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ふざけんなよ、と。
たった今、部屋の片隅で起こった出来事に危うく壁を殴りそうになった。
実際はただ体が震えただけだったけど。

誰も何も言わなかった。
これから崩壊していくだろう日常に恐怖していた。
ぬるま湯のような日々が良かったとは思わない。でも選択肢はそれしかなかったはずだ。そうだろ。暗黙の協定が作られてたんじゃねぇのかよ。
なのに、ふざけんなよ。
俺だって。


現実から目を背けるために今日も家を出る。
猫に会いに行く、というのが言い訳にしかならなくっている。
一通り町をぶらついて、金がないからやることもなくなって、重い足を引きずって家に帰る。
玄関先には誰の靴もなかった。
あれから全員何かと理由を付けて毎日外出するようになった。
夜遅くまで帰ってこない奴もいる。
杏里は気付いているのかいないのか、何も言ってはこないけど。
けど、あれからおそ松兄さんの前では少し緊張してるみたいだ。
余計なことしやがったせいで俺達にまで寄り付かなくなったらどうすんだよ。
大体。
その緊張はどういう意味の緊張なんだ?

大きく息を吐いた。
何かやらなきゃと焦ってる自分がいる。だけど何をしようってんだよ、これ以上。
他の奴らが“なかったこと”にしようとしてる傷口を広げてさ。その先に何があるんだよ。
ちょっとだけ期待をして、それで、どうなりたいんだよ。
忘れよう。みんながそうしてるように、全部のことに目をつぶろう。
二階の部屋へ向かう。夕飯まで寝よう。何も考えなくて済むように。

でもそれは無理だった。
襖を開けたら、

「あ、お帰りなさい一松お兄ちゃん」

二人だけの空間。
胸がじくじくと痛む。

「ただいま」

そのまま床に寝転がれ。寝ろよ。
だけど足は何か救いを求めるみたいに、杏里の座るソファーへ向かう。とうとう隣に座りやがった。

「猫たち元気だった?」
「うん。いつも通り」
「それは何よりだねー」

杏里は読んでいた本を閉じた。よりによってロミオとジュリエット。何を考えて読んでんだ?

「何それ」
「え?この本?カラ松お兄ちゃんに貸してもらったんだ。大学の講義で出てきたから、一回読んでみようかなって」
「ふーん」

本当にそんな理由か?別の意味で興味持ったんじゃねーの、ねえ。
杏里から本を取り上げた。ぱらぱらとめくる。

「あいつこんな本持ってんだ」
「カラ松お兄ちゃん演劇部だったでしょ」
「悲劇だっけ?」
「そうだね」
「へー」

つまんね。バッドエンドの何が面白いの。こんなの美談でも何でもねぇよ。第三者がいいように言ってるだけ。
第一こっちは想い合ってなんかないっつーのに。
こっちって何だよ。馬鹿じゃねーの。もう何も考えんなよ。

「あ、お兄ちゃん猫の毛付いてるよ」

杏里が俺の服をつまむ。こんな小さなことでも体がぞわぞわして苛立つ。

「いっぱい付いてる。家入る前に一回はたき落とした方がいいよー」

またチョロ松お兄ちゃんに怒られるよ。
そう言う杏里の顔はいつも通り“妹”だ。俺達全員を“兄”と一括りにする女の子。
毛を払い落とした杏里の手を掴む。
綺麗な手のひらだ。よく母さんの家事を手伝ってるのに、どこも荒れてない手。

「肉球付いてたらいいのに」
「猫みたいに?」
「うん」
「そしたらずっと一松お兄ちゃんに触られまくるんだろうなー」

半分正解だよ。
何もなくたっていつでも杏里に触ってたい。

「杏里猫にならない?」
「えー、猫かぁ…確かに一日寝てばっかりでも怒られないし良さそうだけど」
「いいよ、猫。暇だよ、俺みたいに」
「あはは、じゃあ猫にならなくてもいいじゃん」
「猫だったら俺が飼ったげるよ」

欲が顔を出す。
危険だ、ここから先は。
踏み込まないようにしてきた、もしもの世界。

「一松お兄ちゃんニートじゃん。私を飼う経済力はないでしょ」

その笑顔は決して俺を馬鹿にしてるものじゃない。杏里の親愛表現。
杏里は俺を見捨てたことがない。
俺がこんな風にひねくれた大人になっても六人揃ってクズニートになっても変わることがなかった、妹。

俺は上の棚から通帳を取り出した。
それを杏里の膝元に投げてよこす。

「え、何これお兄ちゃんの?」
「うん」
「お兄ちゃん銀行の通帳持ってたんだ」
「中見て」
「えっ…見ていいの?」
「うん」
「見ちゃったら他のお兄ちゃんたちに告げ口しちゃうかもよ?一松お兄ちゃんこんなに持ってたよって」
「いいよ」

どう答えても杏里はそんなことしないって分かってるから。
言っただろ、杏里は俺を見捨てたことなんかない。

「じゃあ、失礼しまーす」

杏里がゆっくりページをめくっていく。そして最後に記帳したページにたどり着いた時、明らかに表情が変わった。

「…え…一松お兄ちゃんこんなに持ってたの…?」

小声で興奮を伝えてくる。

「すごい、これだけあったらしばらくは就職活動お休みしてたって問題ないじゃん!だから余裕そうだったんだね、一松お兄ちゃん」

俺に通帳を返してくれる杏里はクズじゃない。
だから俺の通帳を見たっていっぱい持ってるねぐらいの感想しか抱かない。
この松野家の子供の中で唯一の良心と言ってもいい。
だって血が繋がってねーんだもんな。

「それだけありゃ充分でしょ」
「うん、全然いいよ!仕事はゆっくり探せばいいし」
「そうじゃない。俺が杏里を飼うのに」
「え………あはは、私結構食べるよ?もっといいお布団で寝たい!とかわがまま言うよ?」
「いいよ。何でも叶えてやるよ」

ソファーの背もたれに両腕をついて、杏里を囲んで逃げられなくした。俺を映す瞳の奥が少し揺れている。

「だから一緒に逃げてよ」

何も音が聞こえない。
自分が何を言ったかも分からない。
現実じゃないみたいだ。


「俺達のこと兄妹だって誰も知らない所に、二人だけで」


杏里は俺から目をそらさなかった。
そらさずに、

「お兄ちゃん」

と震えた声で呟いただけだった。
それが答えだった。
今まで“兄”を見捨てたことのなかった杏里は、“俺”を初めて裏切った。

「付いてきてくんないんだ」

ふっと笑う。別に笑いたい気分じゃないのに。

「何で?大切に飼ってあげるよ。俺わりとマメだし」

杏里は少しだけ笑った。笑いたい気分じゃないのに。

「だって一松お兄ちゃんは、他のお兄ちゃんたちもいないと生きてけないでしょ?」

それは多分正解だ。
口でどんなこと言ったって、過激になってみたって、俺は杏里と同じくらいあいつらにも依存している。
全てを捨てていけない。杏里には見透かされてる。
だからそう、これは演じてみせただけ。
“俺”を殺したかっただけの悲劇。
でも中途半端に終わったな。

もっと不安な顔してよ。
怖いって、こんなお兄ちゃん知らないって、怖がってくれたらさ。
綺麗に死ねたよ、俺。

「それにしてもお兄ちゃん、どうやってここまで貯めたの?」
「パチと競馬」
「一松お兄ちゃん引き強いもんねー。おそ松お兄ちゃんみたいに散財しないし」
「意外と安牌でしょ、俺」
「ふふふ、そうだね」
「あいつらには黙ってて。たかられると困る」
「了解です」
「杏里も本ばっか読んでないで外出てきたら」
「まさか一松お兄ちゃんにそんなこと言われるなんてね」

そう言いながら杏里が立ち上がった。

「じゃあ私も散歩してこよっかな!夕ご飯までには帰るね」
「行ってらっしゃい」

襖を開けて杏里が部屋を出ていく。
たたた、と階段を下りる途中で「あれ?いつ帰ってたのチョロ松お兄ちゃん」と声が聞こえた。
俺は通帳を元に戻した。
下で杏里が玄関を開ける音がして、静かになった。

俺はゆっくり部屋を出る。
階段の途中に、チョロ松兄さんが壁を背にして立っていた。
こっちを見るその目からは何も読み取れない。
怒ってる?
焦ってる?
同情してる?
だけど、動揺はしていない。

一段一段階段を下りていく。

「安牌だって、俺」

すれ違い様にそれだけ伝えた。
チョロ松兄さんがそれを聞いてどうするのかは知らない。俺もどうしてこんなこと主張したかったのか分からない。

ただ一つ分かったのは、俺は悲劇の主人公には選ばれなかったってことだった。