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「杏里ちゃん、迎えに来たよ」

一松くんが私のアパートに顔を出したのは昼過ぎのことだった。
そうそう、ちょうど出ようとしてたところだった。
考えてみれば一松くんはいつもふらりとやって来るけれど、決まって他に用事がない時だからすぐに出かけられる。タイミングがいいなぁ。
さ、行かなきゃ。一松くんが待ってる。
ベッドから起き上がると視界がゆらめいた。床に下ろした足にも力が入らずに、壁に手を付く。
最近はずっとこうだ。けど、別に不都合は感じてない。一松くんと出かける時ぐらいしか外には出ないんだし。
ランプの光るスマホや何かのノートを踏み越えながら何とか玄関口へ出ると、一松くんは足元のおぼつかない私の手を取ってくれておはようと言ってくれた。その瞬間、少しだけ体に力が戻ったような気がする。
一松くんは反対の手に傘を持っていた。大きい紫の和傘だ。
珍しくて眺めていたら、手慣れた感じでふるりと傘を揺らし、広げた傘の下へ私を招き入れてくれた。
竹の骨の隙間から太陽の光を透かした紫の和紙がきれい。昼なのに夜の星空が広がっているような。
それに今、相合い傘してるみたいでちょっと照れてしまう。
竹の柄を持つ一松くんはそんなこと気にしていなさそうな、普段の眠たげな顔で私をちらと見下ろした。
でも紫の影が落ちているせいなのか、今の一松くんは妖しい雰囲気が強い。
目尻の赤は濃く鮮やかで、薄い口の端がゆるりと上がっていくのがスローモーションのようにゆっくりと映った。

「行こうか」

どこかでさあっと雨の降りだす音がした。



雲一つない空の下、私は一松くんと六子山の最後の山へ来た。
ここは私のお母さんが眠る場所。お墓参りによく訪れたっけ。
何だか遠い昔のことのように思えた。
墓地までの坂は木と草以外何もない寂しい道だけれど、一松くんと紫の傘の下にいるとその景色も違って見える。
坂を上りきり、墓地へ入り、小山家と彫られたお墓の前へ一松くんと立つ。
一松くんは何か挨拶しているみたいに見えた。
それから私の方を振り返って、これからはお母さんともずっと一緒にいれるからねって優しい目で笑った。私も嬉しくなって笑った。
こっちだよと促す一松くんに付いていくと、墓地から坂を下る途中に石階段があった。
もう長い間誰も足を踏み入れていないようで、石階段とは言ってもほとんどが土と草で大きく崩れてしまっていたけれど。
こんなところあったっけ、なんて思っていると、ここで杏里ちゃんと初めて会ったんだよと教えてくれた。

「覚えてる?」

そう言われるとそういう気がする。私は頷いた。
一松くんは崩れた階段を上り始めた。
私もその隣を付いていく。
ここは草木に覆われた空間になっていて涼しい。葉っぱが風でそよぐたび、傘にちらちらと陽の光を落としている。
階段はどんどん山の奥へ入り込み、さっきから聞こえるおぼろげな雨の音しか耳に入らなくなった。
階段を上りきると、今度は平坦な土の道が伸びていた。
道の真ん中にこっちを向いて座る一体の狐の石像がある。
古びた像だ。細身の体の後ろから、太い尻尾が炎のようにいくつも立ち上っていた。
これと似たものを見たことがあったような気がする。

「…さて。そろそろ昔話をしないとね」

一松くんはその像の方へ歩いていった。
私は何となく、もう傘の下から外れてはいけない気がして、ちゃんと一松くんから離れないようにした。

「昔は人ともそれなりに付き合いがあったけど、一度怖がられると駄目だね。不安が疑心暗鬼になって敵意になる」

それにしても尻尾、何本あるんだろう?
目で数える前に像を撫でる一松くんの体で隠れてしまった。

「いつからか災難は全部俺のせいにされるようになった。どこまでも追われて、逃げ込んだここも荒らされて。俺は何もしてないのに」

だから引き込もってた、と一松くんは続ける。
そういえば一松くん、家にずっと引き込もってたって言ってたな。

「祟るって思われた方がまだましだったのかもね。俺はなされるがままだったから、荒らされるだけ荒らされた後はすっかり忘れられた。同時に力も弱ってきて…まあこれは俺の気の持ちようの問題だったんだけど」

いつだったか、俺は強いから、と言われた記憶がぼんやりと蘇った。

「たまにみんなが訪ねてくれてたけど、出ていく気がしなくて…このまま力も衰えきって、朽ちていくと思ってた。でも」

一松くんがゆっくり私を振り返る。

「……人はもう信じる気にならないけど、杏里ちゃんは別」

私の自意識過剰かもしれない。でも、うっとりと私を見つめる紫がかった赤い瞳がきれいだなと思った。

「あの時のお礼、まだ言ってなかった。ありがとう、杏里ちゃん」

ぼうっと見ていると、一松くんは私の好きなあの薄い笑みを浮かべて先を進み始めた。
土の道はいつしか割れたり欠けたりしている石の道になって、深い森のさらに奥へまっすぐ伸びている。
隣の一松くんがまた口を開いたのが、見ないでも気配で何となく分かった。

「…人をこっちに連れて来るのには、いくつか制約があって」

陽の光を浴びてキラキラしていた緑色の葉が、進むにつれてだんだん青く、黒く、ぐにゃぐにゃと曲がって見える。

「昔は簡単にできたみたいだけど、今は前ほど下界との境界線が緩くない。人との関係も変わったしね。だからまず俺達の存在をちゃんと知ってもらわなきゃいけなかった」

どこからか煙が漂ってきて私たちを取り巻いた。狭くなった視界に白が増す。

「俺の場合、兄弟の許しをもらうのも必要で。相手と一緒に挨拶に行くのが決まりだから、めんどくさいけど久しぶりに外出た」

色々連れ回してごめん、と一松くんは言った。
いいのにな、そんなこと。一松くんとあちこち行けて楽しかったよ。

「…本当はみんなに杏里ちゃんのこと紹介したくなかった。人が来るのは久しぶりだからね。みんな珍しがって。横取りしそうな奴もいるし。でも決まりだから…めんどくさいけど」

石の道はどんどん赤黒くなっていく。
歪んでいた草木はいつしか縦や横に伸びて、見たこともない何かの形を作り私たちを見ていた。

「こんな行事も久しぶりだから、みんな見に来てるね」

そうなんだ。ちょっと恥ずかしいかもしれない。
少し顔を伏せて歩き続ける。
そのうち雨の音が大きく近づいてきて、目の前の煙が少しずつ左右に割れ、道の突き当たりが見えだした。
色も剥げ、朽ちかけた鳥居。
そこから続く飛び石の先には小さな祠。
どちらも辺りを埋め尽くす伸びきった草に半分隠れるようにして静かに佇んでいる。
石灯籠がいくつかあるのも見えた。草の陰に倒れているものもある。
きっとこの山の中で一番拓けていた場所だったはずなのに。一番寂しい感じがする。
ここなんだ、って思った。
何が『ここ』なのかは分からないけど。

「…あ、あんまり見ないで。一応掃除とかしたけど…ずっとほったらかしにしてたし…」

一松くんがばつが悪そうに言う。

「そんなに広いとこじゃないけど。…これからはもう少しどうにかできると思う。杏里ちゃんがいるから」

黒の羽織から伸びる手が改めて傘を握り直し、雨の音に背中を押されるように鳥居へと歩きだす。
何だか歩きにくいなと思ったら白く裾の長い着物を着ていた。
いつからだろう。ずっと前から着ていたみたいに体にしっくり馴染んでいる。
ああ、だからずっと体が重かったのかも。
今はこの重みが厳かなものに感じられて、少し誇らしいような、取り返しがつかないような、変な気持ち。
二人で鳥居の真ん前に立って覗いた向こうの空は、どんよりとした気だるげな黄色で、小さく見えた祠は大きなお社になっていた。
石灯籠は飛石に沿ってきちんと並んでいる。
ぽろぽろと軽やかな音が今までで一番近くで響いた。青い空から雨粒が落ちてきているのも見えた。
だけど、私たちの頭上の傘は音を立てない。

「杏里ちゃん、狐の嫁入りの話してたよね」

そうだね。一松くんと初めて会った日に話したこと。
狐は嫁入りの時に雨を降らせる。
人の目に触れないようにするためで、狐の世界では伝統。そう言ってた。
小さな頃の私は、どうして雨を降らせて歩きにくくするのか、花嫁衣装も汚してしまうのにって疑問に思っていた。
けど違った。
雨が降るのは花嫁行列の周りだけだ。幸せな二人の上には雨は落ちてこない。
でも、傘はさすんだよね。
人間の花嫁行列も同じ。朱色の傘が新郎新婦を厄災から守ってくれるから。
それに、傘の下にいると二人きりの世界になったような気がするから…だったら素敵。今、そんな感じだもの。

「いいね、それ。…本当にそんな気がする」

伝統も馬鹿にするもんじゃないね、とすぐ隣で低くささやかれる。
傘に守られて、このささやきは私にしか聞こえない。
私はこの声が好きだって思う。私の体に染み渡る声。いつも頭の中で響いていた声。
その声が私を歩かせる。
静かに鳥居へ一歩踏み出した一松くんと同じく、私の足も動く。
だけど、鳥居をくぐる前に、なぜだか私の足だけ止まってしまった。
鳥居の向こう側で一松くんが振り返る。目を見開いて、驚いたような顔。

「………ああ、そうか。俺の正体言ってなかった」

焦った、と呟きながら、一松くんは手首をゆるりとひねり、傘で自分の体を隠すようにした。
その紫の円が元の位置に戻ると、傘の陰から現れた一松くんの姿はさっきまでとは違っていた。
手品みたいに一瞬だった。
頭には大きな三角の耳。腰には毛並みのいい大きな尻尾。
尻尾は九つあって、孔雀の羽のように一松くんの後ろに広がっている。
風もないのに黒の羽織がひらひらとはためいた。
初めて見る一松くんの姿に魅せられていると、一松くんもじっとこっちを見る。
そして、俺は、と言いかけて一度口を閉じた。

「…俺が何か分かる?」

当ててほしいみたいだった。期待に応えたくて、消えかけた記憶をたどる。
犬や猫とは違う三角の耳、それに九本の尻尾。
…九尾の狐だ。
確か講義で聞いたことがある。…こうぎ。こうぎって何だっけ。

「正解。さすが杏里ちゃん」

ぴんと頭の耳が立ち、ふわふわとした尻尾が揺れた。

「杏里ちゃんなら、俺のこと見つけてくれると思った」

一松くんがいかにも幸せそうに笑う。

「…おいで。杏里ちゃん」

雨で湿った空気は、いつか飲んだお酒の味がする。
飛石の周りに咲くのは、いつか飾られた花に似ている。
石灯籠の灯りは、パチパチと青い炎をはぜている。
うっすらと漂う煙は、異国の茶葉の香りがする。
ぱらぱらと降り落ちる雨に混じって、鈴の音がした。
そう、いいことがあった時に鳴るものだって一松くんが言っていた。
だから私もきっと今幸せなんだと思う。

差し伸べられる一松くんの手を取りたくて、鳥居の中へ足を踏み入れた。