▼ あの子を覚えてる唇に
フラれた。
というより、他の女といちゃついているところを目撃してしまった。
いつからそういう関係だったのか。なんとなくそんな雰囲気は感じてはいたけれど、見て見ぬふりをしていた。
心から、愛してたのに……。
すれ違う人たちは私に見向きもせず、足早に通り過ぎて行く。
そんな当たり前のことがとても寂しく感じるのは、一人になったのだという現実を突きつけられているから。『一方通行』の道路標識ですら憎たらしくてしょうがない。
ただ、一人だけ私を見つめてくれる人がいる。今この時間なら、いつものBARで飲んでいるはずだ。
「よう、久しぶりやないか!」
BARのアンティーク扉を開けば、やはり目的のあの人がいた。
隻眼のヤクザ。1年ほど前にここで声を掛けられ、たまに一緒に飲んでいたけれど、アイツに行くのを止められてからはしばらく会っていなかった。
「真島さん、お元気でしたか?」
真島さんに導かれるまま隣に座り、飲み物を注文する。
3ヶ月ぶりか。相変わらずギラギラしているが、会話の中に知的で紳士的なところが見え隠れして、私は真島さんと話すのが好きだった。
だから彼と話していればそのうちこの喪失感は消えるだろうと思っていたが、現実はそう甘くなく、1時間経っても2時間経っても何も変わらなかった。
「なんや、いつものなまえちゃんちゃうなぁ」
「そうですか?」
「無理矢理元気出しとるって顔やな」
「じゃあ、真島さんが癒してください」
「ほなぁ〜、俺とええことしよか?」
口調はいつものふざけた感じ、でも彼の瞳は私を絡め捕って放さない。
私が肯定の返事をすると、驚いたように短く息が吐き出された。
「なまえちゃん、相当酔ってへん? 何を言うとるのかわかっとるんか?」
「するかしないか……、真島さんはどっち?」
「……そんなもん、答えは一つしかないやろ」
黒い皮手袋の手に掴まれた手首がじん、と痛んだ。
***
私は真島さんの優しさに付け込んだ。
シャワーも入らずお互いの温もりを求め合う。
私の愛が真島さんに向いていないことくらい、きっと彼は気づいているだろう。
それなのに素肌を露にすれば、私がつけられた見えない傷を舐めるように、唇と舌が滑らかに這っていく。
「なまえちゃん、好きやで」
真実か偽りか、そんなことはどうでも良かった。
アイツがしたことがないようなことを、真島さんはしてくれる。
アイツの代わりにはなれないのに、真島さんは好きだと言ってくれる。
胸に開いた大きな穴を、真島さんで埋めて欲しい。
記憶が消えて無くなってしまうくらい、壊して欲しい。
日が昇るまでの2時間だけでいい、真島さんの夢を見させて欲しい。
「俺が……、何もかも奪ったる」
空虚な私の心を反映した瞳を、真島さんの狂気を宿した瞳が貫く。
少しずつ強まる律動が私に幻覚を見せ始め、必死に嫉妬と恨みの篭る女が彫られた背中にしがみついた。
真島さんに抱かれているのに、頭の中にアイツがいる。
真島さんの温もりなのに、アイツの温もりだと勘違いしている。
真島さんに揺らされているのに、アイツが私の身体を揺らしている。
「真島さん、キスして」
あぁ、どうか……
アイツの名前が私の唇から零れてしまう前に、どうか。
名前の前に零れた涙を真島さんは唇で受け止め、私から酸素を奪うように激しく口付けた。