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いい夜だ。
屋根の上から見る空は澄んでいて月が良く見える。流石に少し寒いが。
半纏を着込んではいるものの、冷気がまとわりついてくる。火をつけただけの煙草を持つ手もかじかんでいる。
だがまだ部屋に戻る気にはなれない。

兄貴が宣戦布告をしたあの時、杏里は完全に兄達の想いに気付いた。俺達も隠しきれなくなった。そして兄妹の関係には少しずつ歪みが生じ始めた。
と、皆は思っているだろう。
だが俺は、あの宣戦布告は始まりではなく終わらせる為の言葉だったと思っている。兄貴は自覚しているか分からないが。
だから今は、言わば修正期間だ。
これまでが歪だったのであり、これから正常に戻っていく。その為の儀式のようなものだ。

しかし本当にそうか?
完全に“普通”に戻れるのか?
今まで散々杏里に縋って依存して生きてきた俺達だ。ちょっとやそっとのことで、杏里との関係を割り切れるはずがない――と俺は思う。
こう考えているのが俺だけであって、他の奴らは既に綺麗に割り切れている可能性も充分あるわけだが。
俺はまだ今までの俺との折り合いを付けられていない。
本当に折り合いを付けるべきなんだろうかとすら考え始めている。
何故なら自分で良く分かっているからだ。最終的に杏里の選ぶ男が俺以外の野郎だとしても、俺の心は変わらないし二人の邪魔をしようともしないだろうという事を。
なら、杏里に対する全ての感情をきっぱり捨て去る必要などないんじゃないだろうか。捨てたふりをすればいいだけで。

ただしそこで新たな問題が出てくる。
杏里に“捨てたふり”は通用するだろうか。
疑いもなく血の繋がった妹として共に育ってきた彼女に、心の内を見破られないという確証はない。
実際今までを思い返してみると、見破られなかった事の方が少ない。皆無と言っていいかもしれない。
俺の本心を見透かされている限り、杏里にも平穏は訪れない。
俺がしたいのは一人きりで十字架を背負う事であって、杏里を道連れにする事ではない。

だから結局の所、俺が諦めればいいだけの話なのだ。



灰を落とした煙草を口に持っていこうとすると、後ろで小さく軋む音がした。

「あ…」

振り向いた俺と目の合った杏里がばつの悪そうな顔をする。

「お前も月を見に来たのか?」
「…うん、そんな感じかな。邪魔しちゃった?」
「いや。何なら隣に来るか?」

断られるかと思ったが、杏里は「じゃあそうしようかな」と俺の横に座った。
全く吸っていない煙草の火を揉み消して屋根の下へ放り投げる。杏里の傍ではあまり吸いたくはない。

「あ、だめだよカラ松お兄ちゃん、ちゃんとゴミ箱に捨てなきゃ」
「フッ…煙草もいずれは土に還る」
「かっこよく言ってもだめだからね。次はちゃんと捨てるべき場所に捨てなさい。約束だからね」
「お前との約束なら破れないな」

俺の心はどこに捨てればいいのだろう。
簡単に放り投げる事のできない物ばかりだ。
ちらと目をやると、月明かりの下で杏里の格好が露になった。
厚手のトレーナーとジャージのズボンに、綿のたっぷり入った室内スリッパ。だが外に出てくるには少し不十分な気がする。
案の定手を擦り合わせて、白く立ち上る息を吐きかけている。

「そんな格好で出てきて大丈夫か」
「うん、何となく…冷えたい気分」
「馬鹿な事を言うんじゃない」

半纏を脱ごうとすると「いいよ」と遮られた。

「カラ松お兄ちゃんが寒くなっちゃうでしょ。半纏の下、私より薄着じゃん」
「お前はいつも人の事ばかり、」

口に出してすぐ後悔した。
俺達と杏里の関係を暗に示したような言い方。

「…フッ、気持ちだけ受け取っておく。さぁ、俺の温もりに包まれるがいい…」

細い肩に半纏を掛ける。
杏里は何も言わなかった。

トド松と何かあったんだろう事は何となくだが察している。
その事が今、頭を過っているのだろうか。
杏里はその事を忘れる為に一人、寒空の下へ出てきたんじゃないだろうか。
俺はここにいた方がいいのか?
何も気付かないふりをしていた方がいいのか?

少ししてから、肩に掛かった半纏を握り込んで杏里が縮こまる。

「…私、人のことばかり考えられてなんかない」

やはり杏里を刺激してしまったようだ。激しい後悔に襲われる。
しかしここまで来てしまったら、逃げ出すわけにはいかない。杏里の言葉を受け止める他にはない。

「そうか?」
「…私は、何にも優しくないし、自分の事しか考えてない…」
「…」
「………今日…今日ね、…トド松お兄ちゃんに、誰を選ぶのかって…聞かれて……」

段々杏里が涙声になっていく。
杏里の涙には弱い。俺達全員。
胸が締め付けられるようだ。

トド松はトド松なりに考えて考え抜いた結果の行動なんだろう。
負けず嫌いのあいつが自ら滅びの道を選んだ。
どんな気持ちでその言葉を口にしただろう。
俺は完全には理解できない。
今だって、何か光を見出だそうとしている。

「私、意地悪なこと言った……トド松お兄ちゃんだけじゃなくて、みんなを否定してる、ようなこと……っ」
「……」
「…みんなが、私に甘いって…し、知ってるから……はっきり…したこと言わずに、」
「……」
「みんなの…き、気持ちから…に…っ逃げて……答え、出さずに…このまま、いれたらって……、っずっと…」
「もういい」

杏里にこれ以上言わせるのは酷だ。
俺は優しい声を出せているだろうか。高校時代に培った演技のノウハウが生かされているといい。

「…ご……っ、ごめ…なさ……」
「謝る必要などない。お前は悪くないし、俺達はお前に謝られる事を望んでいない」

そうだろ、下で聞いてるはずのお前達も。

「…泣かないでくれ」

随分と自分勝手な慰めだと思う。泣かせているのは俺達なのだから。
肩に手を掛けたら、そのまま胸に飛び込んできた。
しゃくりあげながらごめんなさいと繰り返す杏里の背中を撫でる。
目を閉じて少し俯けば、杏里の柔らかな髪が頬をくすぐる。


なぁ杏里、俺は本当にお前が愛しい。
お前の為なら何だってしてやろう。
多分俺は、お前の為なら全てを捨てられる。全てを犠牲にしてでもお前を守ってやる。
俺の愛は大きすぎて、重すぎて、お前には受け止めきれないだろうな。
大袈裟な表現だと笑われるかもしれない。
だけど愛している。本当だ。


そんな事を口には出せない。
伝えれば伝えるほど、お前を苦しめる。
俺はこれを何と言うか知っている。
ただ、現実はそんなに綺麗な物じゃなかった。
針の先はいつだって自分にも向いていた。
震える杏里を抱き締める事はできない。お互いに突き刺してしまうだけだ、そんな行為。
だから頭を撫でる事しかしない。トド松にしたのと同じように。
それが優しさなのか、臆病なのか、分からないまま。

「お前は遠慮なんかしなくていいんだ。俺達はお前の兄なんだから、甘やかすのは当然だろう」
「……っ、ぅ…っく……」
「お前は今のままでいい、杏里」

夜気が体を蝕んで闇に消えていきそうだ。
杏里の触れている場所だけが、まだ自分が存在していると思わせてくれる。

荒い吐息は治まりつつあった。
杏里が落ち着くのを待って、先に手を離す。

「……ご…ごめんなさい…」
「いいよ」
「………」
「…今日は疲れたな」
「……うん…」
「明日は大学か?」
「…ううん…」
「もう寝るか」
「ん……カラ松お兄ちゃんは?」
「フッ…俺か?俺はな、もう少し今宵の月を愛で…っくしゅっ」
「あっ、もう、やっぱり寒いんじゃん…!これ着て」
「…別に寒くない」
「嘘つかないの」

杏里の体で温まった半纏が俺の肩に掛けられた。

「周りのことばっかり考えてるのはカラ松お兄ちゃんの方だね」
「……」

そんなことはない。
俺も俺自身の事しか考えていない。傷が付かないようにしているだけだ。
そんな俺も、端から見れば杏里と同じように映るのだろう。
杏里が俺を優しいと感じてくれているのならそれでいいのかもしれない。
半纏に袖を通して着直した。

「さ、お前は早く中に入れ」
「本当にお兄ちゃん、まだ外にいるの?」
「ああ…あと」

ポケットの中からくしゃりと潰れた煙草の箱を取り出して見せると、「ああ」と納得してくれた。

「でも程々にね?」
「分かってるよ」
「ゴミは?」
「ゴミ箱」
「…おやすみなさい」
「ああ、良い夢を」

軋む音がして杏里の姿は見えなくなった。
くしゃくしゃの箱から一本取り出して火をつける。
煙草の先が燻って赤い光が瞬く。
白煙の向こうに薄雲で陰った月。

やはり捨てたくはないな。何もかも。
これまでも、これからも、杏里が俺達の光であることには変わりない。
それが分かっているなら、それでいい。
抱き締めあうだけが愛じゃない。そうだろう?
お前を守れるなら、何だっていいんだ。