▼ 扉をひらく
帰り支度は済んでいた。あとは会計で入院費を支払って病院を出ればいい。でも、それができなかったのは『勝手に出ていくんじゃねえぞ」と言った東くんの言葉。きっとまた迷惑を掛けてしまうから東くんから離れるべき、いっそのこと神室町から出てしまおうか。そう考えていたのに私はベッドの縁に座って窓の外をボーッと眺めている。
ここから見える街路樹の葉が風に吹かれて揺れている。ゆら、ゆら、ゆら、ゆら──。
「水瀬」
「東く、」
後ろから優しい声で名前を呼ばれた。振り向いて顔を見た瞬間、ひゅっと喉が鳴った。東くんが頬を腫らして立っていたからだ。どういう顔をして会えばいいのかとか、何を話せばいいのかとか、ごちゃごちゃ考えていたものが吹っ飛んで、すぐさま傍に駆け寄って頬に触れた。
「これ……、どうしたの?」
「あ? あぁ、ドジ踏んじまって転んだんだ。どうってことねえよ」
頬に触れていた私の手を取って「おまえこそ大丈夫か?」と話を逸らそうとする東くん。転んでできた怪我じゃないことくらいすぐにわかる。
「下手な嘘」
「う、嘘じゃねえよ」
「殴られたんでしょ? 知ってるの。あのね、お母さんからメッセージが来たの」
今朝早く、届いたメッセージを東くんに見せた。
『どうして早く教えてくれなかったの? 何も知らなかった。ごめんね』
謝罪と困惑の言葉がたくさん並んでいた。私は「もう関係ない人たちだから。終わったことだから」とだけ返した。
「彼に会いに行ったんだよね?」
「……八神と海藤の兄貴もだ」
「そうなんだ……。また私、迷惑掛けちゃったね」
「迷惑なんて言うなよ! あんな話聞いて黙ってられると思うか?」
少し怒ったような声を出した東くんは、掴んでいた私の手を引き、苦しいくらいに私を抱き締めた。激しく鳴っている心臓の音と伝わるぬくもりに自然と涙が溢れた。
「おまえが悲しくなるようなもんは何も聞くな、見るな。そういうのは全部俺に任せればいい」
「東くん……」
「おまえに涙は全然似合わねえ。ほら、こっち見ろ。もう泣くな」
ぽろぽろと零れる涙を東くんの親指が拭う。サングラスの奥に見える瞳がとても優しくてさらに涙が溢れた。
「頼むからそんなに泣くなよ。……あぁ、その、これ。ずっと渡そうと思ってたんだ」
照れくさそうにポケットから取り出された二つのキーホルダー。キラネコキーホルダーのクロとミーコ。同じ色、同じ柄。東くんはクロのキーホルダーを私に手渡した。
「ミーコのは?」
「これは俺んだ」
「……ミーコとクロ、一緒にいてほしかったな」
「だ、だからっ! 一緒に……いりゃいいだろ」
「え?」
「ぉお、俺とおまえが一緒にいりゃ、クロとミーコも一緒にいんだろ!」
そうか、そういうことか。
顔を真っ赤にしている東くんの遠回しな告白。このキーホルダーを買った時からずっと考えてくれてたのかな。きっと私の顔も東くんと同じくらい赤くなっていると思う。
「そ、その、おまえは俺のこと……」
「その前にほっぺに付けてるそれ、気になっちゃうんだけど」
「何ッ? なんか付いてたか?」
東くんは慌てて頬を擦っている。全然取れてないからと少し屈むようにお願いした。取ってくれとばかりに素直に頬を出す東くんに笑みが漏れる。もちろんそんなものは……ない。私は差し出された頬にそっとキスをした。
「水瀬! お、おまえ……っ」
「覚えてるよ。ちゃんと」
全部は覚えていない。でも、酔っていたって東くんの匂い、声、温度、ちゃんと覚えてる。あの唇の感触も。
「どこまで……覚えてんだ?」
「東くんとキスしてたとこは…全部」
「そう、なのか」
「だから教えて。言いかけてたこと」
急激な睡魔に襲われ、意識が途切れる直前まで届いていた東くんの声。大事なところで消えてしまったから、ちゃんと最後まで聞きたい。
「水瀬、俺……、おまえが好きだ。俺は絶対、おまえを裏切ったりしない。一人になんかさせねえから」
「私より、キレイな人いっぱいいるよ?」
「馬鹿か。おまえが一番キレイに決まってんだろ。おまえがいいんだ」
「東くん」
「好きだ、水瀬」
*
夜の神室町。
ネオンに照らされた四人が歩く。八神さん、海藤さん、私の隣に東くん。
「メイちゃんとこうして飲みに行けるなんて最高だぜ!」
「病み上がりなのに大丈夫? まぁ、誘ったのは俺らだけど」
「大丈夫です。さすがに今日は飲まないですよ。ま、飲んでも東くんがいますし」
「ばっ、おまえ! 酒はまだダメだぞ!」
「冗談。飲まない」
退院して数日後、退院お祝いにと八神さんたちが食事に誘ってくれた。しばらくお腹に優しい食べ物しか口にしていなかったから久しぶりに贅沢な食事をする。
店に向かう前に源田法律事務所に寄って城崎先生に退院した報告とお世話になったお礼を伝えに行った。本当は城崎先生もご一緒にと思っていたが、急ぎの案件があったようでそれはまた次回。別れ際「時間は有限ですが、水瀬さんの未来はこれからです。堂々と水瀬さんらしく生きてください」と言われて少し泣いた。
「そういえばお母さんとは連絡取ってる?」
「メッセージが来たらそれに返信する程度で私から積極的には」
「メイちゃんはいいのか? 今でもアイツら……あ、いや、メイちゃんのお姉さんたちは実家にいるんだろ?」
「母が姉の子を可愛がってますから。私がしつこく連絡しちゃうと今度は母が私と姉との間に挟まれちゃいますし。縁は切りませんけど、それなりの距離は取ろうと。そのほうがお互いのためですし」
あれから何度か母からメッセージが届いた。複雑な心境を吐露する内容だったり、私への謝罪だったり……。でも姉たちを家から追い出しはしなかった。もしこの真実が明るみにならなかったら、母にとっては園田も姉も何ら問題の無い仲の良い夫婦だ。そして孫の優磨も目に入れても痛くない存在で。すでに一つの家族として形成されているものを崩せないのだろう。だから私も崩したりしない。私は新たにつくっていくんだ、これから。
「あ、メイちゃん、この店?」
「そうです! ここです」
「おぉ、随分とシャレた店じゃねえか」
「海藤さんご存知ないですか?」
「ああ、初めて来たな」
何か食べたい物や行きたい店はないかと八神さんに聞かれて真っ先に思いついた場所。[Bar El Dorado(バル・エルドラード)]
「ん? 東、気まずそうな顔してどうしたんだ?」
「べ、別に普通です。兄貴、ほら、行きますよ。八神もさっさと歩け!」
「はいはい。ホントに分かりやすいよね、東って」
早歩きになり、忙しなく動く東くんの腕に自らの腕を絡めた。
「海藤さんに連れて来てもらったって言ってなかった?」
「……変なとこに連れてくよりマシだろ」
「やっぱり調べてくれてたんだ。このお店、すごく好きだよ」
「それは良かった」
「お。二人でなにコソコソしてやがる?」
「ここのお店のローストビーフは絶品だよねって」
二人が再会して、最初に語り合った大切な場所。
私はまた、ここから始めるんだ。
東くんと一緒に。
「それじゃ、入るぞ」
「うん」
東くんと同時にドアハンドルを握り、勢いよく扉を開いた。