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ヒーローに助けられた一週間前のことを思い浮かべながら、今日も夜の居酒屋に立っている。
あのカリスマレッドと名乗った彼に言われた台詞は私の中に残っていた。
確かに今まで店を失った悲しみに囚われていて、自分が笑えているかなんて考えていなかった。
仕事が一段落ついた隙に、ひっそりと頬を指で押し上げてみる。
自分は今自然に笑えているだろうかと意識することが多くなった。
カフェにいた頃と同じように笑えれば。
そうすれば、彼に今度は何と言ってもらえるだろうか。

「何かいいことあった?」

今日も飲んだくれている常連に「はい、少し」と微笑みを返す。
自分でも前より接客の仕方に丸みが出てきたように思う。
接客業なのだからある程度の笑顔は必要だ。そんなことも頭から抜け落ちていたほど、以前の自分には笑顔も余裕もなかった。
あのヒーローは危機だけじゃなく、私の心も救ってくれたらしい。

「なになに?好きな人でもできた?」
「え…そう、なのかもしれません」

明確な恋愛感情というより、憧れに近い気持ちだけれど。
「マジ?」と呟いた常連の空のビール瓶を片付け、厨房に戻る。
心は軽くなったが、結局あのロボ男の目的は分かっていない。
あの時持っていたのは財布と携帯ぐらいだ。お金が欲しいわけではないと言っていたが。
人違いだったのだろうか。
炒飯を持って表へ戻ると、「今日何時に帰んの?」といつも通り絡んでくる常連。

「十一時は過ぎますね」
「遅っ。あと三時間もあんじゃん。送ったげよっか?」
「いえ、間に合ってますので」
「彼氏?」
「…あなたこそ早く帰ったらどうですか?ご家族が心配しますよ」
「ないない。今喧嘩中ー」

とにかく早く帰りな、と心配してくれているらしい常連にお礼を言って下がった。
察するに、アーカツカシティに蔓延っていた悪が近隣のこの街に流れてきているのだ。
またあんなことが起こらないとは限らない。用心するに越したことはないだろう。

とは言いながら、一般人の私には能力者の追跡を掻い潜るなど無理だったのかもしれない。
常連から忠告された、まさにその日の帰り道にまた例のロボ男と遭遇してしまった。

「パワードスーツの修復に一週間もかかってしまったダス」

それは私のせいではないのだが、彼の中では私に対する恨みとして増幅しているようだ。
今度は逃げ出す暇もなく、大きなごつい手で捕らえられてしまった。
抜け出そうともがく。
しかしびくともしない。

「んんっ…」
「それを渡しさえすればすぐにでも離してやるダス」
「だから何なんですか、それって」
「『キューブ』の欠片ダス。高性能キューブ探索装置が、君のポケットにあることを示しているダス」
「……は?」

欠片、と言えばあの子にもらったあれしかない。
確かにお守りのようにいつも、あの時も持ち歩いていたけれど。
照明の破片ではなく、この男が探している『キューブ』という物だったのだろうか。
抵抗しなくなった私を見て男が手を緩めた。
半信半疑になりながらポケットから欠片を取り出す。
不思議なことに一人で見ていた時にはただのガラスの破片だったのに、取り出したそれは男の力に反応しているのか夜の闇の中で光を放っていた。

「それをよこすダスよ」
「…嫌です」
「ダス!?」
「どうせ悪いことに使うんでしょう。絶対渡したくない」

拘束の力が緩んでいるのを良いことに素早く男と距離を取った。
悪者に協力する義理はないし、あの街を消したかもしれない張本人なら尚更手は貸したくない。
欠片を手の中に握り込んで彼を睨み付ける。

「言うことを聞かないのなら、無理やりにでも研究所に連れていくしかないダス」
「…もしかして、行方不明事件もあなたが」
「何人かはやったことはあるダス」
「そんな人に渡すわけにはいかないですね。死んでも」
「聞き分けの悪い子ダス」

私を捕まえようと宙に浮き始めた男を見て、咄嗟にすぐ側の団地の中へ逃げ込んだ。
時間稼ぎと、狭い入り口の団地には入ってこれないだろうと思った上での行動だったが、男はすぐさま横壁を破壊し体を潜り込ませてきた。
伸ばされた手をすんでのところで逃れ、団地の裏手から茂みを掻い潜った。
人気のない何かの施設に面した、暗い道を走る。
結果的に少し時間稼ぎにはなったが…恐らく捕まるのは避けられない。
こんな時に彼がいてくれたら。

「…カリスマレッド…」

陳腐に思える名前でも、心細い時にはひどく頼りがいのある響きを持つ。
そんな掠れた声の呟きは、すぐ横の金網フェンスがぐしゃりとへしゃげる音にかき消えた。

「…っ…」
「さあ、来てもらうダス」

潰された金網の上から手が伸ばされる。
少しでも抗おうとちっぽけな鞄を握り締めた時。


「俺のこと呼んだ?」


振り返った星空の中に赤い光が見えたかと思えば、景色が一変していた。
眼下に街の灯り。
背中と膝裏に力強い腕。
少し冷たい風が体に当たる。

「ごめんねぇ、勝手にお姫様抱っこしちゃって」

忘れもしない、眼鏡の奥の人懐っこい瞳。

「え…あっ…!?」
「あー動かないで、落ちちゃうから」
「わ、きゃ…」

思わず彼の首に腕を回す。
ここは地上から遥かに高い場所だ。
どうやら助け出されたらしい。

「っあー…いいねぇ。ヒーローやってて良かったわ〜」
「な、何で、ここが」
「俺のこと呼んでくれたでしょ?女の子のピンチにはすぐ来ちゃうよ」

おっさんは知らねーけど、と軽口を叩く彼に心細さを忘れていく。

「ヒーローはどんな人でも助けるんじゃないんですか?」
「ヒーローだって人間だよぉ?そこらのおっさんと君だったら優先度違うに決まってんじゃん」
「…ふふふ」

何だかこの人の前では自然体で笑える気がする。

「あ、やっと普通に笑ってくれた」
「え…」
「イチャつくのはそこまでダス!」

私達を追って飛んできたらしいロボ男が、いつの間にか背後に迫っていた。
それでもヒーローは表情を崩さない。

「チッ、懲りねぇなー。雰囲気察してるんなら邪魔すんなっての」

いや、不機嫌そうな顔になった。
「ちょーっと待っててね」と私を近くのビル上の看板に座らせ、彼は光速の如く男に向かっていく。
男のパワードスーツは前回よりパワーアップしているようで、見くびるなダスなどと遠くから聞こえてきた。
が、やはり一撃で倒されていた。
茶番かと思うぐらい今回も呆気なかった。
どこかが故障したらしく、火花を散らしながら退散していく男。
あんなにも強いヒーローがいるのに、なぜクレーター事件が起こったのかとふと思った。

「あー疲れた。雑魚の相手しんどーい」

戻ってきたヒーローは看板に腰掛けている私のぴったり隣に座った。
間を空けようにも、高所かつ不安定な場所のため身動きはできない。
しかも急な下からの風に揺らいだ私を見て、これ幸いとばかりに肩を抱かれた。安定はするので無下に振り払えない。

「やー君も災難だったねぇ、変なおっさんに二度も狙われちゃって」
「あ…それなんですが、これを狙ってたみたいなんです。知ってますか?」

男が狙っていた物なら、彼も知っているかもしれない。
手の中の欠片を見せれば、案の定…というより、予想以上に彼は驚いていた。

「な、何で持ってんの!?これ…!!」
「知ってるんですね」
「いやこれ探してたんだよ!どっこ探しても見つかんなくてさ!」
「元々あなたの物だったんですか?」
「そ。パワーの源的な?だからあいつらも狙ってたんだよな〜」
「そういうことでしたか…」

ならば彼に返す以外の選択肢はない。
手渡すと彼はガラスの塊のような物体を取り出した。
それがキューブなんだろう。松の形をしたそれは、右下が少し欠けている。

「この部分が全然見つかんなくて。君が持ってたとはねー。やっぱ運命かも!」

彼が欠片をそこに合わせると、ぴたりとくっついて離れなくなった。

「これ、何なんですか?キューブって…」
「俺もあんまり詳しくは知らないんだけど、これを手にした者は宇宙を支配できるぐらいの力が得られるんだって」
「え…!」
「てことでぇ、俺はこの瞬間から宇宙を統べるカリスマ!的な?いや〜あいつらの悔しがる顔が目に浮かぶようだわ〜」

へらへらと笑う彼からの言葉はにわかには信じがたい。
それが表情に出たのか、「信じてないね?」と顔を近づけられる。

「う…はあ、正直…」
「んじゃ、君の願いを何でも一つ叶えたげる!キューブ見つけてくれたお礼、ってことで」
「願いと言われても…」

反らした目線の先に、街の灯りが全くない黒の円があった。

「…じゃあ、アーカツカシティを元通りにしてくれますか?」
「それだけでいいの?多分だけど、もっとすごいことできるよ」
「…私、すごく好きだったカフェがあって。そこで働いてたんです。あの店と街が元通りになったらって、今でも考えるんです。そのカフェにいる時が一番楽しかった…から」

辿々しくそう言うと、彼は「ふうん」と何かを考えるような顔つきになった。

「カフェねえ。偉いねぇ働いて。店の看板描いたり、花の手入れとかもするんでしょ?」
「そうです。よくご存じですね」
「知ってるよ」
「え」

どこか真剣な口調にドキリとしたが、彼は「だって俺カリスマだからぁ」とへらりと笑った。

「オッケー。じゃさくっとやっちゃうか」

看板の上に立ち上がった彼は何やらキューブに念を込めた後、「アーカツカシティよ復活しろ!」と叫んだ。
辺りは変わらずしんとしている。

「……今ので効果あるんですか?」
「手応えは感じたけどなー。てか今のでキューブの力けっこう減った気すんだけど、まだ使えんのこれ?」
「さ、さあ…それは私には分からない感覚ですけど」
「あは、そうだよねー。とりあえず見に行く?」

先程の戦い同様茶番を見せられた気になったが、彼の誘いに乗りお姫様抱っこで街の上空まで連れて来てもらった。
近くまで降りて来ると、闇の中に薄ぼんやりと建物が見える。
何事もなかったように元の街並みが存在していた。

「本当だ…!」

思わず身を乗り出した。
夢を見ているようだ。
街をぐるりと取り囲むバリケードが、かつてここが荒れ地だった事実を伝えている。

「ま、俺にかかればこんなもんかなぁ」
「…ありがとうございます…っ!」
「は、ちょっ…!」

嬉しさの余り彼に抱き付いた。
勢いで体がぐらついたが、彼はしっかり支えてくれた。

「きゅ…急激なデレ…!!」
「えっ?あ、すみません、つい…」
「いやいいよ!?全然いいけどね!?っはー…いきなりはヤバい…」
「ごめんなさい…でも、本当にありがとうございました。これで店に戻れます!」
「…ん、よかった」
「あなたのお陰です」

台詞は時々軽いけれど、この人は本物のヒーローだ。
じっと見つめると、彼は照れくさそうに笑った。

「本当に俺に感謝してんならさぁ、その、キ…キスとかしてくれたりしない?」

本物のヒーロー…だ。多分。

「…家まで無事に送り届けてくれたら考えます」
「マジで!?よし、任せろ!」

俄然やる気を出し始めた彼に、私の中のヒーローの定義が揺らぐ。
ご機嫌で自宅まで送ってくれた彼は、私を玄関の前に下ろすとすぐさま両手をドアにつき、腕とドアで私を閉じ込めた。
「約束したよね?」と近付いてきた目は獲物を狩る肉食獣のそれだ。
しかし私も夢にまで見た店の復活を目の当たりにして、いつもより少し開放的な気分になっていた。

「め…目、閉じててください」

彼の肩に手を掛け、緊張しながらも初めてのキスをする。
ただし口にではなく頬に。
それでも彼は満足したようで、私が離れた瞬間からヒーロー形なしのデレデレした顔を見せた。

「…本当、あまりヒーローらしくないですよね」
「ヒーローらしいとかよく分かんないんだけど。人助けしたらヒーローじゃないの?」
「そうですけど…普通見返りは求めない気が」
「助けた人の笑顔が何よりの報酬的な?まーそれはそうだけどさぁ、せっかく君と会えたんだから何かしてほしいとも思うじゃん」
「そんなこと言って、他の女の子にもこんなこと迫ってるんでしょう」
「そりゃ言ってみるよねぇ。してもらえたらラッキーだし!」
「おやすみなさい」

さっさと鍵を開け、部屋に入ってドアを閉めた。
ちょっと見直してたのに、やっぱり軟派な人だ。
「ちょっと待った!今のなし!」と慌てる声を背中で聞き、くすりと笑う。
慌てる声がだんだん情けない弱気な声に変わっていくのに気付き、半分ドアを開けてみた。
不安げな顔が一転、満面の笑みを浮かべる様子を見て、つられてまた笑ってしまう。
同時に、私はちゃんとこの人のことを好きになったのかもしれないと思った。
良くも悪くも自分の心に一番素直で、言葉はおおよそヒーローらしくはないけれど。

「また、会えますか」
「もちろん!君がピンチの時にはすぐ飛んでく」

でも彼はヒーローなのだ。
私が独り占めしていい人ではないのではないか。

「それじゃ、おやすみ」
「…おやすみなさい」

彼の飛び去る後ろ姿を、しばらく眺めていた。



アーカツカシティが一夜にして元通りになった事実は、翌日のトップニュースになっていた。
テレビも新聞もこぞって奇跡の復活と書き立てたが、どうして復活したかは誰にも説明がつかなかった。
住人は続々と我が家に帰り、元の生活が始められたようだ。
早速カフェも営業を始めるとのことで、私にも店長から連絡が来た。
正式な正社員採用の旨も。
働き始めた頃より居酒屋にも愛着がわいていたものの、やはりカフェに戻ろうと決めた。何せ私の願いで復活したのだから。
急な辞職にも関わらず、快く送り出してくれた居酒屋の店長には感謝の言葉しかない。
最後にあの常連だけにでも挨拶していこうかと思ったが、毎日のように来ていたその人は勤務最終日にもとうとう姿を見せなかった。
考えてみれば、居酒屋に入った最初の頃から何かと気にかけてくれていたただ一人のお客さんだ。
余裕のなかった時期にはずいぶんとそっけない態度を取っていたと思う。
謝罪と感謝の言葉くらいは言いたかった。
少し寂しい思いに駆られつつ、私は居酒屋を後にした。

久しぶりに足を踏み入れたアーカツカシティは見れば見るほど、一時期跡形もなくなっていた場所とは思えない。
カフェも何もかも元通りだ。
私がその破片を持っていたと思っていた照明も、ラテンジャズのBGMの中でキラキラと輝いている。
懐かしい制服をスタッフルームで渡され、正社員を示すバッジと共に身に付けて店に出れば、店長や仲間が「お帰り」と出迎えてくれる。
今日からまたこの店で働ける。
そう考えると自然と口角が上がった。
あの人は今日も誰かの笑顔を守るために、この街のどこかで戦っているんだろうか。
最後に会った時はずいぶん柄にもないことをしてしまった。
浮かれていたとは言え彼氏でもない男に…でも、好きな人ではあるからいいのだろうか。
あちらの口振りからするに、私は大勢の女の子の中の一人としか思われていなさそうだけれど。
押したらキスしてくれる子がいてラッキー、ぐらいにしか捉えていなかったりして。
何となくその考えがしっくり来て自嘲の笑いが溢れる。
キューブも返したし、そもそも彼と私の繋がりは希薄だ。
彼の名前もヒーローネームしか知らない。あちらも私の名前を聞かなかった。
これは望み薄だな、とぼんやり思う。

「いらっしゃいませ」

仲間の発する声に慌てて意識を切り替える。
正社員になって最初の勤務だ。きちんとしなければ。

ブランクはあったが体は仕事の一つ一つを覚えていて、滞りなく一日の職務を終えようとしている。
今日の勤務は十九時まで。
客足は途絶え始め、店内にもお客さんは数えるほどしかいない。
裏方の雑務をこなし、残り僅かな時間をカウンター内で過ごす。
BGMが流れるだけの落ち着いた空間で簡単に売上の確認をしていると、ドアベルがりんと鳴った。

「いらっしゃいま…せ」

声をかけた先に思わぬ人がいた。
居酒屋の常連だった人だ。
いつもの赤いパーカーを着ていたその人は私の驚きに気付き、「また会っちゃったねぇ」とへらりと笑った。

「どうしてここに…」
「別にストーカーじゃないよ?」
「いえ、そんなことは思ってませんが」
「そ?ならよかった」

そう言うと私のいるレジの前まで来て、カウンター上に腕を組んだ。

「実は俺んちここの隣なんだよねー」
「えっ!?そうだったんですか!?」
「知らなかった?」
「…すみません、お見かけしたことがなかったもので」
「まあ俺も来たことはなかったし。自分ちの隣のカフェってなんか入りづらくね?」

私ならずっと入り浸る、羨ましい、と思ったが、私が答える間もなく「今日何時まで?」と聞かれる。

「はあ、七時までなのでもうすぐ上がりますが…」
「マジで?じゃ待ってよっかな〜。お喋りだけでも、どう?」

居酒屋にいた時なら何だかんだ理由を付けて断っていたが、なぜか「いいですよ」と口が動いた。

「ほんと!?っしゃあ!とうとうなびいてくれた〜!」
「ちょ、ちょっと、別になびいたとかそういうのでは」

大声にお客さんがちらと目線を上げ、カウンターの隅で店長とバイトの子がにやにやしている。恥ずかしい。
そんなことにお構いなしのその人は、「あそこで待ってる!」と奥のテーブル席を指した。

「わ、分かりましたから、お静かに」
「もー、また眉間にシワ寄ってんじゃん。可愛いのに台無しだよぉ?笑って笑って」

むに、と熱い頬が指で上げられた。

「な…!」
「あ、こん中で一番安いやつってどれ?それ二つね!俺のおごり」

おごりということは私の分も入っているのだろう。
二重の意味で「ありがとうございます」と言いながら、一番安いメニューを二つ、紙ナプキンと共にお皿の上に乗せてあげた。
ちょうど時計が七時を指し、その人は鼻歌を歌いながら指定した席へ向かっていく。
私も店長達の好奇の目に晒されながらスタッフルームへ入った。
そうしてロッカー前で着替えながら、先ほど感じたデジャブについて考える。
笑ってと言われながら頬を触られたこと。
それはあの人に初めて会った日にされたのと同じ仕草だ。
そんなことを知り合って間もない人にするだろうか。ただの偶然だろうか。
ふと気付いてしまうと、それを切っ掛けにクレーター事件からの色々な出来事が結びついていく。
私が笑顔でいるか気にしていたのは、あの人と彼の二人だけ。
カフェの隣に住んでいたあの人と、私のカフェでの仕事を『知っていた』と言った彼。
彼によってアーカツカシティが復活した後、タイミングを見計らったようにここに来たあの人。
トレードマークらしき赤い服。
少し軽い言動と、あの人懐っこい笑顔は。


「お待たせしました」と彼の正面の席につく。

「んーん、ぜんぜん」

彼は壁を見つめて何もせず待っていた。

「そういえば、居酒屋ではありがとうございました」
「俺何かしたっけ?」
「ここから少し遠いのに、よく通ってくださって」
「あ〜…そゆことね、うん」

お冷やを一口、音もなく飲んだ彼は「あのさぁ」と姿勢を改めた。

「ま…ま、前からちょっと、君のこと見かけてて」
「そうなんですね」
「そう、あの、ほら、隣だし。うちの」
「ええ、そうみたいですね。びっくりしました。私気付いてなくて…」
「いや、俺も別に声とかかけなかったというか見てるだけで精一杯だったっていうか…んんっ、それでぇ、あのー…よかったら…」

さっきまでの強気はどこへやら、下を向いてかなり緊張している彼の言葉を待った。

「…良かったら?」
「……」

何か言おうと口を開いた彼は、きゅっと一瞬眉を寄せ、鋭い目で私を見た。

「そ!そういやなんか、好きな人できたとか、言ってなかった…?」
「ああ…そうですね、言いましたっけ」
「それ、どんな奴…?」

彼は気持ちがすぐ顔に出る。
打って変わって元気のない表情になった彼にどう言おうかとしばし迷う。

「…あなたに似た人、です」

私としてはなかなかに踏み込んだ好意的な返事だったのだが、すぐに答え方を間違えたと思った。
なぜなら彼はみるみるうちに絶望的な表情を浮かべたからだ。

「あ…えっと」
「誰!?どれ!?何番目!?」
「な、何番目とは」
「俺長男!六つ子の一番目!」
「…六つ子?」

聞き慣れない言葉が出てきた。
六つ子、というのは同い年で同じ顔の六人兄弟ということか。
そんな兄弟がここの隣にいたなんて知らなかった。そこそこの衝撃だ。
どうして今まで知らなかったのか不思議なくらいだ。全員揃って朝は早く夜は遅い仕事とか…
いやそれよりも、彼が六つ子だとすると私のさっきの答えは曖昧すぎる。

「えっと、そうではなくて…」

慌てて言い直そうとするが、店のドアが激しく開く音で口をつぐんだ。

「どうされました?お客様」
「い、今駅前で、怪物みたいな奴らが暴れてて、逃げてきて…」

またあのロボ男だろうか。そう思いながら私は彼を盗み見る。
その目はもう信念に満ちていた。
続く店長とお客さんの会話を聞きながら彼が立ち上がる。

「ごめん、話の途中でほんっとごめんだけど、ちょっと用事思い出した」
「はい」
「でもまたここ帰ってくるから!待っててくれる?」
「待ってますよ」
「ごめん、ほんとすぐ終わらせてくる」
「知ってます」
「え?」

一瞬怪訝な顔をした彼だが、その意味には気付かなかったようだ。

「それじゃちょっと行ってくんね。帰んないでね?」
「はい。行ってらっしゃい」
「行ってきまーす。へへ、女の子に言われるとやっぱやる気出るよねぇ」

独り言を呟き外へ向かっていく彼の後ろ姿から、テーブルの上へ視線をずらす。
私と一緒に食べるつもりでいてくれたのか、お皿の上は手つかずだった。
二つ並んだそれは、彼が掛けていた眼鏡のように見える。
ひょんな遊び心を起こして、それぞれ片手に一つずつ持ち、目の前でくっつけてみた。
ドーナツの穴から覗き見た背中は、紛れもなく私のヒーローなのだった。