黒のアバンドーネ | ナノ


▼ 12:臙脂色の男

期限の1週間まであと1日。真島の手元に例のノートパソコンは無い。
夜翔烏の居場所を突き止めて密売組織の全員を痛めつけたが、すでにそれは他の者に奪われていた。

(一体どうなってんねん。何のデータが入っとるんや?)

とりあえずグランドに顔を出して、店の様子を確認しなければ。
真島はいつものように店内に入り、蝶ネクタイを締めてホールに出向いたが、いつもと違う雰囲気に眉間に皺を寄せた。開店してから1時間以上経過しているというのに、客の声もバンドの賑やかな演奏も聞こえない。聞こえるのは癖のある男の声と数人のホステスの声、そして美流のピアノの音だけだ。
声はステージ正面の席から聞こえてきた。急いで向かうと、ホステスの胸やらお尻やらを触りまくっている臙脂色のスーツを着た1人の男。美流は怯えた表情でピアノを弾いていた。

「当店は、淫らな行為は禁止です……お客様」

真島が怒気を含んだ低い声で男に言うと、支配人の登場にホステスたちは慌てて男の手を払い、ばつが悪そうに下を向いた。

「ほう、あんたが真島君かいな。堅いこと言わんと楽しくやろうやぁ、なぁ」
「ですが、それが当店のルールです」
「……ハイハイ、それはえろうすいませんでしたぁ。ただ、コッチもちゃぁんと真島君の店に迷惑掛けんよう気ぃ遣うたんやで」

男が顎をしゃっくた先に目をやると、雪崩のように床に崩れた札束の山があった。これで店を貸し切りにしたらしい。男は手でホステスと美流に席を外すよう促す。

「お前、何モンや?」
「そう怖い顔せんと、真島君もそこ座りぃ。ワシはなぁ、鬼仁会っちゅう看板掲げさせてもらってる西谷ってもんや」
「鬼仁会?」
「せや。今日はあんたと取引しとうてここに来たんや」
「取引?」
「真島君の代わりに、貰うてきたで」

西谷はどっかりと腰掛けていたソファから背を浮かすと、手を回して隠していた黒い物体を高々と持ち上げてテーブルの上に置いた。それは紛れもなく真島が探していたノートパソコンだった。

「あんたの依頼主、佐川が頼んだ品や。ニセモンちゃうで」
「なぜ、これを……」
「ワシはこのパソコンはどうでもええねん。こん中に入っとるデータが欲しいねん」
「データの中身はなんや?」
「へへっ、そら言えんわぁ。ワシも人に雇われて動いとる。それにアホの佐川は知らんやろうけど、これにはパスワードが掛かっとんねん」
「パスワード?」
「せや。今日ワシがお邪魔させてもろたのはその件や」

パンパン、と高らかに西谷が手を鳴らすと、西谷の部下が女を引きずるようにしてステージに現れた。

「ナツメちゃん!」

連れて来られたのはナツメだった。いつからそうされていたのか、私服のままで髪も乱れている。

「は? ナツメちゃん? 美流ちゃんちゃうんか?」
「だから何度も言ったでしょ! 私は美流じゃなくてナツメよ!」

西谷は「そら、すまんかったなぁ」とナツメに謝り、部下の1人を思いきり殴り飛ばし
た。

「お前……、ヘマしよったな」
「す、すんません親父! 真島の彼女や聞いて、この女と真島が一緒にいたんでてっきり」

その会話を横で聞いていたナツメが、恐ろしい顔つきで控室を指さした。

「美流はさっきピアノを弾いてた女よ」

西谷は一瞬驚いた表情をしたが、探す手間が省けたとナツメを「ええ子やな」と褒めた。すぐに西谷の部下が美流を強引にステージへと連れてきて、西谷の前に突き出した。

「巻き込んでしもて迷惑掛けたなぁ。さ、ナツメちゃんはもう帰ってええで」

その声にナツメは一言も話すことなく歩き出し、美流の許に勢いよく迫り寄った。そして……

パシンッ――

乾いた音がホールに響いた。ナツメは美流の頬を平手打ちした。白い美流の頬は見る見るうちに赤くなった。

「美流のせいよ! なんで私がこんな思いしなきゃならないのよ!」
「あら? こりゃ修羅場ってやつかいな?」
「あんたは黙ってて! ねぇ、支配人の彼女ってどういうこと? 私が告白するって知ってて支配人を奪ったの? それとも前から付き合ってて私に嘘ついてたの? 親友とか言っといて、サイテーな女ね!」
「ナツメちゃん! 言い過ぎや! それに、俺らは付き合うてへん」

真島の鋭い声にナツメの肩がびくりと動いたが、怨めしそうな顔で美流と真島を睨んだ。

「……支配人も、美流も大嫌い!」

ナツメは逃げるようにグランドから出て行った。その様子を見ていた西谷は「もうエエか?」とヘラヘラと笑っている。

「その子放せ! ミルちゃんは関係あらへん!」
「そう思うとるのは真島君だけやで」
「なんやと?」
「気になるなら、力づくでワシから聞き出してみるか?」
「……俺は、店ん中で客殴られへん。この店の支配人としての流儀や」
「ほう、じゃあこれなら殴れるやろ?」

西谷は美流の頭を掴んで首元を露にさせると、蛇のように舌をうねらせて美流の首筋に這わせようとしている。

「ひっ」
「やめろっ!」
「ワシは強姦魔や、客やない。これで遠慮なく殴れるやろ? さぁ、楽しませてくれや、真島君」





何度も繰り返されていた重く鈍い音が止み、男二人の荒い息遣いだけが聞こえる。西谷は真島との喧嘩に満足した様子で、先程ほどまで座っていた席に腰を下ろし、乾いた喉を潤すように飲みかけだったシャンパンを一気に飲み干した。

「さあ教えろや。さっき言っとったのはどういう意味や?」
「ええで。……なぁ美流ちゃん、美流ちゃんはちっさい頃に親が離婚して今の苗字になりよった、せやろ?」
「話が見えん。早よ言えや!」
「苗字が変わる前は、上月美流。アンタ、上月巧の娘や」
「コウヅキ、タクミ?」
「この子、ヤクザの娘や」
「なっ……!」

青白い顔をして放心状態だった美流は、床に崩れるように倒れた。真島が抱き起したが意識はない。

「このノートパソコンはその子の父親のモンや。せやけどパスワードが掛かって開かれへん。そのパスワード、美流ちゃんが知っとる」
「そ、そないなこと、わからへんやろ!」
「まぁ、どちらにしろその状態じゃパスワードは聞けへんし、真島君も佐川にノートパソコン渡さなマズいやろ。ええ喧嘩させてもろたお礼にそれはプレゼントや。ただ、間違いなく面倒なことになるで」

西谷はスーツの汚れを手で払い、部下に「帰るでぇ」と告げて真島に背を向ける。

「面倒になるってどういう意味や?」
「佐川もある程度上月の娘のこと探っとるやろ。データが開かれへん上に美流ちゃんが上月の娘やバレたら……そんくらい、どうなるか真島君ならわかるやろ」
「お、おい待てや! 西谷!」
「ワシもパスワード聞かなあかんし、ノートパソコンも真島君に奪われてしもた。……またな、真島君。次、ワシに会うまでうまいことやってくれや」

部下を連れて西谷がグランドを出て行くと、すぐさま店長が真島の元にやってきた。

「支配人! だ、大丈夫ですか? あのお客様は?」
「貸し切りは終いや。これから通常営業の準備せい。それとすぐに車裏口に回せ」

真島は美流を抱きかかえ、従業員専用の出入口へと急ぐ。タクシーはすぐにやってきて、店長から美流の荷物とノートパソコンを受け取り、急いで車に乗り込んだ。ドアが閉まり、どちらまでと聞かれたが病院名がわからない。何か書いてあるものはないかと美流のバッグを漁っていると、運転手がミラー越しに美流の顔を見て「あれ?」と声を出した。

「その子、この前自宅で発作を起こしたとかで病院まで送りましたよ」
「そうなんか! 急いでその病院まで頼むわ!」

動き出したタクシーの中で美流は真島の膝に頭を預け、意識を失ったままでいる。赤く腫れた美流の頬にそっと手をやると、真島の掌にじんわりと頬の熱が伝わってきた。

(ミルちゃんがヤクザの娘? 何かの間違いや……)

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