黒のアバンドーネ | ナノ


▼ 06:忍び寄る足音

バンドのメンバーたちは開店の一時間半ほど前に出勤して、楽器の調整や音出しを始める。美流はメンバーの誰よりも早くにグランドにやってきて、まだ照明が照らされていない薄暗いステージに上がり、ピアノを弾いて指を慣らす。規則正しいリズムで次から次へと変わっていく音階が気持ちよくホールに響く。
その音が聞こえ始めると、真島は行っていた作業の手を一旦止めて、美流を遠くから眺めるようになった。鍵盤の上をしなやかに動く指を見ては、あの指はどうなっているのかと目が離せなくなってしまうのだ。
真島が美流の手を握った時、その手は小さかった。それなのにどうやったらこんなに澄んだ音色が出せるのか不思議でならない。
時に強く、時に柔らかく。憂鬱だった開店準備に幾分やる気が出るのは、このわずかに訪れる穏やかな時間のせいなのかもしれない。
そんな時間を繰り返して一週間が経った頃、順調に営業していたグランドに不穏な空気が流れていた。

「お客様! こちらから先にはお進みいただけません!」
「なんでや? もっと近くで見たいだけ言うとるやろ! なぁ神崎ちゃん」

以前、美流を気に入って自分の近くに呼べと言っていたあの客だ。かなり酒に酔っていて今にも暴れる勢いでボーイに絡んでいる。演奏を中断するわけにもいかず、美流は不安げな表情を浮かべながらピアノを弾き続けていた。

「お客様っ」
「うるさいボケ! おぉ、神崎ちゃん……やっぱり近くで見るとベッピンや。さ、ピアノなんか弾かんとわしんとこ来い」
「や、やめてください!」

バンドの演奏が止まった。ボーイは男に体当たりされたはずみで倒れ、美流の悲鳴に近い声がホールに響いた。
細い手首は肉付きのいい男の手に掴まれ宙に浮き、強引にステージから引きずり降ろされそうになる。なんとかその場に留まろうと腰を引いて拒んでミルが、手首に走る痛みのせいで力が入らない。

「色白で可愛い手やなぁ」

ねっとりとした男の舌が、美流の手首から肘までべろりと舐め上げた。

「やっ……」
「へへっ、ええなぁ」
「お客様」

男の背後でぞっとするほどの低い声が聞こえた。
怒りの色を滲ませ、ステージに向かってカツカツと床を蹴る足音は一歩踏み込むごとにその強さと速さを増している。

「あぁ?」
「その手を、お放し頂けますでしょうか? 以前お願い致しましたとおり、神崎は当店の大事なピアニストです。彼女に支障が出るようなことになりますと、当店としましても大変困ります」
「何が困るっちゅうんや! 就職祝い渡したやろ! それに見合うサービスしてもらわなこっちも困るわ!」
「お客様、重ねて申し上げます。これ以上営業妨害されますと……」
「したらなんやねんっ!!」

真島はぼそりと「しゃぁないのぅ」と呟き、すぐに男の手を捻り上げて美流を解放すると、バンドに場を盛り上げる曲を演奏するように指示を出す。
美流は手首の痛みと腕にはりついた唾液が乾いていく感覚に吐き気を覚えながらも指示に従ってピアノを演奏する。ちらりと横目で真島を見れば、男からの拳を華麗に身を躱して避けている。

(真島さんっ……!)

自分が言葉ではっきりと拒否していれば、真島を危険な目に遭わせることはなかったはずだ。
込み上げる怒りを抑える術は無く、それはピアノの音色に反映して激しいものへと変化していき、男がゼイゼイと息を切らして座り込む頃には曲の激しさは頂点に達していた。
真島はボーイに視線で合図を送る。他の客に許しを請い、暴れた客に奢らせるのがいつものやり方だったが、そうする余裕がないほど真島は怒りに満ちていた。

「ミルちゃんはあないにやっすい金額の女ちゃうわ」

ボーイに店からつまみ出される男の背後に向かって、吐き出すようにそう言った。
店内が拍手喝采で包まれた時、突如割れるようなピアノの不協和音がホール全体に響き渡り、全員の視線が美流に集中した。真っ青な顔で鍵盤に手を突き、今にも倒れそうな身体をなんとか堪えている。

「ミルちゃん! 大丈夫か?!」
「はぁ……はぁ……」
「あかん、控え室で休まな。俺に掴まれるか? 店長、岡チャン、あと頼むで」

真島は美流の身体を支えてバンド専用の控え室に連れて行き、急いでソファに寝かせる。美流は平衡感覚を失っているようで、足には全く力が入っていなかった。

「救急車呼んだほうがええか?」
「……すり、く、すりが、ポーチの中に……」

力無く指差されたバッグの中をすぐに漁り、小さなポーチを見つけて真島がそれを開くと、見慣れない数種類の薬が入っていた。

「ミルちゃん……、病気なんか?」
「いち、ばん大きい、錠、剤」
「一番大きいのやな。……これか?」

美流が頷いたのを確認して、一錠取り出し美流の口に入れる。上体を少し起こしてやり、ペットボトルの水を飲ませればこくりと喉を鳴らした。

「ごめん、なさい、真島さん」
「だから……謝んなや」
「少し、やす、めば、元に戻り、ますから」
「わかった。俺がおるから安心せい」

美流は頷いて目を閉じた。しばらく苦しそうに眉間に皺を寄せていたが、薬の副作用なのかいつからか静かに寝息を立て始めた。強い薬なのか名前を呼んでも気づかない程の深い眠り。
真島は毛布代わりに羽織っていたジャケットを美流の身体に掛けると、一旦店の様子を確認する為に事務室へ戻ることにした。
先ほど暴れた客は店から摘まみ出され、ホールにいる客やホステスたちは落ち着いている。真島は溜め息を洩しながら事務室の扉を開けた。

「よぉ真島ちゃん。何してたの?」

グランドのオーナー、そして近江連合直参佐川組組長である佐川が、事務室のソファで不吉な笑みを浮かべながら真島を出迎えた。

「……佐川はん」
「ド派手にやってたじゃない。見ごたえあるショーだったよ」
「来るなら来るで一言言うてから来てもらえまへんか? あんたの相手してる暇は俺にはないんや」
「はは、そりゃそうだ。なんたってあと5億稼がなきゃならねぇからなぁ」

あからさまに苦虫を噛み潰したような表情をしながら、真島は佐川が取り出した煙草に火をつける。どうやら売上金を取りに来たらしい。
夜の帝王として君臨する真島を褒め称えるようなことを言う佐川だが、真島にとっては侮辱以外の何物でもない。
佐川は用意されたビールをゴクリと一口飲んだ後、そういやさ、と続ける。

「あのピアニストの神崎って子、可愛いな。いつ入ったんだ?」
「一週間前や」
「いい子見つけてきたじゃん! あれだけ可愛いならホステスでもやっていけるよな。あの子、ここじゃなくて別の店で働かせたいなぁ。話しさせてくんねぇかな?」
「……今、眩暈起こして寝とる。持病があんねん。かかってる病院がここの近くにあるんや」
「なんだ、病気持ちかよ! そんな子雇うなんて利益になんねぇだろ。真島ちゃんのタイプだったのか? ま、別にその辺は興味ねぇけどよ。ヘマされて面倒事になるのは御免だからなぁ、神崎ちゃんはパスするわ。ただ……」
「なんや?」
「あの目、どっかで見た気がするんだよなぁ。ほら、お前がオッサンと遊んでた時にピアノ弾いてたろ? あの時の鋭い目、見覚えがあるんだよなぁ」
「他人の空似ちゃうか?」
「神崎ちゃんの下の名前、なんていうの?」
「……美流や」
「ふぅん、知らねぇなぁ……ま、いいや。神崎ちゃんにお大事にって伝えといて。じゃ、これからも頼むよ」

佐川はアタッシュケースを受け取って事務所を出て行った。佐川の言葉が胸に引っかかるが、美流を他の店にやられなかったことに安堵した。なんとかうまく誤魔化せたようだ。

「チッ、すぐ戻る予定やったのに。ミルちゃんの様子見に行かな」

佐川と話してから30分以上が経過していた。真島は美流が眠っている控え室へと急いだ。

prev / next



◆拍手する◆


[ ←back ]



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -