黒のアバンドーネ | ナノ


▼ 07:近づく心、離れる心

真島が控え室に戻ると、美流はまだ眠りの中にいた。少し落ち着いたのか苦しそうだった表情は穏やかになり、規則正しい呼吸音が聞こえる。
心地良い寝息に真島は口元を緩めながら、事務室から持ってきたタオルを洗面台で濡らし、美流の右手を取って指先から肘までをそっと拭く。

(こないに綺麗な手、あのド阿保に……)

支配人などという肩書きさえなければ、あの男に思い切り罵声を浴びせて気が済むまで殴っていたことだろう。
丁寧に美流の腕を拭き、タオルを洗い直してまた拭く、という行為を繰り返す。美しくしなやかな美流の手が汚されてしまったのが許せなかった。
何度目かタオルを絞って振り向くと、目を覚ました美流が上半身を起こして真島を見つめていた。

「ミルちゃんっ! 大丈夫か?」

タオルを投げ出して、まだ身体をふらつかせている美流の隣に座り肩を支えてやると、完全に覚醒していないせいか、美流は素直に真島の腕に身体を預けた。

「無理したらあかん」
「真島さ、……支配人」
「二人きりや、真島でええ。起こしてもうたか?」
「もう大丈夫です」

テーブルの上には蓋が開いたままのペットボトルと人前で出すことのない薬の入ったポーチ、そして錠剤が取り出された薬剤の包装シート。真島が薬を飲ませてくれたことを思い出し、美流はお礼を言った後、病気のことを話し始めた。

「重い病気なんか?」
「耳の病気なんです。左耳、おかしくて」

発症したのは一年前、突然左耳が聞こえなくなった。原因は不明。こういう場合、大抵ストレスで片付けられてしまう。毎日薬を飲んである程度は回復したものの、一部の音が音として聞こえなくなってしまった。またストレスや疲れが溜まることで聴力のバランスが崩れ、今回のように眩暈の発作が起こってしまう。

「先日お食事した時に私がお酒を頼まなかったのは、薬のせいでアルコールが飲めないからなんです」
「じゃあ、帰りにオッサンとぶつかったのも、後ろから歩いて来とったことに気づかへんかったからなんやな」
「あの……私、クビですか?」

ピアニスト失格ですよね、と美流は俯いた。
美流がナツメに連絡をする前、勤めていた店と交流のあった店の面接を受けていた。仕事に支障が出てはいけないと正直に病気のことを告げれば『耳が悪いのにピアニストっていうのは』『病気を治してから働いたほうがいいんじゃないか』と門前払いされた。

「この病気は完治しない人もいるみたいで……。でも、どうしてもここで働きたかったから、病気のことを言い出せませんでした」
「弾けてるやん、ミルちゃん」
「……え?」
「身体がツラなったら他のメンバーがサポートすりゃええ話やろ。ミルちゃんに辞められたら俺困るで。絶対クビになんかせぇへん」

安心せぇ、とあの日の夜のように優しく頭を撫でられた美流の目が滲む。
病気のことが広まるのが嫌で誰にも話していないと真島に伝えると、二人だけの秘密にすると約束してくれた。

「真島さんは、左目、どうしたんですか?」
「……あぁ、ちょっと事故でな。片方はちゃんと見えとるから問題あらへん」
「辛かったですね」

悲しそうな表情で見つめる美流の目から真島は思わず視線を逸らした。
拷問で左目を潰されたと言えるはずもないが、まっすぐなその目に見つめられると、口が勝手に動いて話してはいけないことまで全て打ち明けてしまいそうで。

「俺は右だけでも充分楽しく生きとる」
「じゃあ、私と一緒ですね。私もほぼ右で音を聞いてますから」
「ほな、お互い左側には気ぃつけんとな」

美流はそうですねと微笑むと、すぐ傍にある真島の手に自らの手を重ねて目を閉じた。

「ミルちゃん?!」
「……消毒、させてください。すごく気持ち悪かったんです」
「お、俺の手なんか消毒にならへんで」
「守ってくれましたから。またあんなことがないようにお祓いです」

美流の手はひんやりしていた。消毒したかったのは真島も同じで、なんとかあの男の穢れを落としたくて何度も美流の手を拭いていた。そのせいで手が冷えてしまったのだろう。触れている部分がやけに熱くて、ドクン、ドクンと血管が脈打っている。

「もうそろそろ、ええか?」

しばらくそうしていると全身が脈打っているような感覚になり、これ以上はまずいと真島はさっと手を離した。

「す、すみません……。変なこと、しちゃいました」
「ミルちゃん」
「はい」
「次、俺に謝ったら罰ゲームな」

驚いて目を丸くする美流を見て、真島が嬉しそうに笑った。

「俺とまた晩飯や。……さ、今日はもう帰ってゆっくり身体休めたほうがええ。タクシーで家まで送ったる」

無理して明日休まれたら困ると美流を納得させ、タクシーを呼ぶのに真島が控え室を出ようと扉を開けるとナツメと鉢合わせた。

「し、支配人」
「ナツメちゃん! ミルちゃん心配して来てくれたんか?」
「はい。遠くから美流が倒れるところ見てたので……。美流、大丈夫?」
「うん、心配かけてごめんね」
「今日は帰るの?」
「無理させられへんやろ? 支配人命令で休ませることにしたんや。また頑張ってもらわなあかんからな」
「そうだったんですね。美流、ゆっくり休んでね」

笑顔で手を振るナツメの表情とは裏腹に、その声は淡泊なものだった。
二人並んで控え室を出る真島と美流の背中を見送りながら、自分にしか聞こえない声でナツメはぼそりと呟いた。

「支配人……、美流とずっとここに……」

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