黒のアバンドーネ | ナノ


▼ 08:押し寄せるさざ波

あの一件が夢であったかのようにグランドは相変わらずの盛況ぶりだ。美流もあれから体調を崩すことはなく、より一層演奏に磨きが掛かり大きく店に貢献している。ピアニストとして働き始めてから早一ヶ月が経とうとしていた。
季節が移ろい外套を羽織らなければ身震いしてしまう寒さがやってきた頃。いつものようにバンドメンバーとの反省会を終え、帰り支度をしている美流の許へナツメがやってきた。

「美流、お疲れ〜! 今日も最高の演奏だったね!」
「あ、ナツメ! 今日のお客さんは大丈夫だった?」
「それがもう最っ悪だったの! ずっと太腿擦られてさぁ、あのエロジジィ!」

よく耐えたねと美流はナツメを労った。本当に大変な仕事だ。興味のない男性から興味のない話を聞かされ、機嫌を損ねないように気遣って。ホステスとはそういう仕事だけれど、見え隠れする男性の下心、客によっては露骨にさらけ出された欲望を間近で感じながら笑顔で対応している彼女らを見ていると、身を削るという言葉の意味が良く理解できる。
ついつい盛り上がって長話となってしまったところに真島がやってきた。

「お二人さん、もうそろそろ店閉めるで」

ナツメはすいませーん、と可愛く謝った。こんな風に謝られたら大半の男性は許してしまうだろう。整った顔立ちで化粧映えするナツメは "可愛い" よりも "美しい" がぴったりだ。

「ミルちゃん、今日もノってたなぁ。体調はどや? 悪くなってへんか?」
「大丈夫です。ありがとうございます」

あの日以来、真島は毎日美流の体調を確認するようにした。支配人としてというより、美流の病気のことを知っているのは自分しかいないのだという使命感のようなものがそうさせている。

「店におるの、ミルちゃんとナツメちゃんだけやで」
「ごめんなさい、もう帰りますね。……あの、支配人。よければご飯行きませんか?」
「すまんなぁ、これからちとやらなあかんことあんねん。また今度頼むわ」

あれ、ひょっとして。
そうですかと目を伏せたナツメの表情を目の当たりにして、美流は女の勘が自然と働いた気がした。一瞬ナツメが見せた苦笑いと妙な雰囲気の空気感。二人で話していた時と全然違う。

「帰ろうか、ナツメ」
「そうだね」
「ほな、気をつけて帰るんやで」

真島は従業員専用の出入口まで見送ってくれた。
再び二人きりになったが、ナツメの様子は和やかに話していた時とは明らかに違っていて、間違っても「二人でご飯行く?」とは言えない。
ナツメと美流の家は真逆の方向にある。「それじゃあまた明日」と自宅がある方向に美流が身体を向かせようとした時、ナツメが美流を呼び止めた。

「ねぇ、美流は支配人のこと、どう思ってる?」
「え? えっと……、頼りになる優しい支配人だと思ってるよ」
「じゃあ、男の人としては?」
「……そんな風に見たことないっていうか、考えたことなかった」
「そう。私はね、支配人のこと好きなの。ずっと前から」

やっぱり、そうなんだ。美流はさっき見た表情を理解したが、なぜ今そんな話をするのか、ナツメがどんな言葉を望んでいるのかわからず何も言えずにいた。

「今度ね、告白しようと思ってる」
「そう、なんだ」
「美流は支配人と仲がいいみたいだから、支配人が好きな物とか欲しい物とか聞いたら教えてよ」

それじゃ、また明日。
ヒールの音を響かせて颯爽と歩いていくナツメの後ろ姿を美流は呆然と見つめていた。なんとも言えない胸に広がる濃霧のような重苦しい感情を抱えて美流もナツメに背を向けて歩き出す。

『男の人としてどう思ってる?』耳にこびりついた言葉は美流の思考を真島で埋め尽くした。
ゆっくり歩いてあしたば公園まで来た時、頭を撫でて慰めてもらった記憶がふと甦る。

「仕事以外の俺は、真島吾朗や……」

美流は真島が言っていたことをそのままぼそりと呟いた。そういえば眩暈を起こして倒れた時も『二人きりや、真島でええ』と言っていた。
支配人ではなく、真島さんとして私はどう見てるんだろう……。
そんなことを考えながら玄関の鍵を開け、暗くなった部屋の電気もつけず、外套を脱がないまま美流はベッドに身体を沈めた。
毎朝ピアノを奏でているのを真島が遠くから眺めていることを知っている。
あの酔っぱらいから身を挺して守ってくれたことを知っている。
眩暈を起こした私を介抱してくれたことを知っている。
必死に腕を拭いてくれていたことを知っている。
しかしそれは私がグランドで働く従業員で自分が支配人だからではないのか。
身体と一緒にベッドに投げ出したバッグからポケベルが飛び出している。電源を入れるとあの日真島がくれた "0833(おやすみ)" の文字が表示された。

「眠れそうにないです、真島さん」





結局美流は一睡もできずに出勤時間を迎えた。どんな顔をしてナツメや真島に会えばいいのかわからない。ピアノを弾き出してさえしまえば接する時間も少なくなる。誰にも会わないことを祈り、自分の気配を消してそっとグランドの店内へ。
その頃、真島は事務室にあるソファに倒れるように横になっていた。

(だっる……。久々に風邪引いてしもたやろか)

昨日は遅くまで他店の情報収集やグランドの顧客チェック、売上状況の確認などをやっていて家には帰れなかった。帰ったところでまともな睡眠はとれないが、この硬い窮屈なソファでは身体が休まるはずもない。あまりのだるさにしばらく目を閉じていたが、薄っすらと聞こえるピアノの音色に気づいて重たい身体を無理矢理起こした。

「ミルちゃん、もう出勤したんか」

事務室を出てステージを見ると、今日も規則正しく白い指が鍵盤の上を滑っている。しかし、いつもなら楽しそうにピアノを弾いている美流だが、無表情のまま、寂し気な旋律を奏でている。その様子が気になり、真島は吸い寄せられるように美流の許へと足を運んだ。

「今日はやけに早いんやな」
「支配人! お、おはようございます」

美流がピアノを弾くのを止めると、針を落とせばその音が聞こえそうなほどホールは静まり返り、二人の呼吸音が大きく聞こえた。

「何かあったか?」
「いえ……、何も」

真島は美流の傍まで歩み寄り、ピアノに寄りかかって美流の顔を覗き込む。

「ほんまに何もないんか?」
「はい」
「あないに寂しい曲弾いといてか? ミルちゃん嘘つくのヘタやな」
「……すみません」

そう言ってから「あっ」と美流が慌てて口を押えた時には、真島がくつくつと喉を鳴らして笑っていた。

「ミルちゃんの悪い癖、出てしもたな。罰ゲーム、覚えとるか? もしなんも用事ないんやったら、今晩飯付き合うて欲しいわ。昨日家に帰ってへんのや。……どや?」

どうしてこのタイミングで真島さんが私のところに来るの?
どうかナツメに見られませんように、と美流は心の底から願った。

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