▼ 03:菊香の揺らぎ
朝当番の賄方は食事を終えた隊士たちの器を灰汁桶で洗い、炊いた白飯を塩むすびにして昼飯の準備をするところまでが仕事だ。朝飯当番だった平隊士たちは、朝飯の準備を終えればそれを平らげて勤務割に沿って動き出す。
「ゆず、無理したらあかんからね!」
「うん」
「ではゆずさん、またあとで」
私は賄方と隊士たちの看護を兼任しているため、朝飯の準備を終えると屯所内に用意された看護部屋に移る。夜当番も晩飯を準備した後は夜廻りの隊士たちが戻ってくるまで看護部屋で過ごしている。
みや、ふみと別れ、隊士たちが訓練に勤しむ声を聞きながら看護部屋に向かっていると、源さんと鉢合わせた。
「源さん」
「ゆずか」
源さんは六番隊の隊長だ。どうやら今日は非番らしい。
最初は井上さんと呼んでいたが、みんなが源さんと呼んでいるので、いつの間にか私も源さんと呼ぶようになった。
源さんの顔にはあの夜の傷痕が残っている。定期的に薬を塗り、傷口が開かぬよう布を当て、落ち着いたのは半年前くらいのこと。父が治療すれば傷痕を残さずに完治できたかもしれない。傷痕を見るたびに心苦しくなるが、「お前の最初の患者になれて光栄だ」と笑顔を見せてくれた源さんに今も救われている。
「頑張っているようだな」
「はい、なんとか」
挨拶を交わし、賄方のことやここでの生活について軽く話していると、ぞろぞろと隊士を引き連れて五番隊隊長の武田さんがやってきた。
「これは呑気に
無用の六番隊長……。一部の隊長と隊士たちが源さんのことをそう呼んでいる。源さんの隊は主に隊士の育成をする部隊だ。実戦回数の多い他の隊から見れば六番隊はあってないようなものなのかもしれない。
「……ではな、ゆず」
「はい……」
これだけ大きな組織ともなれば、集まった人間は十人十色。特に隊を率いる隊長はクセが強い人ばかりで派閥もある。
参謀の伊東甲子太郎が新選組の体制に反旗を翻そうとしていると女たちが噂しているのを聞いたことがある。実際その伊東さんにくっついている一人がこの武田さんだ。
源さんが居なくなったのをいいことに、武田さんは私を見下ろしておかしな注文をつけてくる。
「ゆずはん、晩飯なんやけどもう少し精が付くもんにしてもらえまへんか?」
「精が付くもの……ですか?」
「五番隊はなぁ、夜も心と体の鍛錬してまんねん。晩飯で精が付けば鍛錬の効果も上がるっちゅうもんですわ」
沖田さんから『夜は武田の部屋には近づかんほうがええで。男同士のヘンな声が聞こえてくるかもしれんからなぁ』と言われたことがあった。後ろに控えている隊士たちのほとんどが気まずそうな顔をしているところをみると、武田さんが衆道であるという噂は本当らしい。
「検討させていただきます。私一人で勝手に決められませんし」
「そうかいな。ほな前向きによろしゅう頼みまっせ」
私の返答にフンと鼻で笑った武田さんは隊士を連れてどこかへ行ってしまった。
*
新選組には入隊を希望する者が毎日やってくる。特に今日は多いようで、書物を読んでいる間も鍔迫り合いの音や悲鳴が絶えず看護部屋まで聞こえてくる。沖田さんが試験官だと隊士たちが「今日の掃除は重労働だ」とボヤいているが、今日の試験官は永倉さんのようなので死人は出ないだろう。
昨日は夜当番で夜八ツ(夜中二時)まで勤務をして、今日は寅ノ刻(午前四時)から奉公している。夜当番の翌日は非番であることがほとんどだが、稀にこうして朝当番になることがある。そうするとこの時間はどうしても睡魔が襲ってきて目蓋が自然と落ちてくる。
「ゆずちゃん、おるかぁ?」
「……はっ、はい! どうぞ」
無意識に閉じかけた目蓋が沖田さんの声でぱっと開く。危うく眠ってしまうところだった。感謝しつつ中に招き入れると沖田さんはうっすらと肌に汗をかいていた。訓練かと尋ねると入隊希望者と刀を合わせてきたらしい。
「今日の試験官は永倉さんじゃなかったんですか?」
「なんで知っとるんや? 新八ちゃんに聞いたんか?」
「いえ、女たちがそう話してましたから」
「ホンマにここの女子は情報が早いのう」
用意した座布団の上に腰を下ろし、今日は調子が上がらなかったと沖田さんは後頭部を照れくさそうに掻いている。
「調子が悪い日もありますよ」
「せやなぁ。ただ、久々に骨のありそうなヤツが来よったんや」
「沖田さんがそんな風に言うなんて、余程剣術に長けた方のようですね」
「斎藤一やて。聞いたことあるか? 女子の間で噂になっとるとか」
知らないと首を横に振ると「そうか」と畳に手をついて、上体を反らした沖田さんから大きな溜め息が聞こえた。
「なんか疲れてしもた」
「それで疲れを癒す薬を求めてここに?」
「薬なんぞいらんわ。ワシはゆずちゃんの顔を見れば、すぐに元気になるからなぁ」
「またそんなこと」
「ホンマやで」
首を傾げて顔を覗き込むような沖田さんの仕草に私は弱い。
その隻眼は鋭く貫くような眼力があり、見つめられたら逸らせなくなる。一つしか無いが故に二つある者よりもその目はよく見えていて、心の中までも見抜いてしまうのではないか……そんな感覚になる。
「か、からかわないでください」
「ワシはからかっとるつもりないんやけど」
なぜだか嬉しそうに笑っている沖田さんの視線から逃げるように、私は薬箱から乾燥させた薬草を取り出して布袋に詰めて渡す。
「なんやこれ?」
「山菊を乾燥させたものです。少し多めに袋に詰めましたから、これを直接湯に浮かべれば薬湯になります。肩や腰の痛みに効きますし、菊の香りで緊張もほぐれます」
「薬湯かぁ、こりゃええなぁ! ……ゆずちゃんも一緒に入らんか?」
「お、沖田さんっ!」
「イヒヒッ! 冗談やて。ほな、行きたないけど行くわぁ」
真っ赤になっているだろう私の耳に沖田さんが唇を近づけて「おおきに」と一言囁いた。いつもの聞き慣れた声ではなく、低く甘やかな男の声で。
「っ……!!」
「ほなゆずちゃん、行ってくるでぇ〜」
沖田さんが看護部屋を出て行ってからも、私はしばらくその場から動けなかった。