▼ 01:曖昧な関係に終止符を
現代社会はストレスとの戦い。
窮屈な電車に乗り、ついた会社で毎日くだらない上司のだじゃれを受け流し、そして仕事。疲れ果てた1日は何もすることもなくシャワーに入りベッドに潜る。
そんなルーティンの様な1日をこなすのが精一杯。
そんな私でもささやかな楽しみがある。
PCのモニターを見ながら作業をしているとメールの着信。
私はその内容を見ながらほくそ笑む。
そんな私の様子を見ながら上司が恒例のだじゃれを言っている。いつもはまたくだらない事を言ってないで仕事しろよ、バーコードと心の中で悪態をつくが1通のメールでこんなにも人は変われる。
「コーヒーいれてきましょうか?」
そう、人はこんなにも優しくなれる。
今日は早く仕事を終わらせよう、そっと心に決めてアフター5の楽しみな時間を待ちわびた。
◆◇◆
『Candy Dragon』
と書かれた看板の前に立ち、一呼吸。
まだまだ慣れないこの場所に入る前のルーティン。
そして重い扉を開けるとそこは…。
「お帰りなさいませ、お嬢様。」
そこに広がるのは顔面スペック、作法、全てが完璧な世界。
そして豪華な店内、香る甘いお菓子の香り。
普段はどんなに死んだ魚の様な目をしている私でもここではぱっちりと目が開き、そして少しだけ背筋がピンとなる。
そう、ここでは私はお嬢様。
そして80分間の夢のような時間が始まる。
案内された席に座り、すっとカーテンが引かれる。
執事と私の時間。
そして今日のおすすめの紅茶とアフタヌーンティーセットを頂く。
おいしい…。
スコーンのさくっとした食感、そして絶妙なクロテッドクリームが口の中に広がる。
幸せ!!
「今日もおいしいです!」
「なまえお嬢様、ごゆっくりお寛ぎください。」
今日の執事の秋山さんは用があればベルを鳴らしてくださいと一言告げてカーテンが引かれる。ここにはたくさんの執事さんがいてどの人も落ち着いた大人の人が多い。そして少しだけ他と違うのはちょっとだけ危険の香りがするようなちょっと悪い感じの人が多い。
それでも所作は綺麗で丁寧にもてなしてくれる。
そしてその執事の中でもトップに降臨する人物。
「真島さん!今日もありがとうございました。」
行ってらっしゃい、お嬢様。と丁寧にエスコートしている男性。
個室から出てきた女の人に丁寧にお辞儀をしてお見送り。
久し振りに見たかも!
そう、真島さんを指名できる人は限られていて私はまだまだ常連さんではなく頻繁に通えるようなお金もない。
ちょっと嬉しい気持ちになりながら見ていると視線が合ってしまい、思わず気まずくなってしまう。
ドキドキとした気持ちをそっと抑えるように目の前のティーカップを見つめて紅茶を一口。
やっぱり、かっこいいなぁ…。そう思いながらも今日も真島さんを指名できずに80分間が終わる。
それでも、この非現実的な時間が私は好きだ。
嫌な事を全て忘れさせてくれる。
魔法を見せてくれるこの場所が。
◆◇◆
そんな感じで不定期に取れる予約を楽しみながら現実はストレスとの戦い。
今日も遅くなったなぁ…と思いながら溜息を尽きながら鍵を探しているとふと隣に座り込む人影。
何してるんだろう…。
奇抜なジャケットを素肌に羽織り、レザーのパンツ。
項垂れていて顔は見えないが、素肌から見えるタトゥー。
絶対関わってはいけない人!
そう、都会ではスルーが1番。
それが危険から遠ざける術。
そんな事を思いながらも鞄の中にある鍵を少し焦りながら探す。
なんで、今日に限ってすぐにでてこないの!
そんな事をしながらあたふたとしていると、人影が動く。
「なぁ、ちょっとでええから部屋に入れてくれへんか?」
「…………。」
やばい!
そう思いながらもふと見上げると驚きのあまりその場で固まってしまう。
「真島さん!!」
思わずでた言葉がそれ。
そしてイヒヒと笑ういつもと違う真島さんがそこにはいた。
◆◇◆
あの憧れの真島さんが私の家にいて座っている!
なんてシチュエーション!と思いながらも店の雰囲気とは180度違う真島さんのマシンガントークにただただ圧倒される。
「じゃあ、冴島さんと一緒に住んでるんですか?」
まさかの隣りに住んでいた真島さん。
そしてまだ帰ってきていない同じく執事の冴島さんを玄関で待っていたようだ。ちなみに鍵は部屋に置いてきたようで連絡もつかなくてといった所。
なんたる奇跡、おぉ!神よ!
とまさに言いたくなるこの偶然に思わず小さくガッツポーズした私。
「なまえチャン言うたか?」
「…そうです。」
「この事は内緒やで。」
口許に指をまっすぐ1本立てて低い声で言われてただ頷くだけの私。
そしてそんな事をしている間に冴島さんから連絡がきて真島さんは帰っていく。
さっきまで甘い感じになっていた部屋が無機質なものに変わる。
この胸の高鳴りを誰か止めてほしいと。
そう、これはきっと憧れなんだとそっと自分に言い聞かせて。
◆◇◆
それから少しだけお店に顔を出すのに私は緊張してしまうことが増えた。
変わらず私は真島さんの指名は取れず、ふとした時に目が合うとドキドキとしてしまい、目を反らす。
そしてある時には家の玄関で鉢合わせすることもある。
お店の時と違うオフの真島さん。
変わらず派手な様相で今は見慣れてしまったが、気さくに話してくれるこの素の真島さんに惹かれていく自分。
そんな2つの時間を過ごしていく内に私は忘れていたことを思い出す。
[執事との恋愛等は禁止。]
そう、このお店での鉄の掟。
過去にこっそりと付き合っていた人がいたらしく、その後執事は解雇。そしてお客さんの人も出禁に。そんな噂を知っているここの常連さんはみんな心得ている。
「今日も遅いねんなぁ、なまえチャン。」
「こんばんは。真島さん。」
帰り道を歩いていると声を掛けられて振り向くと真島さん。
家までの帰り道、私は真島さんと夜道を歩く。
これが本当の恋人だったらいいのに…。
執事とお嬢様の関係じゃなければ…。
それでも私にとってお店も大事な場所。
堂々巡りの答えの出ない問題。
苦しくて、切なくて、泣きたくなる。
そう、それが恋。
そしてこの想いは隠してひそめて置かないといけない。
そう、それが片思い。
そんな事をぼんやりと考えていたら何かの拍子につまずいて地面に…。
ではなく、すっぽりと抱えられている。
「ちゃんと、前見んと危ないやろ。」
「………ごめんなさい。」
そう話しながらも真島さんは私を抱えたまま。
じっと見つめる瞳。
私も反らすことができずまっすぐ見る。
月の光が真島さんの顔を照らしている。
綺麗…。
そんな感じで見惚れていた。
そして私の視界は黒に染まる。
「ほな、行こか。」
差し出された手を少し躊躇ってから握る。
イマ、ナニガオキタ?
冷静になればなるほど頭が混乱してくる。
そう、真島さんに私はキスをされた。
触れるだけのものだったのに唇にはまだ真島さんの温もりが残っている。
どうして?
なんで?
色々な気持ちがあるのに聞けない。
その日から私はますます真島さんの事を考えるようになってしまった。