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▼ 追憶の香り

いつものように帰宅ラッシュの雑踏にまぎれて歩いていると、懐かしい匂いが鼻をかすめて足を止めた。私の後ろを歩いていたサラリーマンが「急に立ち止まるな」と怒鳴ったが、適当に頭を下げてすぐに辺りを見渡し、その行方を追った。
それは昔、好きだった男がつけていた香水の匂いだった。同じ香水をつける男なんかたくさんいるだろうに、私は必死にその男を探した。しかし見つかるはずもなく、急に寂しいような、懐かしいような気持ちが込み上げてきた。
家に帰る途中、コンビニに寄って当時男とよく飲んでいたお酒を買った。何か肴になるようなものを買おうか迷ったが、昨日きんぴらを作り過ぎてしまったことを思い出して、それを肴にすることにした。

『まったく。なまえは食いしん坊やから作り過ぎてしまうんやで』

帰宅後、いざお酒ときんぴらを目の前にしたら男の声がよみがえってきた。

『その分、俺が食うたるから構へんけどな』

そうだったなぁ。昔からなぜか一人分なのに多く作ってしまって。
しかし男が私と一緒に食事をとるようになってからはちょうど良い量になった。未だに少し多く作ってしまうのはその男のせいだと思う。
お互い貧相な部屋に住んでいた。特に男の部屋は本当に何も無かった。灰皿とラジカセと薄っぺらい布団くらい。それでも妙にその部屋が落ち着くものだから、男に「この部屋いいね」と言うと「おかしなやっちゃな」と笑われた。
部屋に入ると男が吸っていた煙草とつけていた香水の匂いがして、それがものすごく好きだった。そしてその匂いに包まれながら男に抱かれるのも好きだった。

「どうしちゃったのかしらね……」

普段は開けることのない引き出しに手を伸ばし、捨てられず奥深くに眠らせていたhi-liteを取り出した。
煙草は吸わない。一度、男にどんな味がするのか吸ってみたいと言ったら「健康にええもんちゃうからこないなもん吸わんでええ」と怒られた。それでもこれがここにあるのは男の余韻に浸りたかったからだ。
男は突然私の前から去っていた。「もう一緒におられんようになった。幸せになりや」と一言だけ告げて。
男の身体には刺青があった。初めて男が肌を晒した時、「怖いか?」と聞かれたが「怖くないよ」と伝えた。私は何も気にしなかったが男は違ったらしい。近寄りがたい外見とは違い、面白くて優しい人だったから、本当に私の幸せを思って離れて行ったのだろうと思う。

「…げほっ。やっぱり苦い」

久しぶりに吸った煙草の煙に頭がクラクラして咳込む。それでもそれは懐かしく、好きな男の匂いがした。
ぼんやり立ち昇る煙を見ていたら、知らないうちに男が気に入っていた歌を口ずさんでいた。忘れてしまっているところもあるが、男が歌っていたサビの部分はしっかりと歌詞もメロディーも覚えている。男の歌声も。

「ずっと前のことなのにね」

もう十数年も前の話だ。
きっと男の使っていた香水は廃盤になっているかもしれない。当時人気だったこの煙草も今では高年齢層が好む銘柄になってしまったらしい。流行っていた曲もすっかり忘れ去られてしまった。
それなのに今でも覚えているのだ。心に、記憶に、男が刻まれている。

『なまえ〜! 今、帰ったでぇ』

勢いよく扉が開かれ、男が嬉しそうに部屋の中に入って来る。

『あぁ、腹減ったわ。なんやええ匂いやなぁ!』
『今日はきんぴら作ったんだ。煮魚もあるよ』
『きんぴらええなぁ! せやけどまーた作り過ぎたんとちゃうか?』
『ちょ、ちょっとだけね』
『ま、なまえの手料理は美味いからなんぼでも食うたるで』
『こんな時間にたくさん食べたら太っちゃうよ』
『なまえも一緒に食うんやろ? ほんなら太るのも一緒や。お? もう太ってきたんとちゃうか?』

台所に立つ私を男が後ろから抱き締めて、腹の肉をぷにぷにと揶揄いながら摘まんでいる。

『ちょっと〜!』
『……なまえ』
『ん? 何?』
『愛しとるで』

私も愛してるよ。

あの時に言った言葉が、今、私の口から零れ落ちた。
好きだった男の部屋も、好きだった男の姿もない。私はリビングの扉をじっと見つめている。けれど、男は帰って来ない。
だいぶ昔に買った煙草はすっかり湿気ってしまっていた。
中途半端な長さで火が消えた煙草を指に挟んだまま、私は小綺麗な部屋に一人でいる。

「お帰りなさい。……真島さん」

思い焦がれた匂いと共にやってきた男にそう声を掛けた。

私は幸せでした。
あなたも幸せだったのなら嬉しい。
そして今もどうか幸せでありますように。


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