×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -



ふわ、とあくびをしながら眠い目をしばたかせてアスファルトの道を歩く。
ちょっと寝坊しちゃったからいつもよりは早足。
はあ…今日は朝から数学なのに。予習の時間はあまり取れなさそう。
憂うつな気分で校門に続く一本道への角を曲がった。後ろにいた朝日が右に来て、一気にまぶしくなる。
道の両側にある並木の影に入ると、視界がいくらかましになって、校門前に先生が二人立っているのがわかった。今週から始まった朝の声かけだ。
一人は知らない先生で、もう一人は…

「…!」

背筋が伸びる。
遠くからだって絶対に見間違えない、ちょっとボサついた黒髪と猫背の白衣。
保健医の松野先生。
うそ…今日の担当、松野先生だったんだ…!
眠かった目はぱっちり開いたし、数学に支配されていた頭は鞄からリップクリームと鏡を見つけだす方向にフル回転した。
友達に教えてもらった、校則違反にならないぐらいのちょっとだけ色づくリップ。
二人の先生がまだ遠いのをいいことに、少し歩みを遅めて、他の生徒の背中に隠れてリップをぬる。よし、きれいにできた!
あとはちゃんと松野先生の目を見て、おはようございますって言いたい。
ああ、数学で当てられるより緊張する…!

「…おはようございます…」

前からいつもよりだるそうな松野先生の声が聞こえてきた。
松野先生、朝弱そうだもんね。そういうところもかわいいって思う。
それにしても朝から松野先生を見れるなんて!今日はついてるなぁ…!
私の前にいた人が「おはようございます」と声を出す。
わわ、もう近い…!

「おはようございます」

前の人が先生の横を通りすぎたタイミングで、なるべく自然な表情を作って顔を見上げる。

「おはようございま……す」

あくびを噛み殺したかのように一瞬言葉がとぎれた松野先生は、他の子に対してと同じ口調であいさつを返してくれた。
でもメガネの奥から私をちらりと見ただけで、またすぐ別の方を向いてしまう。
…ほんのちょっとだけ、何かを期待してたけど…そう都合のいいことは起きないよね。うん、わかってた…
いいんだ、朝から松野先生見れただけでも。
そう思いながら先生の隣を通り過ぎようとした時。

「…小山さん」

ぱっと振り返ると、松野先生がしっかり私を見ていて。

「跳ねてる」

ゆるく右手を上げて自分の右耳の上を指さした。

「えっ…」

あわてて私も自分の同じ場所に手をやる。
あれ、髪が立ってる!
急いで撫でつけたら直った。

「寝癖?」

ちゃんと見なきゃ気づかない、ほんの少しだけ笑いを含んだ顔で先生が言う。

「ち、違います、急いで来たから風で」
「ほんとに?」
「う…先生もいっぱい跳ねてます」
「これはおしゃれだから」
「そうなんですね!似合ってます」
「…冗談だからね」
「ええっ、ほんとにかっこいいと思ったのに」

笑ったら、先生は眠そうな目をもっと細めて「そりゃどうも」と頭をかいた。跳ねてた髪がもっとくしゃくしゃになってまた笑ってしまう。

「え…何」
「先生がもっとおしゃれになりました」
「…ああ。そうでしょ」

わざとくしゃくしゃにしたんじゃないらしく、ワンテンポ遅れて私の言葉の意味に気づいた先生はにやりと笑った。
わああこの顔…!
普段だるそうで無表情な松野先生がたまに見せてくれる、このちょっと意地悪そうな笑い方が好き。
内心すっごくときめいていると、チャイムが鳴ってしまった。
校門近くにいる生徒も少なくなっている。

「…ほら、予鈴鳴ったよ」

白衣のポケットに手をつっこんで、目で教室に行きなさいと促してくる先生。

「はい、じゃあまた委員会で」
「うん。頼りにしてます」

そんな言葉をかけてもらえるだけでいくらでも頑張れる。
先生ともっと話していたかったけど、靴箱へ向かった。
遅れて来たらしいギャルの子たちがきゃらきゃら笑いながら「松せんせーおはよー」と明るい声で言うのが後ろから聞こえてくる。
先生はそれに「うるせぇ早く行け」と即座に返していた。
松先生って呼んでるんだ。先生と仲いいんだろうな。いいなぁ。
こういうのを聞くたび、あの子たちがうらやましくなる。
私も頑張って積極的に話してるつもり。でもなかなかあんな風に遠慮のない距離感にはならない。
そりゃあ、いつも優しく話してくれる先生も好きだけど。
先生に恋していると自覚してから、私はただの生徒の一人なんだってこういう時に思い知る。
教室には本鈴ギリギリですべりこんで、自分の席についた。ホームルームが終わって、斜め前の席の春香が「おはよー」と振り返る。

「杏里、遅かったね」
「おはよう…うん、寝坊しちゃって」
「今から数学なのに余裕じゃん」
「わーそれ言わないで…!予習全然できてないの!」
「あははっ、頑張れー杏里ちゃん」

そう笑った春香が、急に意味ありげに目で合図してきた。
視線をたどって廊下に面した窓を見ると、松野先生が教室の前を通り過ぎようとしていた。

「あ」

猫背でゆっくり歩く先生はもちろん私に気づかず、あくびをして目をしょぼつかせながら行ってしまった。
はぁ……先生、かっこいいなあ。
さっき無造作にぐしゃぐしゃにした髪も似合ってるし。
それに二度も見れた!嬉しい!
春香がくっくっと笑う声がする。

「乙女〜」
「えっ、な、何が?」
「頑張れ杏里ちゃん、いろいろとー」
「もう!」

ちょうど数学の先生が入ってきて、春香との会話は終わりになった。
うう、結局予習できてない…数学の先生が松野先生だったら、もっとやる気も出るんだけどな。
でも、次の委員会を楽しみに頑張ろう。朝から松野先生も見れたもんね!







先生、なんてお堅い職業に、まさか自分が就くとは。
六人揃って高校を出た後、それぞれ別の道を歩み始めた結果がこれだ。あいつらも驚いていたが、あいつらはあいつらでこれまた予想だにしなかった職に就いたのでお互い様と言える。
俺は仕事内容が楽そうだからと安易に保健の先生を選んだが、しかし先生は先生なわけで思った以上に忙しい。
今朝も、『挨拶週間』と銘打たれた、教師が日替わりで行う早朝挨拶業務に向かわなければならない。………だるい。
のろのろと正門前へ行く途中、たまに面倒を見ている黒猫が前を横切り、朝日の届かない茂みへ入っていった。
俺もそこに行きたい。暗闇でお前を撫でていたい。そして寝たい。
もう一人の担当の先生と並び、あくびを噛み殺しながらやって来る生徒に声をかける。
教頭からは元気な声でと言われてるけどそんなの知ったこっちゃないんで。俺が教師陣の中で若い方だからかあのハゲは風当たりが強い。もう一度言う。知ったこっちゃない。
あー…いつまでなんだろう、この挨拶週間。
今朝だけで一生分の挨拶をしている気がする。予鈴はまだか…
また一人、生徒が横を通る。

「…おはようございます…」
「おはようございまーす」

若い人間は朝から元気だ。
十歳も離れていない生徒達を見て思う。それなのに自分が彼らより相当年老いている気になるのは、教師と生徒という立場の違いがあるからか。

「……チッ」

朝は苦手だ。朝日が体に毒すぎて余計な考えが浮かんでくる。
どうでもいい。忘れよう。もうすぐ予鈴が鳴るはずだ。

「おはようございまーす」
「…はい、おはようございます…」
「おはようございます」
「おはようございま…」

待った。この声は。
朝日を避けるようにあらぬ方向を見ていた目を、自分の前へ向ける。
そして声の主が俺を見ている小山さんだと分かった瞬間、思わず目を反らしてしまった。
委員会活動ぐらいでしか関われない彼女の姿。朝からなんて刺激が強すぎる。心臓に悪い。
なぜ小山さんがここに?前に挨拶担当の時は見なかったのに…あ、そうか前は西門に立ったから。正門から来るんだね。なるほどね。せっかくだし何かもっと話すか?でも何を…委員会で何話してたっけ?あ、そこの茂みに猫がいるよ。いやそんなこと急に言ってどうする。
色々と混乱しているうちに彼女は俺の横をもう通り過ぎようとしていた。えっ、ま、待って…

「…小山さん」

とっさに彼女の名前を呼ぶ。
髪をさらりと揺らして振り返った小山さんが、まっすぐ俺を見る。
しまった…思わず呼び止めてしまった。教師にあるまじき欲で。
それでも不審に思われないよう必死に話題を探す。少しだけ彼女の髪が跳ねていることをとっさに指摘して、何とかもっともらしい理屈をつけられた。
小山さんは恥ずかしそうに髪を抑えた。か、可愛…
いやしかし今のはデリカシーのない発言だったんじゃないだろうか。
場を繋げるために「寝癖?」とか言っちゃったんですけど。年頃の女の子ってそういうの気にするんじゃないの?
これで嫌われたら。死にたい。誰か殺してくれ。

「ち、違います、急いで来たから風で」
「ほんとに?」
「う…先生もいっぱい跳ねてます」
「これはおしゃれだから」

そう思うのに、俺の口から出てくるのは何でもない会話を取り繕うための『それっぽい』返答ばかりで嫌になる。

「そうなんですね!似合ってます」
「…冗談だからね」
「ええっ、ほんとにかっこいいと思ったのに」

小山さんが早速俺を殺しにきた。ありがとう。俺は無事死にます。
続けておしゃれだと褒めてくれたので、つい調子に乗ったら会話が終わった。何やってんだ俺は。
タイミングを見計らったかのようにチャイムが鳴る。

「…ほら、予鈴鳴ったよ」
「はい、じゃあまた委員会で」
「うん。頼りにしてます」

失言に次ぐ失言のフォローのために言った最後の一言に、小山さんはにこりと笑って靴箱へ急いだ。
…小山さんはいい子だ。
高校生にとってはつまらないだろう委員会活動も熱心にやってくれる。だから頼りにしているのも間違いじゃないけれど。
彼女に目をかけている理由がそれだけではないことを、俺は早々に自覚してしまった。
ホームルームが始まっているのに気にせずとろとろ歩いてくる生徒を最後まで追い立てて、報告のために一度職員室へ向かう。
そこへ行くためには彼女のクラスの前を通らなくてはならない。
それを意識するだけで沸き上がるやましい気持ちを隠すように、いかにもやる気のなさそうな態度を作る。

「…ふあ…」

無理やりあくびでもひねりださないと気を紛らわせられそうにない。こんな姿見つかったら教頭にまた不良教師とか言われるんだろうな。それこそどうでもいいけど。
教室を完全に通り過ぎた後で少しだけ振り返る。
数学の先生が入っていったから、今から小山さんは苦手な数学の授業を受けるんだろう。
俺はどうして数学の教師にならなかったんだ。それなら…
ちらりと欲まみれの考えが浮かび、急いで振り払った。
生まれてこの方彼女なんて出来たこともなく女心のかけらも分からないようなこの俺が、教師の立場で生徒の一人を特別視しているなんてクズにも程がある。
だからなるべく彼女とは適切な距離を保たなければならない。他の生徒と同等か、それ以上に注意が必要だ。
決して彼女には、小山さんには悟られてはいけない。
小山さんが卒業するまで俺はいい先生でいなければいけない。
万が一にでも、小山さんも俺を好きになるなんて有り得ないのだから。