▼ いちごあめも、ちょこばななも、
それは、成り行きだった。
「今度こそ来てくれはるんやろね?」
「あ、あぁ、行きたいのはやまやまなんやけど」
パートのオバはんの話をさりげなく聞き流し、ずるずると蕎麦を啜る。
招福町にある蒼天庵という名の蕎麦屋。美味い、早い、安いの三拍子が揃っていて気に入っている。あしたば公園に近いこともあり、他の通りに比べればそこそこ落ち着いていて、街娼に付き纏われることもなく、蕎麦を食べたくなったらこの店と決めているのだが……。
「もう『忙しい』は理由にならへんよ!」
「せやけどなぁ、ホンマに忙し──」
「それはな、うちもわかってんねん! "ハロイン"パーティーやろ? クリスマス会も来てもらえんかったし、新年会もドタキャンやん! うちは何回支配人はんにフラれたらええん? はぁ〜」
溜め息つきたいのはこっちや。
しかもハロウィン言えてへんで。
招福町では町内会で各季節毎に催事を行っているようで、その都度このオバはんに声を掛けられる。蕎麦を打っている旦那は寡黙でいかにも職人という感じだが、その嫁で店の手伝いをしているオバはんは旦那と正反対でとにかく喋る。大阪のオバはん代表みたいな人だ。
「悪いなぁ。正直遊ぶ余裕ないねん」
「遊び? これは遊びやないで! 本気や! 招福町本気の夏祭りやで!」
「そないなこと言われてもなぁ」
今まで何かと理由をつけて断ってきた。もちろん今回も断るつもりで話をしていたのだが、調理場の奥から旦那が無言でやって来て、スッとテーブルに何かを置いた。
「……いつも食うてもろてるから」
置かれたのは食事一回無料チケットと、天ぷら蕎麦にサービスで好きな天ぷらを付けてくれるチケット。しかも三品も。
これは、旦那からの無言の訴えで間違いなかった。『折れてやってくれ』と……。
「っかぁ〜、わーった! 行ったる。その代わり長居できへんで」
「ほんまやね? うちは嘘つく人は嫌いやで?」
「当たり前や! 俺かて嘘は嫌いや」
「ほんなら蕎麦湯持ってきたるわ」
「どういう流れやねん」
オバはんがその場からいなくなると、旦那がボソリと呟いた。
「たまには肩の力を抜いたほうがええ仕事が出来るもんやで」
*
翌日、夜八時。
グランドを店長に任せ、招福町へと向かう。夏祭りの会場に近づくにつれ徐々に人も多くなり、空気も祭り独特の雰囲気を帯びてくる。
男一人で夏祭りの会場を歩き回るのはさすがに浮いて恥ずかしい。かといってグランドのホステスたちやサンシャインのキャストたちをぞろぞろ連れて歩くのもおかしい。どうしようか悩んでいる時にふと頭に浮かんだ顔。
「なまえちゃん、待たせたか?」
「いえ、今来たばかりです」
待ち合わせ場所にサンシャインのキャストであるなまえちゃんが先に到着していた。
なまえちゃんなら、誘ってもいいか。
シフト上今日は休みだったが、声を掛けると「何も予定がないので」とOKしてくれた。
「なんや、いつもと全然雰囲気ちゃうなぁ」
「変、ですか?」
「変やない! 似合うとる」
薄紅色の絞り浴衣を着たなまえちゃんは、ドレスアップしたいつもの姿とはまた違う美しさでなんだか調子が狂いそうだ。
「ほな行こか」
「はい」
蒼天庵のある通りは祭り用の提灯型をしたライトが辺りを照らし、ギラギラ輝くネオンとは別のあたたかな光を放っている。道に沿うように屋台が連なり、あちこちから賑わいの声が聞こえる。
「なまえちゃんは招福町の夏祭り、来たことあるんか?」
「初めてです。真島さんは?」
「俺も初めてやねん。いつも食いに行っとる蕎麦屋のオバはんにどうしても来てくれ言われてな。せやけど俺が一人で行ったら明らかに浮いてまうやろ? ほんならいつも頑張ってくれとるなまえちゃん誘ったろ思て」
「どうして私なんですか? 他にも女の子、いるのに」
「え、そ、それはやなぁ」
心臓が早鐘のように打ち始める。
たしかにユキちゃんや亜衣ちゃんに声を掛けても良かったのかもしれない。でもなまえちゃんを誘おうとしか思わなかった。それ以外の選択肢がなかった。
「支配人はん!」
返答に困っていると突然背後からどデカイ声で呼ばれ、肩をビクッと竦める。慌てて振り返ると割烹着姿で近づいてくる蒼天庵のオバはんがいた。
「約束どおり来てくれたんやね!」
「ああ、なんとかな。それより、なんでいつもの割烹着着とるんや?」
「実はなぁ、うちの店、屋台出してんねん。蕎麦のかりんとう!」
しつこく来い来い言うてたのはそれやったんか。
「大忙しなんやけどせっかく来てくれはる言うてたから支配人はんの分のかりんとう、取り置きしてんねん」
「……買いに行けばええんやろ」
「別に無理せんでもええんやで。彼女はんにも悪いしなぁ」
「かっ、彼女?!」
「彼女やろ? こないに可愛え女の子どうやって口説いたん?」
必死に彼女じゃないと否定するも、オバはんの口は止まらず次から次へと捲し立てる。
「あんたエラいべっぴんさんやねぇ。支配人はんも男前やし美男美女のカップルで羨ましいわぁ! せやけどせっかくのデートやのに浴衣のひとつくらい着られんのやろか。なぁ! 彼女が浴衣なんやからここはお揃いにして──」
「せやからちゃうって!」
「照れんでもええやないの。こない素敵なお嬢さん、大切にせなバチ当たるで! あら、あまり邪魔したら悪いなぁ。ほな、支配人はん、また後で!」
大きく手を振り、オバはんが背を向けて自分の屋台へと戻っていく。
「す、すまんな。気にせんでええ」
「いえ……。でもたしかに、真島さんの浴衣姿は見てみたかったかも」
「な、何言うとるんや、まったく」
なまえちゃんは俯いて顔を真っ赤にしている。気にせんでええと言った俺も動揺している。なぜならなまえちゃんがどうして私を誘ったのかと訊いたように俺も訊きたかったからだ。「なぜ俺の誘いをOKしたのか?」と。
なまえちゃんも、俺ならいいと思ってくれたんやろか。
「お、おなか空きません?」
「お、おぉ、せやな。何か食うか」
二人で照れ笑いをした後、いつも以上におどけながら屋台を回り、焼きそばを食べ、ラムネを飲んだ。そうしているうちに気まずかった空気も無くなり、祭りの雰囲気に二人で染まっていった。
「ふぅ〜、やっぱり祭り言うたら焼きそばやなぁ」
「私はいちご飴とかチョコバナナです」
「フッ、お子様やなぁ」
「え〜、美味しいんですよ! お祭りって感じがします」
「そういやさっきあったなぁ。まだ腹に入りそうか?」
「デザートは別腹です」
「よっしゃ! ほな買いに行こか」
まずはいちご飴。
竹串に小ぶりのいちごが三つ刺さって500円。
ええ商売しとるなぁ……。近江のヤツらがシノギでやっとんのか?
「美味しそう!」
もちろんなまえちゃんを目の前にそんなことは言えず、素直に金を払っていちご飴を渡す。
「いいんですか? さっきも払ってもらったのに」
「俺から誘ったんや。休みなのに付き合うてもろとるお礼や。どっか座るか?」
「いえ、いろいろ見て回りたいです。お行儀悪いですかね?」
「歩きながら食うのが祭りの醍醐味やろ。ほんなら店回ろか」
並んで歩きながら一緒に屋台を右へ左へ。
なまえちゃんは真剣に屋台を覗いているようだが、俺はいちご飴を舐めながら楽しそうにしているなまえちゃんを横目で見ていた。
飴でコーティングされたいちごがなまえちゃんの唇に包まれて、口内に出たり入ったりしている。その艶々した赤い実を見ているうちに妙な気分になって視線をずらした。その先に白いうなじ。見慣れたドレス姿のほうが露出が多いのに、やけに浴衣姿が艶めかしく目に映る。
白い歯が飴を砕き、いちごの果肉を食む。溢れ出した果汁は舌を濡らして喉の奥に──。
「真島さん?」
「あ……、美味そうに食うとるな思うて」
「食べてみます?」
「い、いや、ええ」
それからヨーヨー釣りをやったり、射的をやったりしているうちにいちご飴は無くなった。
「美味かったか?」
「はい。でも、少し足が疲れちゃいました」
「結構歩いたからなぁ。ほんならチョコバナナ買うて、あしたば公園のベンチで一休みしよか」
幸い今いる所からチョコバナナを売っている屋台もあしたば公園も近かった。すぐに目的の品を買って公園に向かうとちょうどベンチが空いていた。二人で腰を下ろし一息つく。
「わがまま言ってすいません」
「そないなこと気にすんなや。それよりなまえちゃんは足痛なってないか?」
「はい、大丈夫です」
「ほ〜ぉ、チョコバナナも美味そうやな。暑いからチョコ溶けんうちに食うたほうがええで」
「あ、そうですね! 食べちゃいます」
ぱくり、と口を開けてなまえちゃんがバナナを咥える。
……これは、あかん。
きっと男なら、一度はその、卑猥な想像をするもので、それは俺だけに限ったことではないはずだ。具体的に "アレ" を想像してしまうと、もうそれにしか見えなくなるから、できるだけ見ないようにして別なことを考える。
「真島さん、美味しいです!」
「そうか……、それは、良かったわ」
きっと特に気にしていない女なら何も思わない。
でも……、なまえちゃんだから。
「真島さん、どうしたんですか?」
「べ、別に、なんでもあらへん」
「顔、赤いですよ?」
「こっ、これはやなっ」
「ひょっとして……、ヨーヨーとぬいぐるみですよね?」
「……あ?」
「やっぱり恥ずかしかったんですよね?」
ヨーヨー釣りで取った水色に赤と黄色の水玉模様が入ったヨーヨーと、射的で取った景品のブンちゃんのぬいぐるみ。それを俺に持たせて歩いていたのを気にしたらしい。
「なまえちゃんはチョコバナナ持っとるんやから俺が持つのは当たり前やろ。なんも気にせんでええ」
「はい。……あの、嬉しいです! 真島さんにお祭り、誘ってもらえて。夢なんじゃないかなって思ってて……。でも、こうして形に残る物を貰うことができて本当に嬉しいです。ありがとうございます、真島さん」
あしたば公園にも提灯型のライトが灯されていて、嬉しそうに俺の顔を見つめるなまえちゃんの目がきらきらと輝いている。
全身が心臓になってしまったみたいにバクバク音を立て、さっき無理矢理鎮めた欲はいとも簡単に甦ってきた。こんな時、チンピラが絡んできてくれればどうにかやり過ごせるのに、今はこの公園に俺となまえちゃんの二人きり。
「なまえちゃん」
「はい?」
「チョコ……」
なまえちゃんの唇にトッピングのチョコレートがついていた。
自分で取らせることも、俺が指で拭ってやることもできた。
でも……。
「んっ」
チョコを塗したなまえちゃんの唇は甘いんやろか
バナナを咥えとった唇の奥はどないなっとるんやろ
柔らかそうな舌はイチゴの甘酸っぱさが染みてるんやろか
俺は我を忘れて、なまえちゃんにキスをした。
少し遠くに聞こえる雑踏も、祭りの雰囲気も匂いも、夏の蒸し暑さも、いちご飴もチョコバナナも、ここにあるすべてが理性を奪っていった。
「ま、じま、さん」
なまえちゃんが絞り出した声でようやく唇を離した。その声は震えていた。
「どう、して?」
「す、すまん……、申し訳ない! 実は俺、ずっと……、ずっと、なまえちゃんのこと気になっとったんや。ホンマはこないなこと言うつもりなかったんや。夏祭りも一人で行こう思うとった。せやのにすぐなまえちゃんの顔が浮かんでしもて、ここで誘わんかったら後悔するような気がして……。いつも可愛えのに、なまえちゃん今日めちゃめちゃ可愛くて、気持ち抑えられんようになってもうて。信じられんかもしれんけど、俺、なまえちゃんが好きや!」
なまえちゃんは泣いていた。当たり前だと思った。自分の立場を忘れて欲望をぶつけてしまったのだから。
食べかけだったチョコバナナは地面に落ち、なまえちゃんの手にはバナナに刺さっていた割り箸だけが残っていた。
「今言うたことは、忘れてくれ。俺は最低な男や。ホンマに酷いことしてもうて──」
「今日は本当に……、夢みたいな日です」
予想もしていなかった言葉に驚いてなまえちゃんを見る。
なまえちゃんは涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら微笑んでいた。
「私もずっと前から好きでした! でも、真島さんに迷惑掛けちゃいけないって思ってて、だから言えなくて……」
「ホ、ホンマか? なまえちゃんも俺のこと……」
ホンマに夢みたいや。
でも、夢じゃないことを確かめたくて俺はなまえちゃんを抱き寄せて再度深くキスをした。
しばらくして落ち着いたら、後で訂正せなあかん。
なまえちゃんは、俺の自慢の彼女や。
強く抱き締めた彼女の身体からは、あまいあまい香りがした。