今の会社で働き始めてから二年が経った頃、新入社員が入ってきた。
名前は松野チョロ松さん。
今まで定職に就いたことがないらしく、最初はかなり緊張していた。
でも、人当たりが良くて、いつも一生懸命で真面目に働いている松野さんの評判は決して悪くなかった。
私も気が付けば松野さんを目で追って、頑張れと心の中で応援するようになった。
社会人としては松野さんの方が後輩だけど、時々見せるどこか憂いを帯びた表情は大人っぽい。
だからだと思う。仕事上のやり取りも数えるほどしか交わしたことがないのに、だんだん気になる存在になっていったのは。
聞いたことはないけど、年上なのかな。何かに悩んでたりするのかな。
松野さんは私のことをよく知らないだろうけど、私は松野さんのことをもっと知りたい。
たぶんこれが、恋してるって状態なのかもしれない。
同じフロアで仕事をしているのになかなか話しかけることができずにいたある日、お昼休みなのに一人机に向かっている松野さんを見つけた。
ご飯を食べてるって感じじゃなく、何かを書いているみたい。まだ仕事してるのかな。
「松野さん」
思いきって声をかけてみた。仕事の用事以外で声をかけるのは初めてで、少し緊張した。
「えっ、小山さん…!?」
予想以上に驚いた顔の松野さん。
私もびっくりしていた。名前、知っててくれたんだ。
気にも留められてないと思ってた。ちょっと嬉しい。
「あの、今お仕事中でした?」
「い、いや、何でもないよ。それよりどうしたの?」
「お昼まだなら、ご一緒しませんか」
勇気を出して誘ってみたら、口をぽかんと開けて呆気に取られているようだった。
そんなに変なこと言ったかな…
「あの…松野さん?」
「はっ!あ…お昼?まだ、だけど…でもいいの?他に一緒に食べる人とかいるんじゃ…」
「いえ、今日は一人です」
「そ…そうなんだ…」
「ご迷惑でしたら、別に…」
「いや!いやいや!そんなことないよ…ちょっ、ちょっと待ってて」
松野さんは書き物をしていたらしい何かを引き出しにしまって、代わりに財布を取り出した。
「小山さんはお弁当なの?」
「はい。松野さんは食堂ですか?」
「うん、いつも食堂かコンビニだな。外回りの時は外食ばっかりになっちゃうから、食堂で食べるのは久しぶりかも」
そう言って歩き出した。私も隣を歩く。こんなに近くにいるの、初めて。
「今日は珍しくデスクワークなんですね」
「うん。久しぶりすぎて会社来た時一瞬自分の机がどこか忘れちゃって…って、どうでもいいよねこんな話」
照れ笑いする松野さんに胸をドキドキさせながら、「そんなことないです」と返事をした。
お昼休みも半分過ぎたからか、食堂はそれほど混雑していなかった。
「私、席取っておきます。松野さん行ってきてください」
「いいの?ありがとう。すぐ帰ってくるね」
周りにあまり人のいない、端の方の席に座った。
私がいつも選んでいるような場所だけど、松野さんはここで良かったかな。
言った通り、松野さんはすぐに帰ってきた。
「お帰りなさい。席、ここで良かったですか?」
「うん、大丈夫。静かで落ち着くね」
そう言いながら、また表情に陰が出来るのを私は見た。本人はそれに気付いてるんだろうか。今、何を思ったんだろう。
でも、そんなことをずけずけとは聞けない。
気になりつつも、お弁当の包みをほどいて開けた。昨日の残り物と、今朝作った卵焼きと、冷凍食品。
「わあ、それ自分で作ったの?」
「!は、はい。冷凍食品もありますけど…」
「へえー!すごいなぁ、女子力高いね」
「松野さんはお弁当作られたりとかは…」
「男の一人暮らしだからなかなかね…」
そう言って割り箸を割る。
松野さんの前には焼き魚の定食。ちゃんと栄養バランスは考えてそうな食事だな。
「彼女さんに作ってもらったりはしないんですか?」
「あー…いや、僕彼女いないから…」
「そうなんですか」
ちょっと嬉しい情報だ。
「小山さんは?彼氏いそうだけど」
「いえ、私も今は…」
「今は、ってことは、彼氏いたことはあるんだね」
「高校二年の時にですけど、卒業してすぐ別れちゃいました」
「小山さんぐらいの人を逃しちゃうなんて、何だかもったいないね」
思いもよらない褒められ方にドキッとして、箸が止まった。
松野さんは平然としていたけど、私の視線に気付いて慌て出した。
「ご、ごめん、失礼な言い方だったかな…」
「…いえ、ありがとうございます」
松野さんは私にいい印象を持ってくれていたらしい。それが嬉しくて自然と笑顔になった。
そんな私を見て、松野さんもほっとしたようだった。
そこから少しずつ打ち解けて、お昼休みが終わる頃にはスムーズに談笑できるぐらいになった。私にとって大きな一歩だ。
午後から松野さんはまた外回りらしく、私のデスクを通り過ぎる時に片手を上げてくれた。私が目で追いかけていたのに気付いたからかもしれないけど。
おかげで一日ご機嫌だった。
その日から、松野さんがお昼時に会社にいる日は二人で昼食を取るのが当たり前になっていった。
松野さんは入社する前にいくつかのバイトは経験したことがあるらしく、その話をしてくれた。
松野さんは六つ子の三男なのだということも初めて知った。松野さんと同じ顔の人があと五人。想像するのが難しかった。
兄弟の話をする時の松野さんは、一番表情の変化が著しかった。
やたらとどうでもいいことで喧嘩をしたり団結したりしたよ、なんて話す松野さんは生き生きしていて、同時に寂しそうで。
時々見せる憂いの表情の意味が分かった気がした。
でも、そんな感情を決して口には出さなかった。
それが私には何となく寂しく感じられた。松野さんにとって私はただの仕事の一仲間なんだろうな。
私が松野さんの支えになれたらいいのに、なんて思うことが一度や二度じゃなくなってきた。
もうこの恋心は、引き返せないところまで来ている。
松野さんに女性の影がないのをいいことに、私は松野さんに積極的に話しかけた。
決定的なアプローチはできないけど、せめて特に仲のいい女友達ぐらいにはなりたくて。
化粧も少し変わった。
前に松野さんに自分の歳を言ったら、「最初は学生に見えたんだ、そんなわけないのにね」と言われたからだ。
松野さんに他意はないだろうけど、それはつまり、松野さんには幼く見えてたってことだ。
そこで普段読まないファッション誌を読んで、大人っぽいメイクを取り入れようとした。結局、劇的に変わる勇気はなくて、薄く口紅を乗せる程度に終わったけど。
それでも、松野さんの私に対する態度は変わらなかった。
私みたいな子はタイプじゃないのかな、なんて思いながら、恋心を捨てる気にはなれなかった。
そんなある日、仕事で珍しくミスをした。
幸い大事には至らないミスで誰にも咎められることはなかったけれど、その日はどうしてかとても堪えて、落ち込みながら会社を出た。
すると、ちょうど会社に帰ってきた松野さんと鉢合わせした。
「あれ、小山さん今帰り?」
「はい、お疲れ様です…松野さんは?」
「僕は忘れ物を取りに来ただけ。…どうしたの?」
「え」
顔に出てしまってたんだろうか。見破られると思ってなかったので動揺してしまった。
私の様子を見た松野さんは、「ごめん、あまり聞かれたくないことだった?」と気遣わしげに尋ねてくれた。
「いえ、大したことじゃないんですけど、今日仕事でミスをしてしまって」
「そっか……あの、小山さん、良かったら一緒に帰らない?」
願ってもない話だ。もちろん頷いた。
松野さんが戻ってくるのを待っている間に憂鬱な気分はどこかへ行ってしまった。
「お待たせ、小山さん」
「いいえ」
「この後、何か用事ある?」
「いえ、何も」
「じゃあちょっと歩かない?」
「は…はい…!」
少し、期待しちゃう。
何でもない話をしながら、二人でイルミネーション通りを歩く。
流れでご飯を食べに行くことになって、小綺麗な居酒屋に入った。
松野さんはお酒に弱いらしい。あまり飲まなかったので私も付き合い程度に飲んだ。
また他愛もない話を重ねて店を出た頃、松野さんが「元気になったかな?」と聞いてきた。
私を慰めるために一緒にいてくれたんだ、と思うと、さほど酔ってもいない体が熱くなってくる。
「ありがとうございます。実は松野さんに出会った辺りでもうほとんど立ち直ってました」
「え…そうなの?あはは…僕は蛇足だったみたいだね」
「えっ、あ、そういう意味ではなくて…!ま、松野さんに会えたので、それで元気をもらえたというか」
しどろもどろになってしまった。スマートにアプローチできないのも、私が子供っぽいからかな…
松野さんが「そっか、良かった」って安心したように笑ってくれたからいいんだけど、でも……やっぱりちょっと落ち込むな。
もっと大人っぽくなりたい。居酒屋でこっそり塗り直してきた口紅も、あまり役に立っていない気がしてきた。
「小山さん、まだ時間ある?」
松野さんの言葉にはっとした。
まだ一緒にいてもらえる?
「はい。明日は休みですし…」
「小山さんに見せたいものがあるんだ。って言っても大したものじゃないんだけど」
「何ですか?」
「ちょっと待ってて」
松野さんはちょうど近くにあった雑貨店に入っていって、何かを買って戻ってきた。
「花火…?」
「うん、ちょっと時期外れだけど」
「この時期でも花火って売ってるんですね」
「ここの雑貨屋は一年中売ってるよ。そこの公園入ろう」
松野さんと一緒に誰もいない公園に入った。花火はやっても大丈夫。一応公園内の看板で確認する。
水道の側で、松野さんが花火パックの封を開けた。
「小山さん、どれがいい?」
「えと…じゃあこの線香花火を」
一本を手に取ると、花火パックを地面に置いた松野さんが「今から小山さんに手品を見せてあげる」と言った。
「それは今封を切ったばかりの市販の花火。だよね?」
「はい。どこにでもありそうですね」
「次に僕の手を調べてみて」
両手を差し出されてどぎまぎしながら、「失礼します」と触った。細くて節張っている松野さんの指と、私のより大きい手のひら。
少し欲を出して長めに調べた。
「何もないですね」
「それじゃ、花火を持ってて」
普通に線香花火を持つと、松野さんの片手が花火の先に触れた。
その瞬間、何もないのに赤い火がついた。
「わ…!」
火はどんどん花火を蝕んで、やがてぱちぱちと小さい光を散らした。
「す、すごい!どうやったんですか!?何もなかったのに火が…!」
「あはは、そんなにびっくりしてくれるとやり甲斐があるなぁ」
松野さんが照れたように言う。
「最近身に付けたんだ。これ営業先でもウケがいいんだよ」
「すごい…!」
しゃがんで花火に見とれていたら、松野さんもすぐ側に座って花火を眺めだした。
こういういいムードの時に、何も台詞が思い浮かばないなんて…
内心焦っていると、松野さんが突然「僕にはこういうことしかできないからね」と呟いた。
「僕、あんまり取り柄がないからさ…でも、これで小山さんが元気になってくれたら嬉しいな」
さっきまた落ち込んだの、バレてたんだ。
「…取り柄がないなんてことないですよ。私が落ち込んでることに気付いて励まそうとしてくれたじゃないですか。そういう優しいところ、松野さんの取り柄だと思います。誰にも真似できないぐらいの」
線香花火の火が落ちて我に返った。私、今結構恥ずかしいこと言ったかも…
松野さんが線香花火を一本取り出して私に渡してくれた。また花火の先に火がつけられる。
「ありがとう、小山さん」
優しい顔で火花を見つめる松野さんに胸が締め付けられる思いだった。
けど何も言えずに、火はやがて落ちてしまった。
花火の一件があってから、松野さんとの距離は少し縮まった。
最近外食も食堂のご飯も飽きてきちゃって、と何気なく言った松野さんに「お弁当作りましょうか?」と強気に出たのはつい昨日。
松野さんはありがとう、楽しみだなと言ってくれた。私に比べて全然気負っていないような口調で。
やっぱり意識してるのは私だけなのかな。
なんて思いながらもお弁当を任されたのが嬉しくて、大きめのお弁当箱を買った。
朝、いくつかのおかずを作りながら、張り切っていることがバレないように控えめな盛り付けをする。美味しいって思ってくれるといいんだけど。
お昼は会社で、と聞いていたから、お昼休みになってから手渡した。
松野さんは「ほんとに作ってきてくれたんだ」って嬉しそうにしてくれた。
「美味しいよ!小山さんすごいなぁ、本当にありがとう」
「どういたしまして。お口に合うようで良かったです」
「うん、なんか懐かしい感じがする。家庭料理って感じ」
そう言う松野さんは、何かを思い出すような目をしていた。
きっとまた、ご兄弟のことを考えているんだと思う。
「…また、作ってきましょうか」
「いいの?嬉しいな」
「じゃあ、お弁当箱を…」
「あ、僕明日は午後から会社に戻ってくるから…だからこれ、洗って明日持ってくるよ」
「別にいいのに…」
「これぐらいさせて。じゃないと僕、すぐ甘えちゃうからさ」
それじゃあまた明日、と言った松野さんはやっぱりどこか寂しそうだった。
まだ私は松野さんにとって甘えてもいい存在じゃないんだな。少しがっかりしながら私も「分かりました」と返した。
でも翌日、松野さんは会社に来なかった。
上司に尋ねると、昨日辞表を出したと言う。
そんな、どうして。
昨日はそんな素振りなんてなかったのに。
未だに信じられない私の耳に、「センバツだから仕方ないな」と上司と先輩が話しているのが聞こえた。
センバツって何だろう。選抜、だとしたら何の選抜なんだろう。
もしかしたら私の知らない大きな病気だったりして。
一人暮らしをしていた会社の寮も、すぐに出払ってしまったらしい。
松野さんのことが心配になった私は、上司に松野さんの実家の住所を聞いて休みの日に訪ねてみることにした。
私に何も話してくれなかったということは、松野さんにとって私はそこまで大事な人間ってわけじゃなかったのかもしれない。でも…
何か一言、松野さんに別れの言葉を言ってもらえたら、心の整理もつく気がする。ご迷惑になるようならすぐに帰ろう。
休日、いつもしていたものより少し濃い色の口紅を塗った。一人で家に向かうのは緊張するから、自分を奮い立たせる意味も込めて。
そして、『松野』という表札の前まで来た。
「…ごめんください」
がらり、と昔ながらの引き戸を開けると、階段を下りてくる音がして「はいはい」と人が出てきた。
「あ…!」
松野さんだ。
でもちょっと雰囲気が違う気もする。私の知ってる松野さんとは口元が違うような…
「えーと…どちら様?」
やっぱり、この人は松野さんのご兄弟なんだ。あ、この人も松野さんだけど。
「私、松野チョロ松さんの元同僚の者なんですが、チョロ松さんはこちらにいらっしゃいますか?」
尋ねると、その人はしばらく私の顔をぽかんと見つめていたけど、急にはっとした顔つきになって階段を駆け上がっていった。
「え、あれ…」
取り残されてまごまごしていると、二階から声が聞こえてきた。
「おいチョロ松!すっげー可愛い子来てんだけどあれ何!?お前の彼女!?」
「うっそあのチョロ松兄さんに彼女!?」
「あのって何だおい!」
「お前会社でシコってただけじゃねーんだな!あーあ俺も働きゃ良かったわ〜」
「いや普通に働いてたわ!で何?誰か来てんの?」
「うん、なんか元同僚とかいう子が」
「は?…あ!!」
頭上でどたどたと音がして、階段を転げるように下りてくる。
私の目の前に現れたのは、まごうことなきチョロ松さんだった。
良かった、元気そう。病気ではなかったみたい。
「松野さん!お久しぶりです。小山です」
「っ…小山、さん…どうしてここに…!」
「あの…お邪魔しちゃご迷惑でしたか?」
「いっ…いやいや!全然!ただあの、わざわざこんなとこ来てもらうほどでもなかったっていうかその…ってかさっきの会話聞いてた…?」
「え、あ、はい」
「あいつらの言うこと全部忘れてくれていいから!ああっ小山さん…君はこんなハイエナの住み処になんか来るべき人間じゃないんだ…!」
「だ、大丈夫ですか…?」
会社にいた時と雰囲気が違うな、なんて思いながら頭を抱えだしたチョロ松さんに近付いたら、横からもう一つ同じ顔が現れた。
「わっ」
「あ、ごめん、びっくりさせちゃったね。僕松野トド松。末っ子なんだっ。よろしく!」
「は、初めまして、小山杏里と申します」
頭を下げるとそのまた横から薔薇が差し出された。きりっとしてるけど同じ顔。
「フッ…ここで出会ったのもそう、何かのディスティ「邪魔だクソ松」あーっ!」
薔薇を受け取る前にその人は蹴られて倒れてしまった。
蹴った方を見るとこれも同じ顔。ちょっと眠そうな目をしてる。すぐに目をそらされてしまった。
「ねーねー、チョロ松兄さんの彼女なの?」
「えっ」
黄色のひらひらしたものが視界に入った。パーカーの袖だ。そしてまた同じ顔。
「えっと、私は…」
「チョロ松の元同僚なんだって。よろしくー、俺長男のおそ松でーす」
一番最初に会った人が片手を差し出してきた。
「あ、よろしくお願いします…」
握手をしようとしたら、チョロ松さんがおそ松さんの手をはたき落とした。
「いって!何すんだよチョロ松!」
「てめぇ汚い手で小山さんに触ろうとすんじゃねーよ!」
「はぁっ!?ね小山さん今の聞いた?こいつ実の兄のこと汚いとか言ったよ?」
「汚いだろうが!さっきポテチ鷲掴みにして食ってただろ!」
「ねー杏里ちゃんはさぁ、チョロシコスキー兄さんに何の用事?」
「その呼び名封印しろ!よりにもよって小山さんの前で言うんじゃねーよ!つか馴れ馴れしいんだよ!!」
「うるさいチョロ松兄さん…」
「うるさーい!」
「お前らなぁ…!」
怒り顔で肩を震わせていたチョロ松さんが、突然私の手を取って玄関の外に出た。
「えっ、あの」
「おいチョロ松!どこ行くんだよ!」
チョロ松さんは無言で引き戸を閉めて、側にあった木の枝をつっかい棒にした。
中でご兄弟がわーわー言っているのを完全に無視して、チョロ松さんは私の手を引いて歩き始めた。
「あの…松野さん、お元気そうで良かったです」
はっとした顔で振り向いたチョロ松さんは、すぐにばつの悪そうな顔になった。
「…ごめん、本当…あんな僕を見せるつもりじゃなかったんだけど…てか引いたよね?会社にいた時と雰囲気全然違うなって、自分でも分かってんだけど…」
「でも楽しそうでした、松野さん。あれが本当の松野さんなんだなって思いました」
たくさんの兄弟に囲まれている時は、寂しい顔なんか見せなかったから。たぶんあの場所が一番、松野さんに合ってるんじゃないかな。
そう思って松野さんを見ると、「あいつらの中にいるとツッコミやらないと大変なんだよ」と言いながら苦笑していた。
「…あ!そうだ、お弁当箱!ごめんね、僕慌てて会社辞めてきたからすっかり忘れてて、伝言もしないで…」
「いえ、いいんです。良かったらもらってください。松野さんのために買ったので」
「へ……あ、ありがとう…」
顔の赤い松野さんなんて、見るの初めて。私も少し照れてしまった。
「あ、ところで、何で会社辞められたんですか?」
「ああ、僕達センバツに選ばれたんだ。だからそれに向けて練習とかしなきゃいけなくて」
「あの…センバツとは?」
「えーとね、何て言うかな…予選通過の手紙があれば見せてあげられたんだけど燃やしちゃったし…とにかく大きくて名誉ある大会なんだ」
「そうなんですか、そんなに重要な大会があるんですね」
オリンピックみたいなものかな?
「でもとにかく本当に良かったです。また松野さんに会えて」
しみじみ言うと、松野さんは「僕もだよ」と言ってくれた。
「なんか小山さん、今日はいつにもまして大人っぽいからちょっとドキドキしちゃって…あれだよね?リップの色変えた?」
「えっ、どうして分かったんですか?」
「だっていつも見てた色と違う…」
言いかけた松野さんの顔が、またかあっと赤く染まった。
「あっ、いや!その、そんなにいつも見てたわけじゃないよ!決してストーカーとかそういうあれじゃないから!ただいつも気になって…って違う!」
松野さんは一生懸命弁解してたけど、気付いてもらってないと思っていた自分の変化に気付いてくれていたのはすごく嬉しい。
それが松野さんなら、なおさら。
「…私、松野さんの前でしか、口紅したことないんです。だから、見ててくださって嬉しいです」
思い切ってそう告げた。
「え、それって…」
「………」
「あ……あの…そ、そういう意味に取っても…いい、のかな」
「………」
松野さんに負けず劣らず赤いだろう顔で頷いた。
「……えっと…すごく嬉しいけど、僕無職になっちゃったし、小山さんが僕なんかと付き合うメリット、ないと思うんだ…」
もっと小山さんにはいい人が、なんて言うから、思い切り頭を振った。
「私が落ち込んでるとか、口紅の色変えたとか、そういうことに気付いてくれただけで私にとっては充分なんです」
最後の押しでじっと松野さんを見つめる。
「あと、松野さんと一緒に見た花火も忘れられなくて」
「………僕も」
それが答えみたいなものだった。
目が合って、どちらからともなく笑った。
「また花火やりましょう」
「そうだね」
「あの手品もまた見せてください」
「いつでもいいよ、ほら」
松野さんがポケットから取り出した紙が、一人でに燃え出した。
「あ、これ名刺だった…まあいっか」
「何回見てもすごいです。綺麗に火がつきますね」
「小山さんの方が綺麗だけどね」
松野さんはあっさりそんなことを言って、私の赤い顔に気付いてまた赤くなった。