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待ち合わせはいつもの橋の上。
杏里はまだ来ていない。少し早かったか。
マイミラーを取り出し、浴衣の俺を眺める。反射した夕焼けが眩しい。
サングラスは掛けない方がいいか…いや掛けた方が…?
家を出る前、悩みに悩んで掛けないまま来てしまったが、一応胸に差してはいる。
杏里はどちらが好みだろうか。今まで聞いたことはなかったが…
ああ、いいアイデアを思い付いた。杏里の目の前で掛けることにしよう。
フッ、サングラスを不敵に掛ける俺……それを見つめる杏里………

「ごめん待たせた?早いね」
「はっ!?あ、いや…!」

思い描いていた顔が鏡に映り込み、思わず仰け反ってしまった。
慌てるな、イメージトレーニング通りにやればいい。

「…フッ、いいさ…さほど待ってはいないからな」

欄干に背を預け、蜩のオーケストラをBGMにサングラスを掛ける俺。決まった…
しかし杏里は「夜になったらそれ外した方がいいよ」と言った。

「サングラスしてたらお神輿や花火の綺麗さが半減しない?」
「……それもそうだな…フッ、なら外しておこう」

惚れた女のアドバイスは素直に聞き入れる、俺。
サングラスはまた胸元へと戻った。

「それがいいと思う。どこから回る?」

隣で同じように欄干に凭れ、杏里が俺に尋ねる。
彼女は俺に負けず劣らずのクールガールだ。自然に腕を組む仕草が様になる、そんな女。
今日着ている浴衣もパーフェクトに決まっていると言えよう。
青く煌めく水の中を金魚が泳いでいる様子を描いた、涼しげな柄だ。杏里によく似合っている。
どこからどう見ても俺達は似合いのカップルとして人々の目に映るに違いない。
まあ、唯一気になると言えば…一輪挿しのラナンキュラスを模したバレッタが赤い物だということぐらいか。
俺達の間で赤と言えば、自動的に長男を思い出させる。それが杏里の髪に触れているというのがどうも気に掛かる。
その髪飾りに手を伸ばす前に杏里が体を起こし、俺の指が杏里の髪を掠めた。

「ん、何か付いてた?」
「…いや。フッ、お前はいつ見てもビューティフルだ」
「そんなの欠かさず言ってくれるのカラ松だけだよ」

その笑顔に安堵する自分がいる。
杏里は男を欺く類の嘘はつかない。
……と、言っていたのはおそ松だったか。
蜩が一瞬、声を潜めた。

杏里は元々おそ松の友人だった。
どこでどう知り合ったのかは知らないがいつの間にか仲良くなっていて、俺が杏里と初めて会ったのもおそ松を訪ねて彼女が家に来たのが切っ掛けだった。
兄弟も交えて親しくする中で、俺にとって杏里の存在がスペシャルなものとなるのに時間は掛からなかった。
杏里にとってもそう、ならいい。

「花火見たいから、それまで時間潰そうよ」
「ああ…そうだな」
「どこか行きたいところある?」
「フッ…お前がいれば、どこへでも」
「そう言われてもなー…今お腹空いてないし…んー、とりあえずあっち行ってみる?」

俺の決め台詞を受け流し、先立って歩く杏里はやはりクールな女だ。
杏里ならおそ松の隣に立っても充分上手くやっていけるだろう。
頭の片隅に浮かんだそんな考えを振り払うように彼女の後を追った。


昼間から催されている縁日は、夜の近付いた今になっても絶えず人が行き交っている。
杏里とこんなに間近で歩けるのも、人の多さのお陰だろう。

「歩くだけでもわりと楽しいね、縁日って」
「ん、ああ…」
「あれ、あんまり楽しくない?」
「え?いやそんなことはない!フッ、お前の姿に、見とれていた…」
「そう?ありがと」

杏里はいつもこの調子だ。俺が何を言おうがさらりとかわされる。
こういう時のありがとうの言葉に嘘偽りは無いが、恐らくそれ以上の意味も無い。
もしこれをおそ松が言ったなら杏里はどう反応をするのだろうか…なんて、考えても答えの出ない問いを堂々巡りさせている。
隣を歩く杏里の横顔を盗み見た。
縁日の灯りに照らされ、艶めく髪と頬が本当に美しいと思う。
ただ一点、髪を留める赤い花だけが俺の心をざわつかせている。
俺は思っていたよりおそ松に劣等感を抱いていたらしい。
こと杏里に関しては。
知り合うのが早かったというだけで、追い付けないハンデがつけられている気がする。
あいつは人との距離を縮めるのが早い。それが吉と出るか凶と出るかは相手次第だが、杏里に対しては成功していると言える。
でなければ普通、あれ程のクズと関係を保ち続けるのは難しい。
この差を埋める為にも今日は何としても二人きりで会いたかった。あいつらを撒いてまで。
許せ、ブラザー。こうしている今もお前達には見付かりたくないと思っている。特におそ松、お前には!
まあ今のところはノープロブレムだ。全て順調に行っている。
杏里も俺とのデートを快くオーケーしてくれ……いや待て…そもそも、なぜ杏里は髪飾りに赤い花を選んだのだろうか。
そこに彼女の知られざる意図が隠されていたとしたら?

「ね、カラ松…カラ松?」
「ん?…あ、何だ?」
「いや、いつもより無口だから。もしかしてしんどい?帰る?」

杏里の俺を見つめる、その心配そうな瞳の何と美しいことか。

「…え、ほんとに大丈夫?帰る?」
「はっ!?あ、いや!帰らない!帰りたくない!」
「帰りたくないって」

杏里の笑い混じりの声に己を取り戻す。
今は何よりも杏里との時間を優先させるべきだ。

「ああ、杏里、あれを見ろ」

ごまかして指差した先には金魚すくいの文字があった。
ライトに安っぽく照らされた青いたらいの前で、子供らが顔を寄せ合っている。

「お祭り感あっていいよね。こういう場所じゃないと金魚ってなかなか見なくない?」
「まあな…でもお前の浴衣にもいるじゃないか。ゴールドなフィッシュが」
「あ、そういえばそうだった。でもこれお母さんのお古だから色が褪せてるんだよ」
「そうか?最初からそういう色だと思っていた」
「赤がちょっと薄れてる。ほら、こことか」
「お前が着れば何でも似合うさ」
「あは、そう思うのカラ松だけだって」
「本当にそう思っているのか?」

語気の強さに気付いたのは全て言い終えた後だった。
笑顔を失くした杏里が俺を見ている。

「…いや、何でもない…」
「……金魚、見に行く?」
「ああ…」

俺としたことが。
杏里のフォローに救われたが、今のは確実に良くはなかった。
反省しつつ子供達の頭の上から覗き込むと、たらいの中には無数にも思える金魚が泳ぎ回っていた。
見ていると何だか頭がくらくらするようだった。赤ばかりが目に飛び込んで来るからか。
いや、意識しすぎだ。

「…私もやろうかな。カラ松は?」
「いや、俺はいい。フッ、ゴールドフィッシュのレスキューはお前に任せるぜ…」

金魚の群れから目を離すと、杏里はもう店主から道具を受け取っていた。
子供らに交じり、肘まで袖を捲り上げ、すらりとした指先を水面で躍らせる杏里。
天上から蜘蛛の糸を垂らすが如く、繊細な動きで赤き悪魔を掬い上げるマイハニー…いや!マイゴッデス…!

「カラ松?カラ松ー?終わったよ」
「はっ!え?もう?」
「すぐ破けちゃって。一匹しか取れなかった」

杏里に捧げる詩が降りてきている間に、既にゲームは終わっていたらしい。
杏里が掲げた三角の袋には真っ赤な金魚が一匹揺らめいている。

「フッ…ラッキーフィッシュよ、杏里に拾われたことを幸運に思うんだな…」
「逆に私が幸運かも。この子、他の子より体大きいし尾ひれがちょっと変わった形してない?」
「おお、本当だな」
「何かいいことあるかな」

杏里が笑う。それだけで充分、俺にとってはラッキーフィッシュだ。
俺達はさっきの気まずさなど無かったかのように再び歩き出した。
縁日の色とりどりの灯りはネオンサインのように俺と杏里を彩る。
ああ、今は何もかもが美しい。ことに杏里の美しさは格別だ。
お前はさながら煌めく夏の海で俺を誘惑するマーメイド…彼女が望むなら俺は海の底に沈んだって構わない。フッ、愛とはそういうものだ。
「あ」とマーメイドハニーが嬉しそうな声を上げ、俺の袖を引く。

「ね、あそこにおそ松がいるよ」
「………は?」
「ほら」

杏里が示した先には、わたあめ屋の前で辺りをきょろきょろと見回しているおそ松がいた。
思わず足が止まる。

「カラ松達のこと探してるんじゃない?声掛けようか」
「…いや、いい」

まただ。良くない感情が露になりそうになる。
しかし抑えたはずの苛立ちは、杏里には容易に察せられたらしい。
「ごめん」と杏里が小さく呟く。

「…いや…」

弁解の言葉を探しつつ、空白の時間を埋めようとおそ松に目を向ける。
こちらに気付いてはいないようだ。その証拠に、奴は人波の中に俺達ではない誰かを見付け、顔を綻ばせていた。
相手は女性らしい。トト子ちゃんではないようだが、遠目からでもおそ松がいつになく照れているのが分かった。
二人はやがて向こうへ連れ立って歩いていった。

「彼女かな」

ぽつりと杏里が呟く。

「かもな」

そうであってほしいという願望だった。
杏里がこの先、おそ松へ傾かないように。

「…そろそろ行かないか。花火が始まる」

おそ松の去った方向とは真逆へ足を向ける。
杏里は後ろに付いて来てくれてはいるようだった。
しかし、俺達の間に会話は無くなった。
さっきの金魚すくいの店前を歩く俺達の間に、水の匂いのする空気だけが通り過ぎる。
杏里は今何を考えているのだろうか。さっきの光景をどう解釈したのか。俺は杏里の絶望を後押ししたのではないか。
考えてみれば、これまで杏里はおそ松を好きな素振りを見せたことがない。俺が勝手にジェラシーを感じていただけとも言えた。
だが、今のこの沈黙は…

「…と、友達、かもしれないな。さっきの」
「…」
「あいつは顔が広いから…」
「…」

駄目だ。万事休す。
俺の言葉は杏里に響いていないらしい。
これは…認めたくはないが、杏里はおそ松を…

「…帰りたい」

俺の傷心を更にえぐるがごとく杏里が呟いたのはそんなタイミングだった。

「…え」
「帰りたい…」
「ま、まだ花火見てないけど…」
「……帰りたい」

俯いている杏里には表情も生気も無かった。
屋台のライトに照らされた前髪の影が目を覆い、杏里の心中を物語っているかのようだった。

「………分かった」

そう言うしか選択肢は無いと思った。
俺は杏里を連れ、屋台通りをすり抜けた。
待ち合わせした公園の橋を戻り、浴衣姿の人々とすれ違いながら河川敷に出た頃には、祭囃子はすっかり遠ざかっていた。
誰もいない道。
その脇の草むらを下った先には、うっすら黒光りしている大きな川が道と並行に静かに流れている。花火が上がれば光が水面に映ってさぞかし綺麗だろう。
今の俺にはその景色を楽しむ余裕は無いが。

「…」
「…」

無言で歩を進めるも沈黙が重い。
いや、だがこう考えよう。焦って想いを伝えなくて良かったのだと。
このタイミングで告白すれば杏里を更に混乱させかねない。おそ松に彼女の影があるだけで悲しみの淵から抜け出せない、俺のか弱いエンジェル。
せめて最後まで紳士的に、杏里を家まで送り届けねば。

「…杏里、家はこっちで良かっ……」

意を決して振り返った俺は心臓が止まるかと思った。
すぐ後ろにいたはずの杏里が、川原へと入って行っている。

「杏里?」

俺の声など聞こえていないように、杏里は一歩一歩川に向かって行く。
どういうことだ。まさかそこまでショックを受けていたのか。

「杏里」

少し大きな声で再度名を呼ぶ。
だが杏里は振り返りもしない。急いで彼女の後を追いかけた。

「杏里、待て、そっちは川だ」

杏里が川の淵に足をつける前に何とか腕を引いて引き留める。

「杏里…」
「…帰りたい」
「帰るも何も、そっちは家じゃないだろう」
「…」
「おい、杏里!」

俺を引きずるようにして、とうとう杏里が川へと足を踏み入れた。
パシャ、と俺の足にも水がかかる。その冷たさに焦りが募る。

「杏里…待ってくれ。ま、まだあの子が彼女だと決まったわけじゃ…」

言いながら違和感を覚えてもいた。
現実的でクールな杏里がこうまで取り乱すものだろうか。
しかしこのままでは、杏里は確実に入水自殺してしまう。それ程杏里の力は強かった。
水は膝上まで迫ってきていた。水を吸った浴衣が足にまとわりつき、動きが鈍ってくる。
それでも杏里はなお、より深い所へ行こうとしていた。

「杏里」
「……かえりたい」
「杏里、待ってくれ、俺を置いていかないでくれ…!」

思わず後ろから杏里を抱き締めた。
弾みで杏里の赤いバレッタが外れ、黒い川底へ飲み込まれたのが目の端に映った。
これ以上奥へと進まないように岸の方へ体の力を掛け、杏里を抱き寄せる。ほつれた髪の垂れるうなじから水の匂いがした。

「…杏里、」

この役目がおそ松だったなら、杏里を救えるのだろうか。

「俺は、お前が――」

そう口にしかけたところで妙なことに気付いた。
力無く垂れた杏里の腕の先の、金魚の袋。
暗くて見えにくいが金魚が激しく暴れている。
狭い空間の中で動き回っているそれは、透明な壁を突き破ろうとしているかのようだった。
俺はすぐさま片手で袋を奪い取り、歯でビニールを噛みちぎった。
べろりと破けた穴から水と共に真っ赤な金魚が飛び出し川へと落ちる。
その瞬間、大きな黒い影が俺達の側に浮かび上がり、素早く川の上流へ泳いでいった。
金魚の大きさでも、形でもなかった。

「…………ん……冷た…え、何これ」
「杏里!」
「…え?何、これどういう状況?何で川…?」

きょとんとしている杏里をもう一度抱き締めた。



ひとまず河川敷のベンチに座り、浴衣を乾かしながら聞けば、杏里は俺の後を付いて歩き始めた辺りから記憶が曖昧なのだという。
俺の声も、聞こえるものの意味は理解出来なかったらしい。

「でも、必死に呼び掛けてくれてたのは分かったよ。ありがとね」

ああ、いつもの杏里だ。俺のスウィートハニー。
夜になって出てきた夏風が杏里の髪を揺らす。この調子だと浴衣もすぐに乾くに違いな、……あ。

「杏里、その…バレッタ、なんだが」
「え?あれ、どっか行ってる」
「お前を引き留める時に外れて…川に流されてしまった」
「ああ、そうなんだ…気に入ってたけど、しょうがないよ」
「すまない」
「いいよ。私やカラ松まで流されなくて良かった」
「…気に入ってたのか?その……」
「え、うん、まあ」

杏里はにわかに言葉を濁した。

「だって、カラ松がくれた花だし」
「…ん?」
「初めて会った時にくれたでしょ。花束」
「ああ…確かにあげたが…」
「あんなの人にもらったことなかったから。嬉しかったんだよ」

恥ずかしそうにはにかむ杏里はそれまでのクールな印象とのギャップで果てしなく可愛かった。
いや、ちょっと待て。

「杏里、俺があげたのはバラの花束だったはずだが」
「うん…え?だからバラの飾りを…」
「あれはラナンキュラスだぞ。葉の形がバラとは違う」
「えっ、あれバラじゃなかったの?」

顔を見合わせた俺達が同時に笑い出した時、ちょうど川に花火が映り始めた。体を震わす重低音が少し遅れて耳に届く。

「わ、綺麗」
「フッ…今のお前には劣るがな」
「そんなこと言うのカラ松だけだって」

色とりどりの光を映して笑う杏里を見て、俺は全ての花が咲き終わる前にさっきの続きを言えるだろうかと考えていた。