▼ 過去(2)
頭を殴られたような衝撃に城崎先生の話を理解するまでに時間がかかる。
水瀬の婚約者は浮気をしていた。その相手は水瀬の姉さん……。一体どういう神経してやがるんだ?!
「メイちゃんの姉貴とそのクズ野郎は前々からそういう関係だったのか?」
「違います」
「え? じゃあ、いつから?」
「水瀬さんが婚約者の園田を初めてお姉さんに紹介した日です」
「はぁ?!」
八神も兄貴もあんぐりと口を開けている。きっと俺もそうに違いない。
城崎先生が水瀬から聞いたであろう経緯を説明してくれているが、どんどんその声が遠ざかっていく。代わりに目の前にぼんやりと現れた見たことのない光景。そこには水瀬、水瀬の婚約者らしき男、水瀬に似た女がいた。俺は第三者としてその場所に立っている。
*
プレミアムタワー内、イタリアンレストラン。
『お姉ちゃん、こちらが話してた園田さん』
『初めまして。園田拓磨です。お忙しい中、お時間を作っていただいて申し訳ありません』
『こちらこそ。実家までご挨拶に来てくださるのに同席できないことになってしまってすみません』
『お店のオープンがちょうど一週間後だから仕方ないよ』
『開業されるんですか?』
『はい。小さなエステサロンなんですけどね』
『凄いですね! エステサロンってなんだか納得です。お姉さんお綺麗ですもんね』
俺の目の前で水瀬、水瀬の姉、園田が食事を囲んで楽しそうに話し込んでいる。どうやら水瀬は一週間後にこの男を両親に紹介するようだ。その席に水瀬の姉さんは仕事で同席できないためにこの食事会が開かれているらしい。
(水瀬が隣に居んのにお綺麗ですねって何ぬかしてんだてめぇッ!)
一発殴ってやろうと足を踏み出した途端、目に映っているもの全てにザザッとノイズが走り、急に場面が切り替わった。
(な、なんだ? どうなってやがる!)
いつの間にか食事や酒は進んでおり、テーブルの上には空いたグラスや皿が目立つ。水瀬は今回ほどではないが酔っているようで、上気した顔でいつものように笑っている。隣に座っている園田もかなり酔っているようだ。緊張して飲むペースが速かったのか、元々水瀬のように酒に強くないのか呂律が回っていない。
『園田さん、大丈夫ですか?』
『大丈夫ですよー! ついつい楽しくて少し飲み過ぎちゃっただけですから』
『へへっ。タクも私と一緒であまりお酒強くないんだぁ』
『そうなの。それじゃあ、そろそろお開きにしたほうがいいわね。もうメイも眠いんじゃない?』
『うん。なんとか我慢してた』
テーブル会計を済ませ、足元が覚束ない園田を水瀬と水瀬の姉さんが支えるようにして店を出る。プレミアムタワー近くにあるホテルに宿を取っているようだ。
(男のくせに女に両脇抱えられるなんて情けねえな。なんで水瀬はこんなヤツを選んだんだ?)
ホテルに到着した三人は一通りの手続きを済ませ、よろけながらエレベーターに乗って数階上ったところで降りる。
(ったく、コイツ寝てやがんのか? 最低な野郎だな。水瀬も酔ってフラフラなんだぞ!)
ほぼ意識の無い園田を支えて部屋まで行き、なんとかベッドに寝かせたようだ。
『はぁ、重かった。ありがとうお姉ちゃん。助かったよ』
『お疲れ様。こんな状態だし、園田さんにはまた明日に改めて挨拶するわね』
『うん、ごめんね』
また明日ね、とお互いに手を振って別れ、水瀬の姉さんは隣の部屋へと入っていった。
(水瀬と園田は同じ部屋か……。婚約者なんだから仕方ねえ、か……)
ザザザッ──。また場面が変わる。
水瀬と園田がベッドの上でぐっすり眠っている。園田の身体はベッドに運ばれた位置からほとんど動いていない。水瀬も眠たがっていたから特に何もなかったようでホッと胸を撫で下ろす。部屋の中は真っ暗で何時なのかはわからない。
『ぅ、んん……』
『……タク? 具合悪い?』
『喉乾いた……。水飲みたい……』
『この階に自販機あったから買って来る?』
『自分で行くよ……、メイは寝てて』
『大丈夫?』
『ああ……』
園田は未だふらついた足で部屋を出ていく。水瀬は言葉に甘えたのか、起き上がることなく目を閉じてスースーと寝息を立て始めた。
(水瀬がすぐ寝ちまうのは昔っからなんだな)
エレベーターを降りたところに自販機があった。そこで水を買ってすぐに戻って来るだろうと思っていた。しかし、待てど暮らせど園田は戻ってこない。
気づけばいつの間にか部屋にはカーテンの隙間から陽の光が差し込んでいて、目が覚めた水瀬はキョロキョロと辺りを見渡している。
『タク?』
リビング、洗面所、風呂場、トイレ、一通り探しても園田の姿がない。水瀬は慌てて服と髪を整えて部屋を出ようとしている。それに続いて俺も後を追った。
水瀬が部屋のドアを開ける。数歩歩いたか歩かないか、それくらいの距離で水瀬の足はピタリと止まった。
『……タク。どうして』
背後で水瀬が居た部屋のドアがガチャリと閉まる音がした。視線の先には水瀬の姉さんの部屋から出てきた園田の姿。
『メイ……、違うんだ』
『どういう、こと?』
『間違いなんだ。俺、めちゃくちゃ酔ってて、ここをメイの部屋だと思って』
『ここ、お姉ちゃんの部屋だよ? まさかお姉ちゃんの部屋にずっと居たってこと?』
『何もないんだ』
『何もないって何? お姉ちゃんは? 中にいるんでしょ?!』
園田の背後から気まずそうに水瀬の姉が顔を覗かせた。
(男と女が同じ部屋で一晩過ごして何も無いワケねえだろ! 間違いならなぜ部屋に戻らなかった? 水瀬の姉さんはなぜおまえを部屋に戻さなかったんだ? なぁ、なんとか言えよッ!!!)
園田の胸ぐらを掴もうとしたが、空を切るばかりで掴めない。三人は置物になってしまったかのように微動だにしなくなった。そして一際大きなザーッというノイズ音が頭に響く。
(水瀬、待ってくれ! 俺がちゃんとコイツから本当のことを吐かせてやる。大丈夫だから! 俺に任せてくれ。おまえは俺が守る。だから──)
今にも泣きそうな水瀬の顔も、引きつった園田と水瀬の姉さんの顔も歪んでいく。輪郭が失われ、遂に見えていたもの全てが何もわからなくなった。
*
「ひ……し、……がし、東っ!」
ぼんやりしていた頭と視界が急にクリアになり、耳にはノイズではなく兄貴や八神が俺の名前を呼ぶ声が聞こえていた。
「大丈夫か? 床見つめたまま固まってたからよ」
「あ、ああ、すんません兄貴」
城崎先生をはじめ、兄貴も八神も心配そうに俺を見ている。俺は……幻を見ていたのか?
「東さん、お辛いなら席を外していただいて構いませんよ」
「……問題ありません。続けてください」
「わかりました」
「で? 園田のクズとメイちゃんの姉貴は本当に何もなかったのか?」
「何もないわけないじゃん。男と女が一晩同じ部屋にいるんだよ? 海藤さんならそこんとこよくわかるでしょ」
単なる俺の妄想か、それとも水瀬が俺に見せた記憶の破片か。俺が見ていたものと城崎先生との話は不思議と繋がっているようだ。
「お姉さんの言い分としては、酔った園田が部屋を間違えて、無理矢理中に入ってきたと」
「特に二人はメッセージの交換もしてなかったんだよな? なら、そこは本当なのかもしれないな」
「でもヤッてないってのは嘘なんだろ?」
「水瀬さんは園田の背後から動かないお姉さんを怪しく思い、思い切って部屋の中に入ろうとしたそうです。その時に見たお姉さんはバスローブ姿でした」
「それは、もうアウトだ」
話が進展していくたびに握っている拳に力が入る。
二人は水瀬に土下座して謝ったそうだ。これは間違いで起こったことだったと。しかし、終わるどころか二人の関係はそこから始まった。園田と水瀬の姉さんは縁切れることなく繋がっていた。水瀬が気持ちを整理したいからと距離を置いたことが二人にとっては好都合だった。
毎日届いていた園田からのメッセージは週に数回程度になり、数週間に一、二回、月に一回と徐々に減って……。水瀬に届いた園田からの最後のメッセージは『別れて欲しい』だった。
「なんでメイちゃんはそこまでしてクズ野郎と結婚したかったんだ? すぐに別れればよかったのによ」
「相手の両親にご挨拶を済まされていたことと、水瀬さんは婚約を機に正社員として勤めていた会社を退職することになっていました」
「そっか。メイちゃんとしてはなんとか園田との関係を修復して、周囲に迷惑をかけないようにしたかったんだ」
「はい。また浮気されたのは自分のせいだと何度もおっしゃっていました。自分が不甲斐ないから園田は姉に目移りしたと。水瀬さんにとって園田は大切な人だったんだと思います」
「……んだよそれ。不甲斐ないってなんだよっ!」
怒りが抑えきれなかった。居ても立っても居られず、握り締めていた拳で激しくテーブルを叩いた。
おまえはいつもそうだ。何も悪くないのに自分のせいにして一人で抱え込みやがる。
「東、気持ちわかるよ」
「八神に何がわかるってんだ! そもそもなんで水瀬は慰謝料請求を取り下げたんだ? こんなゲス野郎、たっぷり慰謝料取ってやりゃあよかったのによ!」
「水瀬さんが請求を取り下げた理由は、園田と水瀬さんのお姉さんの間に子供ができたからです」
「こ、子供だって?!」
それを聞いて、神室町ヒルズでの出来事がしっくりきた。
水瀬は子供が苦手だったんじゃない。
嫌いだったんだ。