恋はすぐに終わったらしい。
理由は知らないし聞けなかったけれど、トト子さんはその後おそ松さん達とも一回ずつお付き合いをしていたと聞いた。
正直ほっとしたのが半分、チョロ松さんの心を思うと罪悪感が半分。そんな微妙な心情のまま、私は今日まで決定的なことを言い出せずにきている。

「なら、やっぱりおそ松さん達にも作ってくれば良かったですね。チョロ松さんが文句言われないように」

そうやってうわべだけを取り繕う術は、この人の前で上手になっていった。

「いやいいよいいよ。あいつらも何だかんだ言って会社の人とかからもらってるんだからさ」
「皆さんモテてるんですね」
「そうなのかなぁ。義理だって言うんだけどね、みんな」

私のも義理だと思われているんだろうか。
どういう意味のチョコなのかなんて聞かれたことはない。つまり、その程度の興味なんだろう。

「あ、ホワイトデーは期待してていいよ」
「そんな…」
「楽しみにしてるんだよ、杏里ちゃんへのお返し考えるのも」

思わず目をそらしてしまった。
おそ松さんの言う通り、質が悪くなったと思う。昔はすぐ顔真っ赤にしてたくせに。

「あと大学の合格祝いもまだだったよね」
「それこそいいです、もうおじさんとおばさんから頂きましたし」
「僕が個人的にあげたいの。僕は大学行けなかったし、杏里ちゃんは自慢の…えっと…従兄弟の娘って何て言うんだっけ」
「従姪です」
「よく知ってるね。賢いな杏里ちゃんは」

従姪と従兄弟叔父は結婚できるということも、小学生の時から知っている。いつか無駄になってしまうかもしれない知識。
会話が途切れたタイミングで、それじゃあと席を立った。
お弁当箱を受け取り見送られながら交番を出ると、再び風が迎えてくれる。今まで持っていた熱を根こそぎ奪っていくような。
マフラーをしっかり巻き付けながら松野家に向かい、おばさんにお弁当箱を渡せば、チョロ松さんとの繋がりがすっかりなくなったような気がしてしまう。
センチメンタルな気分になるのは天気のせいもあるのかもしれない。
雪に気を付けて、とおばさんに言われて見上げると、雲がいっそう分厚くなってきていた。
松野家と私の家はそう近くはない。その間に降ってきてもおかしくはない。
早足で松野家を後にした私は、本屋の前である人に呼び止められた。

「杏里ちゃんじゃない?久しぶり!」

およそ半年ぶりに会うトト子さんだった。
飾らない笑顔のトト子さんは何年経っても綺麗で可愛らしい。見るたびに私はアイドルになれない人種だと思い知らされる。

「お久しぶりです」
「聞いたわ、大学合格したのよね?おめでとう!」
「ありがとうございます」
「あら、髪乱れちゃってる」

細いしなやかな指で前髪を撫で付けてくれるトト子さん。この指もチョロ松さんを魅了したものの一つだと思うと、とても羨ましい。

「ありがとうございます。今日は風が強いですね」
「そうよねぇ、やんなっちゃうわ。早く春になったらいいのに」

眉をひそめたトト子さんの表情は、本屋から出てきた男性を見て春のごとく華やいだ。

「お待たせ、トト子」
「ううん、そんなに待ってないわ」

誰だろう、知らない人だ。
そんな私の考えを読み取ったのか、トト子さんが「紹介するわね」と私に向き直る。

「彼氏なの。というか、婚約者」
「え…」
「今年入籍するのよ。結婚式は親族だけなんだけど、披露宴もする予定だから杏里ちゃんにも来てほしいわ。招待状出すから」
「そ、れは…おめでとうございます。ぜひ出席させてくださいね」
「うふふ、ありがと。それじゃあね」

トト子さんの婚約者も私に一礼をして、二人は仲良く腕を組んで行ってしまった。
私が考えていたのは、チョロ松さんのことだった。