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先生お兄ちゃんが来たよ、と教え子が一人、物書きをしている私の机へ駆け寄ってきた。
午後の柔らかな陽が学院の庭を照らす中、友人達と走り回っていた彼。どこでこしらえたのか頬に小さな切り傷を付けている。
そんなことをお構い無しに報告する彼は、後に続いて部屋へ入ってきた子供達と同じぐらい興奮している。皆“お兄ちゃん”を心の底から慕っているのだ。
ペンを置き、袖を引く彼の手をやんわりと押し止めながら、傷に髪の先が当たらないようかき上げてやる。

「分かりました。でもあなたは傷の手当てが先…」
「待たせたなハニー!ご機嫌はいかがかな?」

苦笑混じりの私の言葉は、舞台役者のような明朗な男の声で遮られる。
よく通るその声は部屋の隅々まで響き渡り、何の変哲もない教室を瞬時に彩った。
開け放したドアに片手をついて立っているのは、ピンストライプのスーツを着た男。
濃い青のシャツをはだけさせた胸元には金のネックレスが覗き、サングラスの入った胸ポケットにもささやかな金の装飾が施されている。
スーツと揃いの上等なハットに、全体を上品に見せる磨きのかかった革靴。羽振りの良さが一目で分かる。
質素な学院には似つかわしくない派手な出で立ちのこの男の名は、松野カラ松という。
彼は私の返答を待たず、カツカツと小気味いい音を響かせ部屋へ入ってきた。
彼の存在そのものが光となり闇を消していく。ここへ彼が訪れる度、そんな感覚に陥る。

「別に待ってはいないんだけど」

否定しつつも、突っぱねている印象は与えたくない。今は。
穏やかなトーンを意識した言葉への返事は一輪の青いバラだった。

「君に似合うかと思って…な」
「いつもそう言うじゃない」

毎度綺麗に棘を削ぎ落とされているバラを受け取ると、周りで子供達が囃し立てる。先生達はいつ結婚するの?と。
私達は結婚するどころか恋人でもない、とお決まりの弁解をしても意味はなく、彼もハニーがその気になりさえすればと煽ることを言う。子供達ははしゃぐばかりだ。
でも、この一時は嫌いではない。
そう思う度に心がちくりと痛む。まるで見えないバラの棘が刺さったように。

「…さあ、お兄ちゃんにみんなで作った花壇を見せてあげて。あなたは手当てしてから」
「はーい」
「いいか、カラ松ボーイ…男は傷を作って強くなるもんだ」

くしゃりと頭を撫でてから子供達を連れて行く背中を見送る。
机の後ろの棚から薬箱を取って彼の頬に消毒をしてやると、待ちきれなかったのかもう痛くないからと足早に友達の後を追って行ってしまった。まったく、とこぼす間にも、子供達に囲まれるカラ松の元へ彼が走っていくのが窓から見える。
しばらくそれを見つめ、薬箱を片付け、今度は部屋の隅の棚へ向かう。
ポケットから取り出した鍵を使い右の引き戸を開ければ、子供達が描いてくれた私の似顔絵と、青い模様の入った陶器の花瓶がしまってある。いつからかここを訪れるようになったカラ松から贈られる、青バラのための。
初めてそれをもらった時は大いに驚いたし、戸惑いもした。けれど嫌ではなかった。思い付く限りの店を回り、一番花が映える物を吟味した。
このバラは私にとって特別なのだと、暗に示すように。
しかし、当時は誠実で凛とした表情に見えた青のランダムな模様は、今は私の心に巣くう青い炎にしか見えない。
模様を指でそっとなぞる。これは私の罪。地獄の炎。
分かっていてなお手放すことの出来ないこの厄介な花瓶を取り出し、元通り鍵を閉めて振り返ると、机の側にカラ松が一人きりで立っていた。

「……声ぐらいかけてよ」
「フフン…驚いた顔も悪くない」

得意気な顔をするのが憎たらしい。
しかも卓上には、庭で摘んできたらしい草花で“I love you”などと綴られている。
カラ松は感想を求めるような視線を投げかけてきたがそれには応えず、机の端へ花瓶を置き、バラと一緒に一本ずつぞんざいに生けていく。

「やっと近くに来れる用事があってな。話がある」
「院長先生なら院長室にいるけど」
「ノンノン、今日はお前に会いに来たんだ…と言っても、いつもハニーに会いに来ているようなものだが」
「いいご身分…暇なのね」
「暇じゃないさ。お前との時間を作るためにいつだって大忙しだ。今日からまたしばらく仕事で来れなくなりそうだ…寂しがらないでくれ、ハニー」
「そうね、子供達が寂しがるわ。そういえばあの子達はどうしたの?」
「庭で遊んでる。…おい、はぐらかすな」

少し苛立ち混じりに音を立てて机に置かれた片手。弾みで小さい花が二三、机の向こうへ飛んでしまった。
それをちらと見やり、視線をカラ松の顔へと運ぶ。

「私だってこれでも忙しいの」
「真剣なんだ」
「どうかしらね」
「お前の視線にも気付いてるつもりだが?」
「街中の女の子の視線でしょう、正しくは」
「杏里」

詰問のような語気から一転、柔らかく慈愛を含む声で名前を呼ばれると私の心はまた炎に当てられて焼け尽きそうになる。
そっと唇を噛み締める私には気付かず、カラ松は颯爽と前髪をかき上げた。

「フッ…お前は不安なのか?この俺の愛が…」
「あなたのそういうところ嫌いじゃないわ」
「心配するな!確かに街を歩けば常にカラ松ガールズの視線を感じるが、心から想っているのは杏里、お前だけだ」

皮肉をまともに受け取る愚直さも本当は愛しいのだと告げることを許せるのならどんなに楽か。
最後に残った一輪を花瓶に挿す。

「私の人生は子供達に捧げるって決めたの」
「その中に自分の子供を加えようとは思わないか?」
「相手がいないから」
「ンン?」

意味ありげに片眉を上げてアピールをしてくる彼に笑いを溢して、花瓶を二人の間へ押しやった。

「院長先生があなたの話を楽しみにしてる。この間の美術展の感想を聞かせてほしいって」
「……また来る。考えておいてくれ」

今すぐにでも答えが欲しいと言わんばかりの目をしているのに、そうとは口にしない。
彼は結局、判断は私に任せてくれる。その優しさにいつも甘えている。
私の業はますます深くなっていく。
閉じたドアの音の後で、吹き飛ばされた花を拾いに机の下へ屈んだ。
ちょうど机の陰となっている床にくたりと寝ている花の側には、子供達が来る前にゴミ箱へ入れ損ねた、くしゃくしゃの新聞記事の切り抜きが転がっている。


“怪盗団またも逃亡”