▼ 01:待ちぼうけの夜【真島交通】
待てども待てども目的の男は現れず、凝り固まった首や肩を回せば骨がバキバキと音を立てた。
桐生チャンと喧嘩するために今日はタクシー運転手として待ち伏せしているわけだが、そう簡単に現れるはずもなく昭和通りに停めた車内から天下一通りを眺める。
大したことのない顔のホスト、明らかに怪しい雰囲気のサラリーマンと女子高生、ゴミ箱を漁っているホームレス、しつこいくらいに付き纏っているキャッチ、態度だけは一丁前のチンピラ、貢がれた金で着飾っているのであろうキャバ嬢。
ギラギラ輝く神室町のネオンは、色取り取りにそれぞれの人生を眩しく照らしている。
夜になれば空の色は関係ない。富も貧も、善も悪も、男も女も、すべて関係なくこの眠らない街の赤やピンクや黄色に染められて、自分の色が本当は何色かなんてわからなくなる。
「俺は何色なんかのう」
ボソリとそんなことを呟いてみたら、トントンと車の窓ガラスを叩かれた。
またかと思わず溜め息が出る。今日何度目の溜め息か。
声を掛けられないように予約車の表示をしているにも関わらず『ピンク通りまで』とか『ドア開けろ』と偉そうな態度で乗ろうとしてくるから腹が立つ。
今日はコイツを追っ払ったら桐生チャンを諦めて帰ろう。
叩かれた窓ガラスを開けて据わった目で睨んでみれば、酷く疲れた顔の女がはっと息を呑んで肩を竦めた。
「の、乗れますか?」
「お客はん、文字読めへんのか?」
「?」
「そこ、予約車書いてあるやろ」
顎で助手席のダッシュボードに置いた看板を指し示すと、女はすいませんと頭を下げて素直に乗ることを諦めた。間違ってやってくる客がすべてこういうヤツなら頭に血が上ることも無いのに、と去っていく女に目をやる。
すると女が不自然な歩き方をしていることに気づいた。左足を庇うように歩いている。
「な、なんや、足怪我しとったんかいな」
車を発進させ、女が歩いている歩道に沿うように車を走らせてバックミラー越しに様子を伺うと、スーツのタイトスカートから覗いている左膝が血まみれだった。
自分には関係ないことだ、と思いながらも身体をふらつかせながら歩いている女から目が離せない。あの感じで夜道を女一人で歩けば、質の悪い男たちに絡まれるのは時間の問題だろう。
「はぁー、しゃあないなぁ」
言葉よりも手が先に左へとハンドルを切っていた。適当に路肩へ車を寄せてハザードランプを付け、女が来るのを待ってクラクションを鳴らすと、女は先ほどと同じようにビクリと肩を揺らしてこちらを見た。
「ええで、乗り」
「でも、予約の人が」
「キャンセルになった。早よ乗らんかい!」
女は大きく頭を下げ、痛む足を無理矢理動かして素早く車に乗り込んだ。
膝からは相変わらず血が滲んでいて、見慣れているとはいえやはり痛々しい。
何処まで送ればいいのか聞くと「七福通り西の児童公園辺りまで」と答えた。
(その足で七福通りまで歩くつもりだったんかいな……)
ドアを閉めて車を発進させると女は安心したように息を吐き、胸に抱えていた鞄を空いている右側の座席へ置いて外を眺める。
その横顔はその辺にいる水商売の女より整っていて綺麗だが、暗く思い詰めたような瞳は光を宿しておらず、時折ネオンの色を灯すがすぐにまた仄暗い影が広がる。
「足、どないしたんや?」
「あ……、転んじゃって」
「かなり痛そうやけど病院行かなくてええんか?」
「はい、大したことないですから」
血が出ていると伝えれば、見てるほうも嫌ですよねと作り笑いをして、ハンカチを鞄から取り出し流れた血液を拭き取っている。
その際、鞄から顔を覗かせた角2サイズの封筒には "Wa-B株式会社" の文字。たしか若い女の子らに人気のアパレルブランドの会社だったはずだ。TVCMでよく流れているので知らない人はいないだろう。
この女はこの会社で働いているのかとちらり表情を盗み見れば、あの作られた笑顔はすでに無くなり、無表情で外の景色を眺めている。
華やかなイメージとは打って変わって裏では身を削って働き疲労困憊、というところだろうか。
「そろそろ児童公園やで」
「…………」
返事がなく再度声を掛けようと口を開いた時、女の目からポロリと涙が零れ落ちた。そしてそれをきっかけに堪えきれなくなったのか次から次へと涙が溢れている。
「泣いとったらいつまでも家に帰れへんで」
「す、すい、ま、せん」
「……真っ直ぐ行くんか? それとも右曲がるんか?」
言われた通りに運転して、結局女を家まで送ってしまった。
女の家は緑に囲まれたパークタワーマンションだった。きっと会社からそれなりの給料を貰っているのだろう。そうでなければこんなマンションに住むことはできない。
「おいくらですか?」
「あ、あぁ……、真島交通は初乗り特別サービスで無料やねん」
「え? 無料、ですか?」
桐生チャンを待ち伏せするための作戦だったのに、本当に客を乗せて走ってしまった。
殴りたくなるような客からだったら初乗り50万と言いたいところだが、暗い表情で膝から血を流している女から金なんて取る気になれない。
「本当にいいんですか?」
「ああ。また真島交通をよろしく頼むで」
「……どこに連絡すれば?」
「あ?」
「電話番号、どこにも書いてないから」
「……」
今更自分はヤクザと言う訳にもいかず、個人タクシーだと伝えて携帯の番号を伝える。自分で蒔いた種とは言え、何をやってるんだ俺は……。
自分の携帯に番号を登録し終えた女は車を降りる。
「これ、やるわ」
待っている間に飲もうと思っていた缶コーヒーを投げ渡すと、女は落としそうになりながらも胸のあたりでそれを受け取った。
「こ、これ」
「今日一日ええこと無かったんやろ? それくらいしかやれんけど、俺から一個ええことやるわ」
「……ありがとうございます」
一瞬ふわりと笑ってお礼を言った女は、足を引きずりながらマンションへと消えて行った。
去っていく細く弱々しい背中をぼんやり見つめていたが、カチカチと車内に響くハザードの音に我を取り戻してジャケットのポケットから煙草を取り出し火をつける。
何時間ぶりに吸った煙は美味いはずなのに、あまりそう感じないのはあの女の泣き顔が脳裏に残っているからだろう。
「あぁ、ほんま何しとるんやろ。……ん、なんや、忘れもんか?」
煙草を銜えたまま後部座席に手を伸ばして、残されたクラシックピンクのケースを取る。どうやら名刺入れのようだ。
一応あの女の物なのか中を確かめると、同じ名前が書かれた名刺が何枚か入っている。
「九条潤、か」
いつか電話が掛かって来たらこの名前を登録してやろうと、一枚名刺を抜き取ってジャケットのポケットに入れた。