黒のアバンドーネ | ナノ


▼ 14:60BPMの世界

時計の短針が9の数字を指している。
心を落ち着かせるために鍵盤に指を這わせていたのに、もはやその指は巻いたネジが切れたように止まり、今はカチ、カチ、と時を刻んでいる秒針の音しか聞こえない。
朝、美流が目を覚ますと真島は約束通り傍にいて、朝の挨拶を交わしてすぐに「やらなあかんことがあるから先行くで。落ち着いたらミルちゃんち行くから待っとってな」と言って病院を出て行った。美流は担当医の診療を受けた後、昼前に自宅へと戻ってきたが、あれから12時間以上が経過したというのに真島はまだ現れない。
外を見ようと窓に目をやれば、夜色に塗られたガラスが外ではなく室内を映し出していて、美流が美流を訝しげに見つめていた。

「私は、何者なの?」

あちら側の自分に問いかけるがもちろん答えるはずがない。窓に映る部屋は蛍光灯に照らされているはずなのにぼんやり歪んで見えて、美流はスパイラル柄のカーテンを思いきり引いた。
すると、カーテンの音に重なるようにインターホンが鳴り、美流は急いで玄関に行ってU字ロックとチェーンを外し、ドアを開けた。

「ま、真島さん、どうしたんですか?!」
「遅くなってしもてすまんな。ちと……チンピラに絡まれてしもてな」

待ち侘びていた真島の左顔面は紫色に変色し、口の端には血の塊もついていた。美流はすぐにふらついている真島を中に引き入れて、リビングのソファに座らせた。

「すぐに手当てしますから」
「大丈夫や」
「大丈夫じゃないです!」

美流は持ってきた救急箱の中からガーゼと消毒液を取り出し、傷ついた箇所を手当てする。そのたびに真島の顔が歪んだ。

「滲みますよね」
「いや……、平気や」

ある程度手当てが済むと、少しでも早く腫れが引くようにとお弁当用に買っておいた保冷剤をタオルに巻いて、痛々しい真島の頬に当てた。

「冷たいですか?」
「ああ、気持ちええ。ほな……そろそろ話そか」

美流の気持ちが辛くなったすぐに言って欲しいと前置きした上で、真島はゆっくり話し始めた。
まずは昨日グランドで起こったことを話した。美流が気を失っている間に西谷と話したこと、ノートパソコンと美流の父親のこと、美流がパスワードを知っているということ。もちろん美流は理解できず混乱していた。

「ちょ、ちょっと待ってください! パスワードって何ですか? そもそもどうして、真島さんが父のノートパソコンを?」

真実を伝える時が来た。伝えたその瞬間からもうグランドの支配人ではいられない。短く息を吐き、真島は客に向けるような微笑みを美流に向けた。

「俺な、蒼天堀ナンバーワンのキャバレー支配人ちゃうねん」

徐に黒いジャケットを脱ぎ捨て、ワイシャツのボタンを一つ一つ外し、美流に背中を向けて肌を曝け出した。桜が咲き誇っている中を白蛇がうねり、般若が美流を睨んでいる。

「俺は親父の命令に逆らった罰として、極道社会から追放されたヤクザなんや。今は極道に戻るためにグランドの支配人やらされとる」
「っ……」
「グランドのオーナーやっとる佐川っちゅう奴から指示されて探しとったのがこれや。俺は佐川組の奴や雇われとる奴から毎日監視されとる。せやからこれ以上ミルちゃんを巻き込むわけにはいかん」
「そのお腹は、どうしたんですか? その顔も佐川っていう人にやられたんですか?」

真島の腹は紫色に変色していた。その色から殴打されたのが一度や二度でないことは明らかだった。

「せやからこれはチンピラに――」
「昨日、真島さんはノートパソコンを持ってました。素直に渡せば殴られずに済んだはずです!」
「……ほんなら、ミルちゃんはパスワード知っとるんか? 知っとるなら、今すぐ俺に教えろや! 佐川にパソコン渡してもうたら、今度はミルちゃんが俺と同じ目に遭うかもしれんのやで!」
「だから、渡さなかったんですか?」
「当たり前やろ! 佐川にミルちゃん渡すくらいなら、なんぼでも俺が殴られたる――」

美流は身を震わせながら滂沱の涙を流して真島の身体を抱き締めた。ぽたぽたと温かい涙が刺青の桜に降り注ぐ。
父親のことも、ノートパソコンのことも、パスワードのことも何も知らない。でもその中心にいるのは自分で、そのために傷ついている人がいる。蒼天堀に来なければ、真島もナツメも巻き込まれることはなかったのだと美流は何度も懺悔の言葉を口にした。

「ミルちゃんは、ほんまに優し過ぎるで」

首筋に美流の吐息を感じる。心を惑わせる甘い香りも、溶かされてしまいそうな熱い体温も、永遠に触れていたい柔らかい肌も、美流の何もかもを失いたくない。真島は美流を愛おしいと思った。でも……。

「ミルちゃん、落ち着いて聞いて欲しいんや」

美流の涙を指で拭い、真島は諭すようにひとつひとつ丁寧に話す。
佐川には他の誰かにノートパソコンを奪われ、まだ見つかっていないことにしている。そのためパスワードについて佐川はまだ知らない。
今、一番情報を知っているのは鬼仁会の西谷で、直接西谷から事の真相を吐かせてデータが何なのかを突き止める。美流には普段どおりグランドでピアノを弾いて欲しいが、仕事が終わったら家ではなく真島が用意した倉庫に帰って欲しい、とお願いした。パスワードの件で西谷たちがここに来る可能性があるからだ。大事な物や持っていく必要のある物は今日中にまとめておくよう伝えた。

「今までミルちゃんのこと、騙しとってほんまに申し訳なかった。俺は表の世界に生きとったらあかん人間で――」
「表の世界って、なんですか?」

美流は言葉を遮り、身体を離して真島の目を強い眼差しで見つめた。

「ヤクザだから、私と違うって意味ですか? 今こうして一緒にいるのに生きてる世界が違うんですか?」
「ミルちゃん」
「もし、生きる世界がたくさん存在してるなら、どの世界で生きるかを選択するのは私です。私が生きてる世界にはもう、誰もいません……。私にとって、真島さんは真島さんで父は父です。今までと何も変わらない大切な人です。だから――」

ひとりにしないで。
弱々しく吐かれた言葉と一緒に、真島は美流を強く抱き締めた。
狭い部屋には「すまん」と繰り返し呟く真島の声と、二人の世界を刻む秒針の音だけが響いていた。

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