時の扉を君とひらく | ナノ


▼ 病室にて

八神の知り合いの医者が以前働いていたという医院を訪ねた。
外から見るとボロいが中は見違えるほど綺麗で、水瀬の病室は廊下を進んで一番奥にある個室だった。ベッドに横になっていて、側にある点滴スタンドには半分くらいにまで薬液が減ったパックがぶら下がっている。その管の先は水瀬の白い腕に刺さっていて痛々しい。ただ、唇の傷はもちろんまだ残っているが、頬の腫れが引いたのもあって顔色はだいぶ良く見えた。

「八神さん……、海藤さんに東くんも……」
「調子はどう?」
「差し入れ、持って来たぞ。メイちゃんの好物を東に聞いて買ってきたんだ」
「お、俺はただ、水瀬がよく食べてたのを選んだだけです」

適当にパイプ椅子を引き寄せ、俺は座る前に買ってきた物を冷蔵庫に仕舞う。その中のひとつが以前ホテルで渡したのと同じりんごヨーグルトだ。あの時はすぐに食べてもらえなかったが、後日すごく美味しかったと気に入ってくれたようだったから。
いつも通りに振舞う俺たちに水瀬は申し訳ないと頭を下げて、詫びの言葉をいくつも並べた。その顔に笑顔はない。

「予定通り退院できそう?」
「はい、おかげさまで。本当に何から何まで申し訳ありません」
「もう謝んなって。メイちゃんが元気になっただけで十分だ。なぁ、東」
「へい」
「東くんも色々と……ごめんなさい。たしかおんぶしてくれてたよね?」
「えっ! あ、ああ」
「へぇ〜。結構酔ってた割に覚えてるんだ。他に何か覚えてる?」
(やっ、八神ぃぃぃぃッ!!!)

八神の質問に口から心臓が飛び出そうになったが、水瀬は「朧気にしか覚えてなくて」とだけ答えた。

「そっか。じゃあ、俺たちの他に介抱してくれた女性がいたんだけど、それは覚えてる?」
「女性の方、ですか?」
「覚えてないか。……城崎さおりさん。源田法律事務所の」

少し和らぎつつあった水瀬の表情が悲しげに曇った。
城崎先生から詳しく水瀬の過去を聞いたが、心のどこかで信じきれない部分があった。けど、水瀬のこの表情を見てやはり真実なのだと虚脱感に苛まれた。

「メイちゃんの着替えを買うのにさおりさんに手伝ってもらったんだ。そしたらさおりさんがメイちゃんのこと知ってそうな雰囲気だったからつい聞いちゃって。ごめんね、職業病みたいなもんでさ。ちなみにこれは俺が聞き出したんであってさおりさんから話したわけじゃないから」
「…………」
「神室町ヒルズでのこと覚えてる? ずっと気になってたんだ。俺も海藤さんも東も」
「じゃあ……、もうご存知なんですね?」
「ああ、聞いたよ」

水瀬は「そうですか」と声を震わせて俺たちに背を向けると、まるで罪を告白するかのような重たい声で話し始めた。

「情けないですよね。婚約者である彼を姉に寝取られるなんて」
「メイちゃんは何も悪くないよ」
「姉は才色兼備で私とは違います。だから、最初は本当に彼が起こした過ちだったのかもしれないけど、離れてしまった気持ちはもう戻せませんでした」
「クズ野郎の親は? その頃メイちゃんが働いてた会社の人たちだって知ってたんだろ?」
「相手のご両親も複雑だったんでしょうけど、子供ができてすぐに手のひらを返されました。会社のほうは婚約を伝えた時点で上司や同僚からお祝いの言葉をたくさんいただきました。でも婚約破棄になって同情されるのがすごく辛くて……逃げるようにすぐ辞めました」

表情は見えないがきっと泣いている。もう話さなくていいと言いたかったが、水瀬は腹を括ったのかすぐ近くの棚に置いてあったスマホを取って何か操作した後、顔を向けないまま俺たちのほうにそれを差し出した。俺が受け取ると八神と兄貴が画面を覗き込む。そこには水瀬の母親とやり取りしたメッセージがあった。

---
『メイ、今回も帰ってこないの?』
『仕事が忙しくて。ごめんね』
『忙しいのもいいけどそろそろ顔くらい見せたら? 優磨、可愛いわよ。来月は優磨の誕生日なんだから、ちゃんと祝ってあげなさいよ』
[子供の写真]
--- 

「なんだよ、これ……」

思わず声が出た。優磨、ユウマ。神室町ヒルズで写真を撮るよう頼んできた母親が呼んでいた子供の名前がユウマだった。水瀬の婚約者と水瀬の姉さんとの間にできた子供と同じ名前。水瀬が逃げ出すのは当然だ。
それにしても水瀬は母親からメッセージで子供の写真を見せられてんのか。

「今、彼と姉は実家に住んでるんです。家も二世帯住宅に改築してキレイになったって母が喜んでました。すごく立派な家で。……両親は知りませんから仕方ないですよね。まさか彼が私の婚約者だったなんて」
「水瀬……」
「こどもの日とか誕生日とか、何かしらイベントがあると顔を出せって言われて。でも、出せるわけないじゃないですか。だからプレゼントだけでも贈ってあげてって言われて……母の口座にプレゼント代を振り込んで、馬鹿みたいですよね、私」

淡々と話すその声はすっかり感情を無くしていた。
諦めるしか道がなかったと言わんばかりに哀しみも怒りも感じられなかった。

「アイツらはメイちゃんのご両親に何も伝えてないのか?!」
「言ったところで……子供ができてしまってはどうしようもありません。二人は『子供ができた。この子の命を粗末にするなんて考えられない。だから産ませてくれ』って私に土下座したんです。そこでわかりました。私にはもう……居場所はないんだなって。だから慰謝料請求を取り下げたんです。慰謝料をもらったところで虚しくなるだけですから」

水瀬は人生を諦めたんだ。諦めたその日から、無慈悲な現実を今日まで耐えながら生きていたんだ。たった一人で。

「それってさ、実質メイちゃんに『子供ができたから諦めてくれ』って言ったのと同じだよな?」
「…………」
「裏切って、浮気して、勝手に子供作って、最後は呼び出して子供を二人で育てますってメイちゃんに宣言したんだよな? ……人間じゃないよ、そいつら」

八神の言葉に水瀬が嗚咽を漏らした。たくさん泣けばいいと思った。今まで我慢してきた分、大声で泣き叫べばいいと。しかし水瀬はそうしなかった。何度か鼻を啜った後、泣くのを止めた。
今までこうしていろんな感情を押し殺して笑顔を見せていたのかと思うと胸が張り裂けそうになった。

「どんなに好き、愛してると伝えても、何度身体を重ねて気持ちを確かめ合っても、一瞬で目を奪われてしまうようなものに出会ってしまったら、愛なんて一瞬で消えてしまうものです」
「メイちゃん、そりゃ違うぜ」
「そうだよ。メイちゃんならまだまだこれから──」
「男性はみんな、綺麗で魅力的な女性が好きだから……もういいんです」

水瀬の婚約者と俺に向けられた言葉だと思った。それは兄貴と八神も同じだったようで二人の視線が痛かった。

「すみません。少し疲れました。今日はもう……一人にしてもらえますか?」
「嫌なこと思い出させちゃって本当にごめんね。今日は帰るよ。行こう、海藤さん」
「ああ。じゃあな、メイちゃん」

兄貴と八神は俺に残るよう目配せして出て行き、静まり返った病室に水瀬と二人きりになった。

「水瀬」
「東くんも、もういいから帰って。……ごめんね」
「なんでおまえが謝んだよ」
「私が悪いから」
「おまえは何も悪くねえだろ」

だって、と水瀬は何かを言いかけたがそこから先は口にしなかった。何を言おうとしたのかなんとなく予想がついた。だから代わりに俺が伝える。

「明後日、退院すんだろ? 迎えに来る」
「いいよ……。一人で大丈夫だから」
「どこが大丈夫なんだよ。強がんのもいい加減にしろ」
「これ以上迷惑掛けたくないの。……もういいから」 
「良くねえよ! 言っとくがあの日の夜、俺の隣にいた女は彼女じゃねえ。兄貴の舎弟だった頃に連れて行かれたキャバクラのキャバ嬢で、おまえの店に向かってる途中あっちから勝手に寄ってきたんだ」
「……そう」
「俺に女はいねえよ。だから……、明後日ちゃんとここで待ってろ。一人で勝手に出ていくんじゃねえぞ。いいな?」

水瀬は背を向けたまま、返事も頷きもしなかった。

「一人で頑張ってきたんだからよ、今は何も考えずにゆっくり休め」

ベッドの中に潜り込んでしまった水瀬の唯一見えている頭のてっぺんを優しく撫でた。早く心も身体も元気になれよ、と祈りながら。
何度かそれを繰り返して「じゃあな」と病室を出た。
背中で水瀬の泣く声を聞いた。


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