黒のアバンドーネ | ナノ


▼ 11:伝えられない指

体調を崩していないだろうか……。
真島と顔を合わせることが少なくなった美流は、ピアノを弾きながら客席を見渡す癖がついた。その回数が日に日に増えていることは、美流自身気づいていない。

(やっぱり今日もいない。真島さんどうしたんだろう……)

仕事の休憩中、店長を呼び止めてそれとなく真島のことを聞いてみた。

「なんだか最近すごく忙しいみたいなんだ。顔は出してくれてるんだけどね、何か用だった?」
「いえ……最近支配人の姿が見えなかったので、どうしたのかなと思って」
「神崎さんのこと『無理してへんか?』って心配してたよ」

その言葉をそのまま真島に返したい。
仕事が終わり家に帰る途中、夜の道端にぼんやり浮かぶ電話ボックスが目に入った。美流は呼び寄せられるように電話ボックスの前まで行き、薄汚れた扉を開いた。中から淀んだ空気が一気に外へと放出される。狭い空間に身を潜めるようにして扉を閉めると緑色の受話器を取った。片方の手にはポケベルを持ち、表示された真島からの "0833(おやすみ)" のメッセージを見つめる。
何も考えずにここへ来てしまったが、なんてメッセージを送る?
1052167(どこにいるの?)それとも思い切って11014(会いたい)と送ってしまおうか?
1のボタンに人差し指を置いてはみたものの、その指を動かすことができない。ただ並んでいる数字を押す、それだけなのに、送ってしまった後のことを考えると美流の指が震えた。
どの位そうしていたのか、いつの間にか電話待ちをしていた中年の男性が電話ボックスのガラス戸を乱暴に叩いた。

「ネーちゃん! 電話してへんなら代わってくれや!」
「すみません、どうぞ」

美流は慌てて外に出た。
結局メッセージは送れなかった。でも、それでよかったのだと美流はネオンに染まった夜空を仰いだ。会いたいなんて送っても迷惑なだけだ。
コートのポケットに、ポケベルを握りしめたままの左手を突っ込んだ。





「今のところ聴力は安定してますね。このまま頑張ってお薬を続けましょう」
「はい、ありがとうございました」

美流は持病の検査と薬を貰うために病院に来ていた。1ヶ月分の薬を大きな紙袋で受け取ると、自分の薬を待っている他の客がどれだけの重病なのかと好奇の目で美流を見る。視線が痛い。
足早に薬局を出たところで、バンドマスターの岡から編曲を頼まれた楽譜をグランドの控え室に置いてきてしまったことを思い出た。自宅まで遠回りすることになるが取りに行かなければならない。
招福町から歩いてもうすぐ毘沙門橋というところで、見慣れた後ろ姿が美流の目に入った。黒のジャケットにあの下気味のポニーテール、背の高さから間違いなく真島だった。

「真島さ……っ」

久しぶりに見る真島の姿に嬉しさを含んだ高めの声色で名前を呼んだ。が、それは一瞬にして止んだ。真島の傍に駆け寄る女性の姿が目に入ったからだ。

「ナツメ」

待ち合わせをしていたのかナツメは真島の腕に手を絡め、二人は美流に気づくことなく目の前を歩いていく。
着飾ったナツメは美しく、真島とお似合いだと思った。

「告白するって言ってたもんね。真島さんも元気そう……良かった」

金縛りにあったかのように固まった身体を無理矢理動かし、美流は踵を返した。
今日はやけに人通りが多い気がする。たこ焼の屋台から漂ういい匂いに釣られているのだろうか。今度行ってみようかな。あぁ、手にしている紙袋がずっしり重い。1ヶ月分だ、重いに決まってる。
余計な事を考えないように、今は見えているものだけに意識を集中して、美流はただひたすらに歩き続けて自宅に戻った。
コートを脱ぎ、テーブルに薬の入った紙袋を置いて、洗面所でうがいと手洗いをする。排水溝にコポコポと音を立てながら白い泡が吸い込まれていく様を見届ける。今までと何も変わらない。変わらないはずなのに。
濡れた手をタオルで拭いて寝室に入った瞬間、抑えていた感情が堰を切って、美流の目からぽろぽろと涙が溢れ出した。
昨日、メッセージを送らなくて本当によかった。あの男性がガラス戸を乱暴に叩いてくれてよかった。会いたいなんて送っていたら、真島にとってはいい迷惑だっただろう。
体調を崩してこの部屋で休んでいた時、早く帰りたかったのはナツメが待っていたからかもしれない。ナツメが告白すると言っていたのに、看病なんかして、調子に乗って帰り際にご飯やおかずを渡したりして。
迷惑な客に絡まれた時、真島は『当店の大事なピアニスト』と言っていた。親切にしてくれるのも、優しくしてくれるのも、グランドの従業員だからで、それ以上でもそれ以下でもない。それなのに。

「真島さんが……、好き、だった、ん、だ」

美流はベッドの縁に身を伏せて泣いた。もうベッドには真島の煙草の香りも香水の香りも残っていなかった。

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